26 どうしても、思い出す
「……ようやく触れることができました。これで、もう大丈夫ですね」
その時、ロルフは何を言われているのかすぐに理解することができなかった。
夜の街を背景にした、エディットの綺麗な笑顔。一つにまとめられたラベンダーブロンドが靡いて街灯に照らされるのに、クチナシ色の瞳は逆光でよく見えない。
握手をしているはずの彼女が、今は酷く遠く感じた。
「もうお怪我なんてなさらないで下さいね。でも、また戦争が起きて、大佐殿がお困りになられたら……私が、必ず治します。どんな場所だって、駆けつけますから」
ああこれは、別れの言葉だ。
今日という日に対してのさよならではない。ただロルフだけを見つめてくれていた時間こそを、最後にしようとエディットは言っているのだ。
女嫌いがほとんど改善されたのだから、もう必要ないと判断されたのも当然の話。本来なら礼を言って受け入れるべきだとわかっているのに、喉元ぎりぎりまで感情が迫り上がってくる。
——貴女のことが好きだ。これで終わりだなんて言わないでくれ。
今更のように自覚した想い。白くなるほど握りしめた拳が痛みを訴えているのに、それでもロルフは声にすることができなかった。
心の奥底に父親への怒りがこびりついて、今もなお燃え続けている。
女に溺れて家庭を顧みない男の、堕落した背中を何度見送っただろう。奴のせいで母は失望の中で死んだのだ。絶対にああはなるまいと思った。おぞましい視線を向けてくる女よりも、あの男の振る舞いこそが一番許せなかった。
長い時をかけて抱き続けてきた憤りが、お前も父親のように女に溺れるのかと囁いてくる。自分はそうはならないと心の中で反射のように言い返した時、実行するにはこの想いを殺す他ないと気付いてしまった。
なぜなら、女への恐怖心はほとんどなくなったのに、ロルフはそれをエディットに伝えなかったのだから。
嫌だったのだ。この温かい時間が失われると思うと、どうしても言えなかった。幸せそうにケーキを頬張る顔をいつまでも眺めていたかった。
この優しい人がこんなにも心を砕いてくれていることを知っていたのに。
いつの間にこんなにも卑怯な男になってしまったのだろう。殺したいほど憎んだ父親に、今の自分は恐らく一番近づいている。
「……それは、心強いな。貴女が来てくれるなら、百人力だ」
ロルフがやっとの思いで笑うと、エディットもまた頼もしげな笑みを浮かべた。小さな手が離れていくのが惜しくて、もう少しで握り返してしまいそうだった。
俺はこの人に相応しくない。優しい言葉の一つもかけてやれず、迷惑をかけて、あまつさえ酷い態度で傷つけるような男だ。こんなに綺麗で立派な志を持つ人には、もっと似合いの男がいくらでもいる。
知らない誰かと笑い合う姿を想像したら胸の奥が軋んだが、これは無視しなければならない痛みなのだ。
『メランデル魔術医務官、貴女は今日も綺麗だな』
最後の治療の日、自白した言葉を思い出す。
思えば、あの時にはとっくに彼女のことを綺麗だと思っていたのか。いつからだったのだろう。それさえも、よくわからない。
エディットは小さく頷いたみたいだった。それを合図にしたかのように、鉄の軋む音を上げて路面電車がやってくる。
「では、私はこれで失礼いたします。ご馳走していただき、本当にありがとうございました」
「こちらこそ今までありがとう。全部貴女のおかげだ」
いいえと首を横に振って、細い背中が車内へと消えていく。チンと高らかな音を上げた車体が生き物みたいに動き出し、窓から見えるところに立ったエディットが会釈をした。
笑顔で手を振る姿が小さくなっていくのを、ロルフはいつまで経っても見送っていた。そうして路面電車ごと彼女が曲がり角に消えてしまっても、しばらく動くことができなかった。
次の日の目覚めは最悪だった。泥に全身を纏わりつかれているような重みを振り払って、ロルフは強引にベッドから這い出した。
眠れた気が全くしない。今日は土曜日ではあるが、二度寝という単語を己の辞書に持たない以上、頭が痛くとも起きなければならない。
なぜこんなに体がだるいのかを考えたロルフは、そういえば昨日は飲めない酒を口にした途端に目眩がして、気絶するように眠ったのだと思い出した。
愚かな行動に出た理由は一つ。エディットへの想いを告げられなかった自分に嫌気が差し、一瞬でいいから何もかもを忘れたい気分になったからだ。
「馬鹿か、俺は……」
独り言ちてみると余計に情けない思いがして、ロルフはその身を投げ出すようにしてソファに座った。
忘れられるわけがない。ウイスキーよりもこの痛みのほうがよほど苦いのだから、上書きなどできるはずがないのに。
ふとテーブルに置かれた紙袋が目に留まる。この中にはヨアキムから貰ったトラウマ緩和薬が収められているのだが、昨日はどうにも飲む気がしなくて放置してしまった。
女嫌いを克服したところでもう意味などない。ロルフが関わりたいと思う女性はただ一人だけなのだから。
そうだ、もう必要ない。こんな薬は捨ててしまえ。
そうすれば、楽になれるぞ。
「……くそっ」
ロルフは悪態をついて、紙袋からシロップ薬の入った小瓶を取り出して中身を飲み干した。
これを飲むのをやめたらそれこそクズだ。ヨアキムの厚意と、エディットの献身を踏み躙るわけにはいかない。
それからは軍の射撃訓練場に顔を出して、無心で引き金を絞り続けた。こんな時に限って仕事は全て片付いていて、何かしていなければエディットのことを思い出してどうしようもなかったのだ。
そうして夕飯時までを軍務省で過ごし、軍服姿のまま屋敷へと帰ってきたロルフは、門の前に佇む1人の男を発見した。
いや、あれはまだ歳若い少年だ。黒髪がさらさらと風に揺れ、ロルフよりも頭一つ以上低い身長に、少年らしい体格にダッフルコートを羽織っている。
見覚えのない訪問者に訝しみながらも歩いていく。すると少年の連れている黒い牧羊犬が、ロルフを見るなり盛大に威嚇してくるではないか。
歯を剥き出しにして唸り声をあげるのだから少々傷ついた。ロルフは生粋の犬派なのだ。
「こら、ブロー! 人に威嚇したら駄目だって、いつも言ってるだろう!」
少年が厳しい顔をして叱りつけると、ブローと呼ばれた犬は尻尾を下げて黙り込んだ。どうやらよく躾けられた良い犬らしい。
「こんにちは! すみません、ブローは自分より強そうな人が苦手なんです」
犬に怖がられたのはいささか複雑だったので、ロルフは曖昧に頷くに留めておいた。
「君は、我が家に何か用があるのか」
問いかけると、少年は笑ってはいと言った。形の良い唇が弧を描いた時、紺色の瞳が底暗い輝きを宿したように見えたのは、多分気のせいではなかったのだろう。
「俺はヴィクトル・ダールベックと申します。お久しぶりです、兄上」
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