14 おいしいケーキのお店ですよ
「こちらが件の菓子店ですか」
「ああ、そのようだな」
その菓子店はお伽話のような煉瓦造りの外観をしていて、扉の前に立つだけでわくわくする程だった。彩り豊かな花壇までじっくりと観察したエディットは、その時になってようやく隣に立つ男が完全に動きを止めていることに気付いた。
ロルフは引きつった顔で、《菓子店 サリアン》と書かれた真鍮製の看板を見つめていた。いつもは透徹とした灰色の瞳は濁り、何やら冷や汗らしきものがこめかみを伝い落ちている。錆茶の髪が休日らしく下ろしてあるのもどこか無防備に見えて、エディットは心配になった。
「あの、大佐殿。大丈夫ですか」
恐る恐る声をかけると、ロルフは紺色のコートを着た肩をびくりと揺らした。
「だ、大丈夫に決まっているだろうっ⁉︎」
「本当ですか? 無理はなさらない方が良いかと思いますが……」
エディットは確信に近い不安を感じていた。嫌がる人を無理やり連れてくるだなんて、魔術医務官にあるまじき行いだ。
恐らくだが、ロルフが女性を睨むのは一種の防御反応なのだと思う。近付くなと言外に伝える為の行動であり、実際に功を奏してきた。
しかし自ら女の園に飛び込む場合は睨んだところでどうなるものでもないし、完全なマナー違反だ。ロルフはそれをわかっているから、こうして足踏みをしているのではないだろうか。
エディットがやめておきましょうかと提案しようとしたところで、気合いも新たにしたロルフは猛然と言った。
「問題ない。入るぞ!」
「あ……! お待ちください、大佐殿!」
ためらいを捨て去った大きな手がドアノブをひねる。エディットも肝を冷やしながらその後に続いたのだが、やはりロルフは店内に一歩足を踏み入れた瞬間に硬直してしまった。
それもそのはず、老舗たる有名菓子店は女性客で賑わっていたのだ。右も左も女性女性女性、しかも彼女らの殆どが突然現れた美形の男に視線を奪われている。
精悍な横顔に一筋の冷や汗が流れ落ちたところで、エディットは強引にロルフの前へと躍り出た。体格差のせいで視界を覆うには物足りないが、何もしないよりは多分マシだ。
「やはり帰りましょう! 予想よりも混んでいたようです!」
放心しかけていた瞳に輝きが戻ってくる。良かった、どうやら正気を取り戻してくれたようだ。
触れてはいけない相手を店外に連れ出すにはどうしたらいいか頭を悩ませていると、ロルフがいつもの冷静さで頷いて見せるではないか。
「いや、大丈夫だ。せっかく来たのだから何か買っていこう」
「ですが」
「戦時でも嗜好品は必要だ。平時ならば尚のこと、好きに食する権利がある」
堅物らしい理屈を並べ立てたロルフは、どこかその瞳を自己嫌悪に影らせているように見えた。
一瞬硬直したことを後悔しているのだろうか。そんなことは気にしなくていいと伝えたいのに、ここで突っ込んだ話をするわけにもいかない。
エディットが戸惑いを覚えて沈黙している間にも、長い足がショーケースへの一歩を踏み出す。
女性たちの熱視線が彼へと注がれている。はらはらするエディットを尻目に、ロルフは迷うことなく注文を始めた。
店員の女性を極力見ないようにしながらだったものの、5個のケーキを注文しきったその後ろ姿に、エディットは心の中で拍手を送った。
凄い、大佐殿。やりましたね……!
「君はどれにする」
「え、あ、はい! そうですね」
感動のあまりすっかり忘れていたが、そもそもここに来たいと言い出したのは自分自身なのだった。
エディットは慌ててショーケースの中身を見つめる。旬の果物をこれでもかと重ねたタルトに、チョコレートとナッツのムース、鮮やかな断面を描くロールケーキ。そのどれもが芸術品とでも言うべき美しさで、目移りしてしまうほどだ。
「わあ……! 本当に綺麗ですね」
「気に入ったのか」
「こんなに素敵なケーキは初めて見ました」
これはどうにも迷ってしまう。ロルフはよく即決したものだと感心するが、先程の注文数ならほとんど悩まずとも良かったのかもしれない。
待たせるのも悪いと考えたエディットは、少し悩んだ末に一番に目に留まったフルーツのタルトに決めた。本当は二つ買いたかったが、最後に残った乙女心が大食い女と思われたくないと主張していた。
綺麗な笑みを浮かべた店員に伝えると、怪訝そうな声が背後から投げかけられる。
「一つでいいのか?」
「はい、一人暮らしには十分ですから」
「どれと悩んでいた」
「は、こちらです!」
ロルフが有無を言わさぬ調子で聞くので、エディットは考える前に候補だったベリーのムースを指差した。
するとロルフはそのケーキも注文に加えると、そのまま問答無用で会計を済ませてしまったではないか。
「記念ということにして貰っておけ」
あまりのことにおどおどするエディットと目を合わせないままロルフは言った。
何の記念なのかはすぐにわかった。女性嫌いから一歩踏み出したことを、ロルフはしかめ面ながらに喜んでいるのだ。
「そういうことでしたら有り難く頂きます。ありがとうございます」
嬉しくなって微笑むと、俄かに目を逸らされてしまった。
帰りは最寄りの路面電車の停留所まで送って貰うことになった。更にはケーキの収められた紙袋を持ってくれたあたり、女性嫌いでもレディファーストの基礎を叩き込まれているらしい。
いったい彼はどんな人生を歩んできたのだろうか。慣れ親しんだ疑問が脳内を掠めたが、エディットは今回も口に出すことはしなかった。
「大佐殿は随分たくさん買われたのですね。お土産ですか?」
「ああ。思えばトシュテンたちに土産を買ったこともなかったと思ってな。まあこのうちの3個は俺の分だが」
予想よりもかなり多い分量である。どうやらロルフの甘い物好きはかなりのものらしいと知り及び、エディットは小さく笑った。
「次回は……カフェに行ってみると、良いような気がする」
「カフェですか、承知しました。確かに次の特訓としてはちょうど良さそうですね」
どうやら次があると知って性懲りも無く心が浮き立ってしまうことに、自分でも呆れるような思いがした。
ちょうど電停に辿り着いたところで、車体を軋ませ路面電車がやってくる。車掌が扉を開けたのを見るや、ロルフは早く乗れと促してくれた。
「で、では……! 慌ただしいですがこれで失礼します。こちら大事に頂きますね。ありがとうございました!」
ステップの前で一礼してから手渡された小さな紙袋を掲げ持つと、ロルフは小さく微笑んだようだった。気のせいかもしれないがエディットには確かにそう見えたのだ。
「ああ。気をつけて帰るように」
車掌の手によって扉が閉められる。ロルフは路面電車が交差点を曲がるまで見送ってくれていて、エディットもまた背筋の伸びた立ち姿をじっと見つめた。
ようやく見えなくなったところで近くの座席に腰掛ける。すると一気に力が抜けてしまい、エディットは背中から布張りの座席にもたれ掛かった。
——ああ。なんだか、夢みたい。
しかし幸せだと思えば思うほど、終わりの悲しみは大きくなるのだろう。
エディットは微かなため息をついた。下を向けば、小さなケーキの箱が膝の上に行儀良く収まっていた。
*
すぐ近くの雑踏の中で、二人の別れ際を見つめる者が一人。
「あれは……そっかあ。黙ってるなんて、エディットさんも人が悪いなあ」
鈴の音のような声が笑みを含んで喧騒に消えてゆく。ダニエラは口元をにんまりと吊り上げると、足取りも軽くその場を後にしたのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます