終 女嫌いの英雄の最愛の人

 事件から一週間が過ぎた日、それなりに周囲の喧騒も落ち着いてきた頃。ロルフはヨアキムに改めて礼を伝えるために、姉夫婦の家を訪れていた。

 色々と迷惑をかけてしまったと言うのもあるが、何よりも自白剤から始まっての騒動については一応の感謝をしないでもない。勝手に薬を盛られたのは許しがたいが、おそらくこれがなければ自分の気持ちに気付くことも無かったと思うから。


「薬は全部飲んだ。これが記録帳だ」


「おお、忙しいところありがとな」


 ヨアキムはぱらぱらと記録帳をめくると満足げなため息をついた。いくつかの問診をして興味深そうにメモを取り、追加は要るかと問いかけてくる。

 ロルフは今までのことを振り返る間を取って、いやと言って笑った。


「もう必要ない。ありがとう、ヨアキム」


 もう女性に対して理不尽な嫌悪感を抱くことはない。父親のようになるかもしれないと怯えていたことも、そうならなければ良いだけのことだと理解した。

 ここまですっきりとした心境に至れたのは誰のおかげなのか、ロルフはよく知っている。


「……ほお〜? 随分と機嫌がいいなあ」


 変態魔術師の顔ににやけた笑みが広がったのを見て、ロルフは自身の失態を悟った。


「べ、別に……! 今日はたまたま気分が良かっただけだ!」


「へえ〜? お義兄様の知らないところで女の子とデートを重ねていたロルフくん? 何か良いことでもあったのかなあ?」


 あれは事件の後にヨアキムと今後の話をしていた時のこと、どうしてフィリップはエディットのことを恋人と勘違いしたのかという話になった。

 女嫌いを克服する特訓について白状したのは、治験を請け負った以上は薬以外に取り組んでいることがあると申告すべきだと判断したからなのだが、以来浮かれきったヨアキムはずっとこの調子だ。


「何もない。それ以上言ったらわかっているだろうな」


「はいはい、わかりましたよ。もう言いませんよ〜?」


 眼光鋭く凄んでやったのに、ヨアキムはまったく悪びれた様子もなく歌うように言った。このいやらしい笑い方、本当に殴りたい。

 羞恥と怒りに震えていたら、マリアがキッチンからリビングにやってきた。ヨアキムの助けを借りて、いよいよ重そうなお腹を庇いつつソファに座る。


「その、エディットさん? お姉様も会いたいなあ〜?」


 しかもこっちも同じテンションだった。揃って同じ笑みを浮かべる夫婦を無視して、ロルフは憮然としたまま茶菓子を口に詰め込んだ。


「そうだよなあ。マリアも会いたいよな〜?」


「そうよ、ご迷惑をおかけしちゃったもの。お詫びとお礼くらい言いたいわよねえ? お産で入院する前に一度くらい会えないかな〜?」


 ロルフは無言でコーヒーを飲む。

 これでエディットとのことを報告なんてしようものなら、どんな反応が返ってくるのか想像するだに恐ろしい。


 ——よし、しばらくは言わないでおこう。そして早めに帰ろう。


 決意を胸にカップをテーブルに置いたら、ソファの裏から手が伸びてきて肩を叩いた。見れば甥のケントがいて、初めて歩いた弟を見るような慈愛に満ちた笑みを浮かべている。


「……ロルフ兄、おめでとう」


 いや、なんだその表情と台詞は。

 まさか察したのか。一度も口には出していないはずなのに……?


「僕も実は彼女いるんだ。こんど紹介するね」


 僕もと言うことは、やっぱりバレている。

 というかケント、齢10歳にしてお前。


「マセガキめ。ちゃんと真剣なんだろうな」


「はは。やっぱりロルフ兄、変わったね」


 両親の夫婦漫才が続く中、ケントは嬉しそうに笑う。

 甥っ子の指摘があまりにも的確だったので、ロルフは思わず口をへの字に曲げた。賢い子供というのは、困難な戦局よりもよほど扱いづらいものだ。




 10歳の甥っ子に恋人がいるらしいという話をしたら、エディットは微笑ましげな笑みを見せてくれた。


「甥っ子さん、随分大人びているんですね。可愛い」


 ——可愛いのは貴女だろうが。


 殆ど喉元まで出掛かった台詞は、結局のところオレンジタルトと共に胃の中に流し込まれる運命を辿った。

 今日はエディットがロルフの家に遊びにきてくれており、二人は客間にてケーキを食べているところなのだ。

 それにしても休日仕様というのだろうか、今日のエディットはいつもより輪を掛けて可愛い。綺麗なラベンダーブロンドは一つに括らずに緩く巻いて下ろしているし、千鳥格子のワンピースは彼女の清楚な魅力をよく引き立てているように見える。


「研究者の息子だからなのか、妙に聡いんだあいつは」


「ふふ。将来が楽しみですね」


 エディットがまた笑った時、ノックの音が響いた。ティーポットを手にしたトシュテンが現れて、おかわりはどうかと聞いてきたので、二人とももらうことにする。


「メランデル様、お味はいかがですかな?」


「はい、ケーキもお茶もすごく美味しいです。ありがとうございます、トシュテンさん」


 トシュテンは控えめに言ってものすごく、人はここまで感情を顔に出すことができるのかと思うほどの、嬉しそうな笑顔になった。

 エディットは「優しい執事さんだなあ」くらいに思っているようで、トシュテンの大袈裟なまでの喜色に疑問を抱いていない。ロルフとしては恥ずかしいので今すぐに表情を引き締めてもらいたいのだが、指摘することもできずに憮然とするしかなかった。


「実を申しますと、こちらのケーキは旦那様がお一人で買ってこられたものなのですよ」


「トシュテン!」


 これにはロルフも鋭い声をあげたが時既に遅し。

 トシュテンは「おお怖い」と言いながら部屋を出て行き、残されたロルフは驚きの視線に晒される羽目になった。


「本当、ですか? 大佐殿、お一人で……?」


 もてなしにどれほど手を掛けたのかなんて話はひけらかすものでもないと思う。しかし自身が一人でケーキ屋に行くことがとても重大な出来事であると、ロルフだって自覚している。


「まあ、お陰様でな。近頃は買い物で女性と接する分には、ほぼ問題なくなった」


 しかし残念なことに、ロルフは今も女性という生き物が好ましく思えない。ダニエラのようなタイプはもちろん、どんな人格の持ち主であろうとできることなら関わりたくないし、意味もなく会話をしたりだとか、そんなことは想像もつかない。

 長年の思想はそう簡単に変わらないのだ。しかし今は、それでも良いかと思うようになった。


 エディットだけだ。生涯で唯一、幸いを願った相手。彼女が側で笑っていてくれるなら、ロルフにはそれだけで十分に過ぎる。


「本当にもう、平気になられたのですね。わざわざ買ってきて下さっただなんて、嬉しいです」


 それは花開くような微笑みだった。今までだって何度となく笑ってくれたはずなのに、ロルフは初めてエディットの笑顔を見たような気がした。

 どうしてそう感じたのかは、考えてみればすぐにわかる。

 エディットはたぶん、女嫌いのロルフに近づき過ぎないように遠慮していたのだ。優しい気遣いを今更のように自覚したら、愛おしくて胸が痛くなった。


「あの……」


 エディットが躊躇いがちに口を開く。どうしたのかと目線で促すと、何やら鞄の中に手を入れて茶色の紙袋を取り出してきた。


「実は、クッキーを作ってみたんです。久しぶりに祖母のレシピで作りたくなりまして」


 よかったら召し上がってくださいと渡された紙袋を、ロルフは茫洋とした面持ちで受け取った。

 礼を言えたのかすらよくわからない。微かに生姜の香りがして、かさついた紙袋の重みが温かく感じられた。


「大佐殿? もしかして、ジンジャークッキーはお嫌いでしたか?」


 急に反応を返さなくなったロルフのせいで、エディットが寂しそうに目を伏せた。


 何をしているんだ、と心中で己を罵る。今までこの口下手でどれほど彼女を傷つけたと思っているんだ。嬉しいと本心を言うだけだろうが。


「そんなことはない! 大好きだ!」


 殆ど衝動だけで言葉を返すと、少しの間ののちに、エディットは安堵したように笑ってくれた。少しだけ頬が赤くなっていた理由には思い至らず、ロルフは浮かれるまま袋の中身を覗いた。


「今食べても構わないか」


「はい。お口に合うと良いのですが」


 伝統の丸い形をしたクッキーを取り出してみる。何だか手が震えそうなくらい感動して、なかなか口に入れることができずにしげしげと眺めてしまう。


 そうしてじっくりと食べたクッキーは、今まで食べた菓子の中でも一番優しい味がした。

 生姜の香りと、バターの芳醇な味わい。紅茶と共に食べれば、どんなに冷え切っていても心と体が温かくなるだろう。


「……美味いな」


 ぽつりと素直な感想を溢すと、エディットは輝くような笑みを浮かべた。本当に光っているのではないかと思うほどに眩しい笑顔だ。


「本当ですか?」


「ああ。エディットの作ったクッキーが世界で一番美味い」


「えっ……! あ、ありがとうございます……」


 エディットは頬を真っ赤に染め上げると、恥ずかしそうに俯いてしまった。

 本当のことを言っただけなのだが、褒めるにしても芸が無さすぎたのだろうか。


「どうしたんだ?」


「い、いえ、あの……。名前を、呼んで下さったので……」


 どんどん尻すぼみになる言葉に嫌悪感が含まれていないことくらいはわかる。それでも流石に急すぎたのかと肝を冷やしたロルフは、取り繕うように口を開いた。


「嫌ならやめるが」


「いいえっ! 嫌だなんて、そんなことはありません!」


 慌てたように顔を上げたエディットの、クチナシ色の瞳と視線が交わる。

 美しい瞳だ。真摯で誠実な、思いやりにあふれる光が宿っている。この輝きに惹かれたことを、今のロルフはとっくに理解していた。


「嬉しいです。凄く、嬉しいんです」


 この素直な笑顔を守ることができるなら、命すら惜しくはないと思う。


 とても満ち足りた気持ちになって、ロルフは小さく笑った。それはマットソンあたりが見たら奇跡だと騒ぎ立てるであろう程の、穏やかな表情だった。






 〈もうこの恋はやめます。ー治癒魔術師は女嫌いの想い人の前から静かに去りたいー・終〉

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もうこの恋はやめます。ー治癒魔術師は女嫌いの想い人の前から静かに去りたいー  水仙あきら @suisenakira

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