25 みんなが優しいのです
土曜日のお昼時、休日を楽しむ客で賑わうレストラン。久しぶりにレーネと食事を共にしたエディットは、今までのロルフとの話を聞いてもらったところだった。
最後のカフェに向かったのはつい昨日のこと。女嫌い克服の特訓をした下りは伏せたからあまり本当のことは言えなかったけど、失恋したのだということはきちんと話したつもりだ。
「……はあ。まさかそんなことになっていたとは」
レーネが呆れとも嘆きともつかないため息をこぼす。エディットは長話に付き合わせてしまったことを詫び、心配かけまいと笑顔を作った。
「聞いてくれてありがとう、レーネ」
「もっと早く話してくれたら良かったのに。一人で悩んで辛かったでしょう」
頑張ったわねと労られたら、ずっと我慢していた涙が出てきそうになって、エディットは喉の奥に力を入れた。
勝手に好きになって、勝手に終わらせただけ。ロルフが不快になるような想いを抱いてしまった自分が悪いのだ。
「ううん、無理だってわかっていたから。辛いとか、おかしいよね……」
「そんなことないと思うけど。誰だって失恋したら辛いでしょ。当たり前よ」
レーネの口調は少しだけ腹立たしげだった。それはエディットに対してではなく、恐らくロルフに向けられたものだとわかるから、彼女の友達想いが伝わって少しだけくすぐったい。
「前から思ってたけどさ。エディットって、自分に厳しいわよね」
「え……そうかな」
「そうよ。エディットは同期で一番優秀なのに、一番頑張ってる。それなのに何かあればすぐに自分の努力が足りなかったせい、って思っちゃうタイプでしょ」
優秀かどうかはともかくとして、的確な人物評に言葉が出てこなくなる。しかしどうして今そんな話になるのかわからず視線で続きを促すと、レーネはオムライスを一口食べつつ話を続けた。
「女嫌いの相手を好きになったのが悪いって思ってるみたいだけど、そんなことないわ。エディットが好きになるんだもん、良い人なのよ。多分だけどね」
レーネが小さな笑みを浮かべる。
ああ、どうして。今でもロルフのことを褒める人がいると、こんなに嬉しい。
「心って、自分のものなのに自由にならないから……どんな感情でも、それを抱くこと自体は罪じゃないのよ。
問題は表し方なの。エディットは何にも酷い表し方なんてしてないでしょ。いつも相手のことを思い遣って、気持ちを押し殺してたんでしょ。
……そうまでしていたのに、あなたが悪いはず、ないじゃない」
たくさんの人を救ってきた手が伸びてきて、エディットの頭を撫でた。
レーネ、と親友の名前を呼んだはずなのに、声になって出てこない。いつの間にか涙が溢れて、外だとわかっているのに止められなかった。
「もー! 泣かないでよ! 私も泣けてくるって!」
「う、うう……ご、ごめ」
泣けてくると言いつつ、レーネは冗談めかして笑っている。バシバシと肩を叩かれたら元気が出てきたけれど、やっぱり涙腺は決壊して止まる気配がなかった。
「ああもう、ごめんごめん、泣いてていいや。はいハンカチ。はい水」
「あ、ありがと……」
手渡されたハンカチで涙を拭きつつコップを傾けると、冷えた水が熱った喉にちょうど良い。
——そっか。この気持ちは、否定するようなものではないんだ……。
レーネの持論は胸の内を温かく照らしてくれた。傷ついた友人への労りだとわかっていても、この大切な想いを肯定してもらえたことは、本当に嬉しかったから。
「レーネ。ここ、奢るね」
「え、いいの? 悪いなあ」
あえて悪人みたいな笑い方をした親友のせいで、エディットもついに笑みをこぼしたのだった。
レーネはこれから実家に向かうとのことで、久しぶりの女子会はお開きとなった。
お互いに仕事を頑張ろうと声を掛け合って店の前で解散する。寮への帰路を辿る足取りは、ランチに向かうときよりも幾分か軽かった。
そうだ、仕事を頑張ればいい。推薦までしてくれた人がたくさんいるのだから期待に応えたい。恩を返すことだけ考えて忙しくしていれば、きっとこの痛みも忘れられる。
「あ! エディットさんだ!」
突如として名前を呼ばれて周囲を見渡すと、すぐ側の公園で手を振る人影があった。
「ヴィクトルくん?」
ヴィクトルは以前に遊んだ公園にて、あの時と同じようにブローを連れていた。名前を呼ぶと嬉しそうに頷いて、軽やかに走ってくる。
「久しぶりだね、エディットさん。元気だった?」
「ええ。ヴィクトルくんも元気そうね」
邪気のない笑みが眩しくて目を細めると、ヴィクトルは怪訝そうに首を傾げた。
「なんか、悲しいことでもあった?」
ずばり今の心境を指摘されてしまい、エディットは驚いて目を丸くした。ヴィクトルは苦笑を浮かべると、自身の目の縁を指で示して見せる。
「目。腫れてるよ」
思わず目の側に手を当てると、少年は朗らかに笑って言った。
「辛い時は動物に頼ろうよ。ほら、ブローもエディットさんと遊びたいってさ」
実際体を動かして遊んでみれば、本当に元気になってきたのだから不思議だった。
泣いていたことを指摘されたのには羞恥心も臨界を突破したものだが、ヴィクトルはとても弁えた少年で、理由を聞いてきたりはしなかった。だからだろうか、こんなに時間を忘れて遊ぶことができたのは。
やがて慣れてきたエディットは、できるだけ遠くを狙って全力で振りかぶる。
何度目かの投球はそれなりの飛距離を記録した。さほど体力がないエディットだが、ブローが喜ぶと思うと何となく良い結果が出るような気がする。
もちろんブローは爆発的な勢いで走り出し、綺麗なフォームで飛び上がってボールをキャッチした。
「ブロー、じょうず!」
走って戻ってきては千切れそうなほどに尻尾を振るブロー。そのあまりにも可愛らしい態度に、エディットは全身を撫で回してやった。
「かわいい! 良い子ね、ブロー!」
このふさふさの毛並みも相まって本当に癒される。だらしない顔をしている気もしたが、側で見ていたヴィクトルは相変わらずの爽やかな笑顔だ。
「はは! ブローめ、エディットさんのことすっかり気に入っちゃったみたいだ」
「そうなの?」
「誰にでもこうって訳じゃないんだよ。大きい男の人とか苦手だしね」
——それなら、大佐殿なんて苦手かもしれないな。
当たり前のようにそんなことを考えてしまう自分に、エディットは愕然とした。
楽しい時間でせっかく遠ざかっていた痛みが、忘れるなとばかりに主張を始めた。嬉しいと言って微笑みたいのに出来そうにないことを悟り、誤魔化すように俯いてひたすらに黒い毛並みを撫でる。
「エディットさん?」
「そ、そっかあ。ブローは本当に、かわいいね」
「……ごめん。俺、何か悪いこと言ったかな」
ヴィクトルはその年齢とは思えないくらいに繊細で、察しのいい少年だった。お茶を濁すような言葉に惑わされずに、しゃがんでエディットと目を合わせると、真剣な瞳で問いかけてくる。
子供にこれ以上気を遣わせて良いはずがない。エディットは苦笑して首を横に振ると、できるだけ明るく聞こえるように言った。
「ちょっと悲しいことがあってね、それを思い出しちゃったの」
「……大丈夫なの?」
「うん、平気。ごめんね、気にしないで」
ヴィクトルは心配そうに目を細めていたが、やがて立ち上がって手を差し伸べてきた。その手を取ると意外にも力強く引き起こされて、エディットは驚いてしまった。
「しょうがない。これ、あげちゃおうかな」
悪戯っぽく笑って、ヴィクトルがポケットから取り出した何かを手渡してくる。
親指の爪ほどの大きさの、透き通るように美しい赤い石だった。その正体を察したエディットは、動揺のあまり石を乗せられた右手を大きく震わせてしまった。
「これって……! 魔術石でしょう?」
魔術石とは、魔術師が作る魔力の込められた石のことである。
込めた魔力の種類や質、量によってその用途は様々だが、一般的に高価な代物とされていることは間違いない。どうしてこんなものを彼が持っているのかという疑問は、すぐに解消された。
「あたり。俺、魔術師なんだ」
「魔術師? じゃあこれ、ヴィクトルくんが作ったの?」
「そうだよ。まあ、まだ成功したことなくて、失敗作なんだけどね」
信じられない。魔術石というのは修練を重ねてようやく作ることができる代物で、エディットも未だに成功したことがない程なのだ。
成功する上で魔力の量は関係なく、ただ本人の努力と技量、そしてセンスが要求される。失敗作だとヴィクトルは言うが、形にしただけでも大変なことだ。
「ヴィクトルくん、凄いのね!」
素直な敬意が湧き上がってきて、エディットは輝く瞳で言った。ヴィクトルは照れたように笑い、そんなことないよと鼻の頭をかいた。
「失敗作って言っただろ。俺、炎属性なんだけどさ、今のところほんのり温かくなる程度の魔術石しか作れないんだ。
ずっと上手くいかなくて、家にはこれと同じようなものがごろごろ転がってるってわけ」
「努力しているのね。とても立派だと思う」
ありがとう、と言って微笑んだヴィクトルには少しだけ疲労の色があった。彼の言う通り、掌の上の赤い石はほのかな熱を放っている。
「ちょっと落ち込んだ時に温かいものが側にあると、元気出るだろ? だから、こんなのでよければあげるよ」
魔術石はとても貴重なものだから、エディットは迷った。
少し温かいだけとヴィクトルは言ったが、それだけでも何かしらの需要があるからこの石には値がつくだろう。
けれど少年の心優しい気遣いと、善良な笑顔を無碍にすることができるはずもない。だからしばしのうちに頷いて、満面の笑みを浮かべた。
「優しいのね、ありがとう。私、あなたとブローのおかげで元気が出てきたみたい」
「ほんと? なら良かったよ!」
嬉しそうな笑顔。少年らしく裏表のない表情は、さらなる元気をもたらしてくれる。
木枯らしの吹き荒ぶ中だと言うのに体はすっかり温まっていた。エディットは西の森の向こうへ隠れようとする太陽を見上げ、時間は大丈夫かとヴィクトルに問うた。
「そうだね、帰ろうかな。ブローも満足したみたいだし」
「ええ、あんまり遅いとご家族が心配するでしょう」
その時のヴィクトルの表情は、今日見た中でもどこか曖昧なものだった。
困ったような、寂しそうな笑顔。その表情の意味を問いかけて良いものかと逡巡しているうちに、ヴィクトルは愛犬を促して歩き始めた。
「じゃあね、エディットさん! また会えたらブローと遊んでやってよ!」
数歩進んだところで大きく手を振る姿は、大人びた言動が似合う彼を子供っぽく見せた。
いろいろとありがとう、気をつけてねと、エディットは同じように手を振った。ヴィクトルは笑顔を返して、軽い足取りで去っていった。
何だか不思議な少年だ。年下の男の子に慰められてしまったのは情けないけれど、レーネから始まって人の優しさに触れた心は、幾分か回復の兆しを見せ始めている。
だから、想像すらしなかった。エディットと別れた瞬間、かの少年の顔に仄暗い笑みが浮かんでいたことなど。
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