31 一件落着です

「済まなかった……家の事情に、貴女を巻き込んでしまった。全部俺のせいだ」


 つむじのあたりから聞こえてくる声は、低く掠れていた。


「本当に、無事で良かった」


 身体を囲う腕の力はますます強くなり、痛いくらいだった。息苦しさを感じたところでようやく現在の状況に思い至ったエディットは、思わず林檎のように顔を赤くしてしまった。


 抱きしめられている。どうして。ロルフは女性なんて大嫌いで、できることなら触りたくないと思っている筈なのに。

 ああいやそっか、女とも思われていないんだっけ。烏滸がましいけど戦友みたいなもので。それに特訓が身を結んでかなり平気になっていたし。そういうことよね、わかってる。


「あ、あの……! は、はな、はなし、はなしてっ……!」


 しかしロルフに他意はないと解っていても、動揺してしまうのが乙女心である。

 盛大に噛みながらも何とか訴えると、ロルフが頭上で息を呑む気配がした。間髪入れずに腕の中から解放されたが、恥ずかしくて顔が上げられない。


「すまんっ……!」


「い、いいえ、いいえっ……!」


 嫌だったわけではないのを解ってもらいたくて、必死に首を横に振る。するとようやく冷静を取り戻したのか、ロルフが何かに気付いたように動きを止めた。

 無言で後ろに回り込んできたので何かと思ったら、どうやら縛られていることを確認したらしい。


「……すぐに解いてやる」


 低い声が怒りの深さを物語っていた。ソファの下にナイフがあることを伝えると、ロルフはすぐにそれを拾い上げて、拘束していた紐を切り始めた。


「なんでこんなところにナイフがあるんだ」


「リディアというメイドさんが、くれたんです」


 短い会話の間に紐は断ち切られた。数時間ぶりに解放された腕に血が巡って、肩が軋むような痛みを訴えている。


「大佐殿、ありがとうございます」


 エディットは万歳をして凝り絡まった身体を解し、振り返って頭を下げた。それでもロルフが怖い顔を緩めることはなく、今度は問答無用で手を取られてしまう。

 今日のロルフはおかしい。触れられたところが熱くなってしまうから、そっとしておいて欲しいのに。


「縛られていたところが跡になっている。痛むだろう」


「いえ、これくらい大丈夫ですから……」


「他力本願で申し訳ないが、魔術で治せないのか」


「できますが、別に痛くありませんよ」


 頬が熱を持つのを無視してあえて微笑んで見せたのだが、ロルフはさらに眉を寄せて、耐えかねるように言う。


「こんな痛々しい跡は見ていられない。頼むから治してくれ」


「は、はい……。大佐殿がそう仰るなら」


 やたらと強い圧に負けて頷くと、ロルフは安堵のため息をついた。治癒の魔術ですぐに跡が消え去ったのを確認し、エディットを促して歩き始める。

 廊下に出て驚いた。そこかしこのドアが軒並み開けっぱなしになり、所々に誘拐の実行犯らしき男たちが倒れているではないか。


「あの人達、大丈夫なんですか……⁉︎」


「俺の邪魔をしようとしたから気絶させた。生きているはずだ」


 良かった、殺してしまったのかと思った。というか一対多数なのに強すぎではないだろうか。

 色々とあまりにも規格外だったので、エディットは少しだけ笑ってしまった。フィリップと言い争っていて気がつかなかったが、どうやらロルフは必死になって人質を探してくれていたらしい。


 階段に差し掛かかったところで、ふいに奥の扉から女性が出てきた。

 艶ややかな黒髪を持つ匂い立つような美女だ。エディットは思わず視線を奪われてしまったのだが、ロルフもまた足を止めてその女性を見つめている。


 どうしたのかと見上げると、灰色の瞳が不思議なくらいに凪いでいた。この世でもっとも取るに足らないものを見るような乾いた視線を受けた女性は、ふと苦笑したようだった。


「あの人、失敗したのね。馬鹿みたい」


 ロルフは何も言わない。ただ冷えた目を細める仕草に、エディットは何となく感じ取った。

 女嫌いの原因に、この人は深く関わっているような気がする。


「そういうのがタイプだったの? どおりで興味ないはずよねえ?」


 女性はちらりとエディットを見遣り、くすくすと冷たい笑い声を響かせた。またしても誤解されていることに気付いたエディットは訂正しようと一歩足を踏み出しかけたのだが、ロルフに手で制されてしまった。

 女性の視線から庇うように、広い背中が視界を塞ぐ。


「……俺は解っていなかった。貴女は息子にまで見放された、ただの気の毒な人でなしだ」


「はあ? 何言ってるのよ」


「もう二度と会うことはないだろう。牢獄の飯が美味いといいな、ダールベック伯爵夫人」


 広い背中の向こうから息を呑む気配がした。ロルフがもう興味もないとばかりに歩き始めるので、ヒステリックに喚き始めた女性の顔を見ることは叶わなかった。


「何なのよ⁉︎ 昔からイラつくのよ! あんたみたいな、愛想の欠片もないガキが……! どうして旦那様はヴィクトルを選ばなかったの⁉︎ ふざけんじゃないわよっ……!」


 狂気と哀切が入り混じった叫びに思わず後ろを振り返りそうになるが、ロルフによって制される。「聞くな。耳が汚れる」

 エディットが見上げると、そこには自嘲するような、でもどこか清々したような笑みがあった。


「本当に、馬鹿みたいだな」


「大佐殿……?」


「いや。こちらの話だ」





 外に出たところで門の向こうから駆けてくる人影があった。


「兄上ー! はあ……やっと追いついたよ」


 黒い牧羊犬と共に走ってきたのがヴィクトルだったので、エディットは仰天してしまった。


「ヴィクトルくん? どうしてここに」


「あー、やっぱ捕まってたのか。ごめんね、エディットさん」


 ヴィクトルは肩を落として俯いてしまった。聞き間違いでなければ、彼はロルフを兄と呼んでいたような。

 エディットが驚愕の視線をロルフに向けると、ため息混じりの肯定が返ってくる。


「……弟だ」


「ええっ⁉︎」


 今日一日で驚くべきことが降りかかりすぎて、そろそろ処理しきれなくなってきた。呆然としていると今度は玄関からほっそりとした人影が飛び出してくる。


「エディットさん、無事ですか⁉︎」


 走り寄ってきたのはリディアだった。

 これにはエディットも安堵して彼女を迎えようとしたのだが、すぐにヴィクトルが間に入ってきた。


「リディア! ごめん、こんな時に側にいられなくて……無事かい? 酷いことはされなかった?」


「坊っちゃん? あの、私はエディットさんが心配で」


「俺はリディアが心配だったんだよ!」


「私は仕事をしていただけですよ……?」


 何やら噛み合わない会話をしている。それだけで彼らの関係性が解ってしまい、エディットは微笑ましい気持ちがした。


「ヴィクトル、警察への連絡はまだだったか」


「あ、そうか! 今してくるよ!」


 ロルフの指摘にヴィクトルが走り出す。玄関に消えたかと思ったら、すぐに指で丸を作って戻ってきた。


「すぐ来るって」


「よし、これで一応は片が付くな」


 淡々と頷いたロルフに満足げに笑ったヴィクトルは、エディットの方へと向くと勢いよく頭を下げた。


「ごめん、エディットさん。貴女が狙われていると知っていたのに、訳あって黙ってたんだ。本当にごめんなさい」


「……そうだったの?」


「うん。俺のことは、警察に突き出してくれていいから」


 リディアが小さく息を呑んだ。涙をこぼすのを我慢しているのか、震える声で話し始める。


「そんな。エディットさんは、私の傷を治して下さったのに……」


 坊っちゃん、なんてことを。

 悲痛な色を帯びた訴えを聞いて、ヴィクトルが顔を上げた。


「そうなの? エディットさん」


「ええ、きちんと見せてもらった訳じゃないけど、一応ね。リディアさんは私のこと、逃がそうとしてくれたの」


 先程の出来事を思い出して微笑むと、ヴィクトルはいよいよ沈痛な面持ちになって、自嘲じみたため息をついた。


「……そっか。いよいよ最低だな、俺は」


「ヴィクトルくん、何か理由があったんでしょう?」


 ヴィクトルは苦しそうに顔を歪めて答えない。ロルフも厳しい顔をして黙ったままで、エディットが見上げると申し訳なさそうに首を横に振った。


「話すと長くなるがヴィクトルの言うことは本当だ。……リディアといったか? 恐らく、彼女を救おうとしてのことだろう」


「なっ……! やめてくれよ、兄上!」


 背の高い兄を見上げたヴィクトルの顔が、闇の中でも分かりやすいほどの赤みを帯びる。リディアが予想もしないことを聞かされたように目を瞬かせているのを見たら、エディットはもう怒る気持ちなんて少しも湧いてこなかった。


「もういいよ、ヴィクトルくん。頑張ったね」


「……え」


「経緯はよくわからないけど、事情はだいたいわかるような気がするし。きっと悩んだんでしょう?

 今日は慰めてもらって嬉しかったから、それで帳消しってことにしましょう」


 慰めてもらった、とロルフが低い声で呟いたことには気付かず、エディットはにっこりと微笑んでみせた。ヴィクトルはしばらく唖然としたままだったが、やがて小さく吹き出すと、気が抜けたような笑みを浮かべた。


「はは、すごいや……ブローが懐く筈だよ」


 ひとしきり笑った末に、ヴィクトルは思い出したように両手を打った。今日あげた魔術石を持っているかと問われたので、ポケットを探って取り出してみる。


「あったわ」


「ごめんね。これ、返してもらっていいかな?」


「ええ、構わないけど」


 突然どうしたのかと訝しみながらも、ほのかな熱を宿した石を製作者へと渡す。


 するとヴィクトルは突如としてその石を振りかぶり、玄関に向かって放り投げたではないか。


 ロルフが何か罵るようなことを言った気がしたが、轟音を上げて玄関が爆発するのと同時だったので全く聞こえなかった。

 頬を撫でる温風を感じ、もくもくと上がる黒煙を呆然と眺める一堂の中、一番最初に口を開いたのは怒髪天をついたロルフだった。


「ヴィクトル、お前なんてことをするんだ!」


「あっはっは。あー、すっきりした」


「何がすっきりだ! 人がいたらどうする!」


「大丈夫だって、通報したときに確認したんだから。それに実はこれ、人を殺せるほどの威力じゃないやつだし」


「何だと⁉︎ あれほど俺を脅しすかしておいてこの……!」


 目の前で繰り広げられる兄弟喧嘩を見守っていると、不意にリディアと目が合った。お互いに状況を理解し尽くしてはいなかったと思うが、何だかおかしくなって、二人して笑った。


 遠くからサイレンの音が聞こえる。夜は更けて星が輝く中、事件はこうして幕を閉じた。

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