32 初雪が降った日のこと
エディットはそのままたっぷりと警察による事情聴取を受けることになった。実は義兄だったというヨアキムまで警察署にやってきてロルフと共に平に謝られてしまい、気にしていないのでと二人を宥めたのは、中々に緊張する出来事だった。
そして聴取が終わり寮まで歩く最中、ロルフはエディットが巻き込まれなければならなかった理由を、最初から最後まで説明してくれた。
どうして女嫌いになり、どうして実家と絶縁状態に陥ったのかというところまで全て。ロルフは言いたくなかっただろうに、理由がわからなければ不安だろうと話してくれたのだ。
エディットは人目も憚らずに泣いた。かつての少年が守ってくれるはずの大人から受けた仕打ちにどれほど傷付いたのかと考えたら、腹が立って悲しくて仕方がなかった。
泣きながら怒るエディットに、ロルフは驚いた様な顔をしたが、すぐに仕方がないなと笑って涙を拭ってくれた。ぼやけた視界だったけれど、やけに清々とした笑顔を見せてくれたような気がする。
そうして寮に辿り着き、流石に疲れ切ったエディットはそこからの記憶が曖昧だ。
風呂にも入らず寝てしまい、起きたら月曜日の早朝だった。そう、大変な事件が起きようとも、時間だけは平等に巡るのだ。
大浴場でシャワーを浴びて部屋に戻り、身支度をして食堂に向かう。まだ閑散とした中で朝食を平らげ新聞を開くと、やはり例の件が一面に載っていた。
『ダールベック伯爵夫妻逮捕 脱税と暴行その他容疑多数 告発したのは息子のロルフ氏か』
記事の内容は伯爵の容疑をつらつらと書き連ね、戦争の英雄の高潔なまでの勇気を讃え、さらに裏面では貴族の強権と政治の腐敗にまで議論を及ばせていた。
流石は鉄壁の英雄ダールベック大佐だ、と思う。本人はこうして持て囃されることは好きではないようだし、こんな事件で名前が出るのは不本意なのだろうけど。
——女嫌いがどうとかよりも前に、そもそも雲の上の人だよね。
解っていたことを改めて思い知らされて、エディットは切なく微笑んだ。
本当に、どうしてこんなにも分不相応な想いを抱いてしまったのだろう。しかも今回の事件を経て、まったく諦め切れていないことを実感したのだから始末に負えない。
家のことに関わるなんて申し訳ないから、自分の名前が載っていなくて良かった。
ロルフが気を遣って揉み消してくれた故のことだと知らないエディットは、安堵の溜息を吐いて食堂を後にした。
寮の玄関を出ると、窓から見た通りに初雪が積もっていた。北国であるこの国の冬は長く、もっとも厳しい時期には極夜が待っている。
今日はコートとマフラーも装備したし、雪用のブーツも履いて準備万端だ。雪を踏みしめたエディットは、門のところに黒い人影を見つけて歩みを止めた。
驚くべきことにそれはロルフだった。軍服の上にファーの付いた丈長の黒いコートを羽織り、雪の中に佇む様は絵になるとしか表しようがない。
どうしてロルフが、よりにもよって女子寮などに来ているのだろうか。
「大佐殿、どうなさったんですか?」
早朝なので人通りはなく、もう雪も降ってはいなかった。
白く染まった寮の前庭を走り出すと、ロルフが驚いたような顔をしてこちらを見る。
「おい、そんなに走ると……!」
「きゃあ⁉︎」
雪用のブーツを履いていたのに、残念ながらエディットは滑った。
体が宙に浮いた瞬間、革手袋に包まれた手が伸びてきて抱き止められる。微塵も揺らぐことのない頑強な感触に、性懲りも無く体温が上がった。
「大丈夫か」
「は、はい……。申し訳ありません。ありがとうございます……」
冷気に晒された頬が熱いのは走ったせいではない。ロルフは体勢を立て直すまでしっかりと支えてくれて、嬉しいのに恥ずかしくて、切なかった。
エディットは誤魔化すように白い息を吐いて、挨拶をするべく顔を上げた。
「おはようございます。あの、どなたかにご用事ですか?」
「ここは女子寮だぞ。俺がメランデル軍医少尉以外に用事があると思うのか」
もしそうなら取り次いであげようと思ったのだが、むっとした様子で言い返されてしまった。
「そうでしたか。もしかすると、事件のことでしょうか」
「それはまあ、そうだ。大変な目に遭わせてしまったから心配だった。昨日はよく休めたのか」
本当にそれだけの理由で彼にとっての魔窟に来てくれるだなんて思わなかったので、エディットは改めて驚いてしまった。
それに早く出てきたから良かったものの、通常の時間だったら人通りも増え、女性たちの注目を浴びる羽目になっていたはずだ。その時はどうするつもりだったのだろうか。
「申し訳ありません、すっかり眠っておりました……。大佐殿も調査で大変でしたでしょうに、私にできることがないかお電話くらい差し上げるべきでしたね……」
夢も見ずに熟睡したことを反芻して、エディットは赤面した。
恥入って俯いていると、笑みを含んだため息が頭上の空気を揺らした。顔を上げれば優しい苦笑がそこにある。
「休めたなら良かった。貴女は人が良過ぎだ」
「そうでしょうか……?」
「ああ。だから兵たちも慕うんだろう」
ロルフが歩き出したので、エディットもまた後に続く。
雪を踏みしめる二人分の足音と、二人分の白い息。官庁街の外れである道に人気はなく、朝の澄んだ空気を乱すのは自身の心臓の音くらいなものだった。
「ヴィクトルは一時的に我が家に住むことになった。ブローも一緒だ」
「まあ、そうでしたか。それは何よりだと思います」
「もっとも来年の3月には魔術学校の入試を受けるらしいから、受かれば寮暮らしだがな」
「きっと受かりますね。ヴィクトルくん、とても優秀ですから」
事情聴取の合間にロルフから聞いたところによれば、実のところ二人に血の繋がりはないらしい。
それでも見ている限りでは気が合うようだったから、きっと上手くやっていくだろう。
「リディア嬢については、ユングストレーム大将閣下の屋敷で雇ってもらえるそうだ」
「それは良かったです! 大佐殿が頼んで下さったのですか?」
「以前人手が足りないと仰られていたのを思い出したんだ。酷い目に遭っていたようだから、せめてそれくらいはと思ってな」
リディアはやはり、伯爵夫妻から折檻を受けていたらしい。
よく傷を負う彼女をヴィクトルはしょっちゅう庇っていたそうだ。
それでも防ぎきれないので、ヴィクトルはもう辞めたほうが良いといつも進言していたのだが、リディアは給料は良いし以前の職場とそんなに変わりはないと言って首を縦に降らなかったとのこと。
ある意味とんでもない根性の持ち主と言える。
「大佐殿は、やっぱり優しい方ですね」
エディットは小さく微笑んだ。
今回の話を総合すると、ロルフは巻き込まれただけの被害者でしかない。それなのにすべて背負い込んで、出来うる限り皆を助けようとしてくれている。
「俺は、別に……」
ロルフは決まり悪そうに目を逸らしたが、きっと照れているのだろうと今ならわかる。そういう不器用なところも含めて、この人のことが好きだと思う。
その時、ふと通勤途中の男性とすれ違って、あることに気付いたエディットは足を止めた。
——朝に一緒に出勤って……! 普通に、すごく、まずいんじゃないの⁉︎
どう考えても誤解される。連れ立って出勤する男女がいたら自分だってそう思う。ロルフと噂になるなんてそんな申し訳ないことはないというのに。
「……どうした?」
ロルフが二歩ほど進んだ先で振り返り、訝しそうに首を傾げている。
「あ、あの! ご心配いただきありがとうございました。私は後から参りますので、どうぞ先にお行きください」
「何故だ」
「えっ……! 何故って、それは」
ロルフが悲しそうに目を細めているように見えて、この後に及んで頭が勝手に都合のいい解釈をしようとするのだから可笑しかった。
エディットは俯いて、鞄のハンドルを握った手にぎゅっと力を込める。
そう、ずっと終わりにしようと思っていたのだ。もうこんな想いはごめんだ。不毛で、愚かで、ただ苦しいだけ。
「その、良くない誤解をされてしまうので……! 大佐殿に、ご迷惑をおかけするわけにはいきませんから!」
「迷惑ではない」
とても言いにくいことをきちんと伝えられたという達成感は、ロルフのよく通る声によって敢えなく吹き飛ばされた。
もしかすると耳が馬鹿になっていたのかもしれないし、幻聴を聞くくらい疲れていたのかもしれない。まさか現実の発言ではないだろうと自らに言い聞かせて、エディットはゆっくりと顔を上げた。
いつの間にか雪が降り始めていた。細かな白い粒がロルフの黒いコートの肩を飾って、こちらをじっと見つめる表情を静謐なものに見せていた。
それでも、彼の灰色の瞳は力強く、雄弁に心を語る。
「貴女のことが好きだ。だから、迷惑ではない」
言われた言葉をすぐに理解することができなくて、エディットはぽかんと口を開けた。
——今、なんて。
鼻の頭に雪の粒がくっついて、肌の熱に混じって溶けていく感触がした。それでもなお何も言えないでいると、ロルフは傷ついたように目を逸らして、背を向けて歩き出してしまった。
「あ……! ま、待ってください!」
エディットはまたしても走ったが、今度こそは転ばなかった。
ロルフより半歩前に出たところで歩調を緩めて、高い位置にある顔を覗き込む。やっぱり目を合わせてもらえない。いつものように眉を顰めて怖い顔を——いや、いつもより5割り増しで怖い顔だと言えるかもしれないが、エディットはもう怯まなかった。
「あの、今の、もう一度仰って下さい」
「…………嫌だ」
「そんな。私、聞き間違いかと思って何も言えなかったんです。ですから」
信じられない気分だった。聞き間違いのはずだと思うのに、勝手に胸がざわめいて期待したがるのだから、恋とはなんと愚かなものだろう。
もしこの時が現実で、先程の言葉が聞き間違いではないのなら、どうかもう一度言って欲しい。
「俺にとっては迷惑じゃなくても、貴女にとっては迷惑なんだろう」
「えっ……⁉︎ そんな、そんなこと、ありません」
「……本当か」
「本当です!」
ぴた、とロルフが足を止めた。エディットもつられて歩くのをやめる。睨むように見つめられたので負けじと背筋を伸ばすと、「一度しか言わないからな」と念を押される。
そうして、ロルフは先程より小さくくぐもった声で、同じ言葉をくれた。
どうしよう、とまず思った。じわじわと頬が熱くなっていくのがわかる。
こんな結末は夢見たことすらなかった。全然実感が湧かないのに、溢れる感情を止めることができなくて、クチナシ色の目の縁に涙が滲んだ。
どうして?
いつから?
だいぶ平気になったとは言っても、女性はお嫌いでしょう?
「……お忘れかもしれませんが、私、女ですよ」
たくさんの疑問で頭の中が一杯になっていた。けれど一つ一つ確認する余裕はなくて、結局のところ一番気になったことだけが口からこぼれ落ちる。
「忘れていない。忘れたことなど、ない」
ロルフが静かに首を振る。部下のような、戦友のような存在と思われていたのではなかったと知って、喉の奥がひきつれたように痛む。
「そんなことを仰ると、もう、特訓は終わったのに……会いに行って、しまいますよ」
泣くのを我慢したら声が震えてしまった。ぼやけた視界の向こうでロルフが息を呑んだのが伝わってくる。必死に両目を拭って顔を上げると、そこにあるのは想像したような驚き顔ではなかった。
「ああ。貴女が会いたくないと言っても、俺から会いに行くだろうな」
ああ、なんて優しい顔で、笑うのだろう。
本格的に泣いたりしたらきっとロルフが心配する。胸が一杯になって苦しくて、それでも何とか抗おうとしたら、結局のところ泣き笑いのような顔になってしまった。
「私も。私も、あなたのことが好きです」
笑顔で伝えられると思ったのに、実際に言ってみたら全然駄目だった。
本当はこんな言葉じゃ全然足りない。けれどロルフはまた息を呑んで、その後とても幸せそうに微笑んでくれたから、多分少しは伝わったのだろう。
少なくとも、今ここに女嫌いの英雄はいない。いるのは今想いを通じ合わせたばかりの幸福な二人で、優しく降り積もる雪だけがその光景を見つめていた。
これはやめる必要などなかった、恋のお話である。
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