13 そして少年は女嫌いになった
風呂を済ませて寝室に戻ると窓の向こうには星空が広がっていた。ロルフはサイドテーブルから煙草を取り出し、窓枠に腰掛けると、ライターで火をつけた。
もともと頻繁に吸う方ではないし、特別好きなわけでもない。
煙草を吸っていると何割かの女が近寄らなくなることに気付いたのと、軍で生きていくのに吸えるほうが便利だったから覚えただけだ。実際のところ軍の知り合いで非喫煙者はマットソンくらいしかいない。
それなのに今だけは落ち着かない思いを誤魔化したくて、手持ち無沙汰なことに耐えられなかった。
エディットと出会ってからこっち、どうにも自分が情けなくてしょうがない。己はあんなふうに真っ直ぐな瞳で、軍人としての仕事を語れるだろうか。
ロルフは14で家を出て姉夫婦の家に置いてもらい、それからすぐに全寮制の士官学校に入った。
理由は二つ。一つは姉夫婦の邪魔をする穀潰しになるのは御免だと思ったから。
もう一つは、父親とあの女がいる実家には二度と帰らないと誓ったからだ。
*
ロルフの実父フィリップ・ダールベック伯爵は大変な好色家で、息子が物心ついた頃にはほとんど屋敷に帰らないような有様だった。
そんな中で母は優しくも厳しくマリアとロルフを育ててくれたが、ある日のこと、風邪を拗らせて死んでしまった。父は別れの瞬間に現れなかったばかりか、葬儀が終わった次の日には女の家に入り浸るようになった。
「姉上、なぜ父上は帰って来ないの?」
「……さあ、わからないわ。でもロルフ、姉上とトシュテンがいれば寂しくないでしょ?」
幼かったロルフはただ寂しくて、姉に聞くと儚げな笑みが返ってくることに違和感を覚えても、言葉にすることはできなかった。
フィリップが不貞を働いていたことを知ったのは、母の死からわずか数ヶ月後、愛人と結婚すると言って屋敷に連れてきた時のことだった。
その瞬間、ロルフは猛烈な怒りを覚えた。
——この男はクズだ。何で俺はこんな奴とそっくりの見た目なんだ。もう二度と父などとは呼ばない、良心ある人間だとも思わない。
母上がどんな顔をしてお前を待っていたか知っているか。姉上がどれほど俺の面倒を見てくれていたか知っているのか。
女にうつつを抜かして大切なものすら守ろうとしない男。お前のことは一生軽蔑して、二度と認めることはない。
伯爵夫人の座に収まった愛人の女は、元は劇場でオペラ歌手をしていたらしい。最初は仲良くしようと話しかけてきたが、きつい香水の匂いを纏った笑みは偽りにしか見えなくて、ロルフはおろかマリアも相手にしなかった。優しかった母以外を母親などとは思いたくもなかった。
女は次第に子供たちに悪態をつくようになって、最後には一切の会話がなくなった。
フィリップは女の部屋に入り浸って出てこない。前を通りかかると
使用人たちは女の横暴な振る舞いに嫌気がさして辞めていき、トシュテン以外に残ったのは夫妻のイエスマンだけ。
そんな中でも隣に住むリンドマン男爵家の次男ヨアキムは幼い頃から何かと気にかけて、姉弟をよく外に連れ出してくれていたものだ。魔術の実験に巻き込まれるのだけは勘弁して欲しかったが、それでもロルフは三人で過ごす時間が好きだった。
だからある日マリアが頬を染めて報告してくれた内容は、ロルフにとって喜びと呆れが同時にやってくるものだった。
「ヨアキムにプロポーズされたの。だから、一緒に家を出ましょう?」
この後に及んで優しい姉はまだそんなことを言うのだ。ロルフはもう12歳だし、トシュテンもいる。家の中で放置されたからといって死んだりはしないのに、まだ子供だとでも思っているのだろうか。
「お断りだ。新婚夫婦の邪魔なんてできるはずないだろ」
「ロルフ! でも、ヨアキムも来てほしいって」
「あいつも大概変人だけど、いい奴ではあるよな。……良いんだ姉上。俺は貴女たちの邪魔になるくらいなら、ここにいた方が気が楽なんだ」
おめでとうと言って笑うとマリアは泣きそうな顔をした。その後も押し問答を繰り広げ、それだったら結婚しないとまで言い出した姉を説得するのは大変な大仕事だった。
マリアが屋敷からいなくなった後も、変わりのない日々が続く。
あの女が男子を出産するという出来事があった。フィリップは大層喜んだが、しばらく経つと以前のように家に帰ってくることが少なくなっていった。
女は我が子を溺愛しており、ロルフには決して触らせようとしないほどだった。使用人の噂を耳にしたところによれば、「旦那様はまた外に愛人を作り、奥様はますます我が子に執着している」らしい。
そんなことを聞いたところで興味すら湧かなかった。あんな連中とは関わりたくもないし、爵位にも興味はない。学校を卒業すれば家を出れるから、その時だけを楽しみに勉強に励む毎日。
しかし冷淡な目で彼らを見つめていたロルフに、ある日決定的な事件が起こる。
14歳の冬の夜のことだった。眠りについたロルフの部屋に、あの女が断りもなく入室してきたのは。
目を覚ましたときには女はベッドに腰かけてこちらを見つめていた。瞳を打算と欲望にぎらつかせて「最近、あの人が相手をしてくれないのよね」と言う。
磨き抜かれた手が伸びてきて頬に触れた。何が何だかわからないうちに女の顔が近付いてきて、香水の匂いで息ができなくなる。
「ねえ、それくらいの年頃なら、興味あるでしょ?」
心の醜さを凝縮したような笑みに鳥肌が立って、ロルフは瞬間的に女を突き飛ばしていた。
「きゃあ! な、何するのよ!」
当時から上背があったロルフの渾身の一撃によって、女はベッドから無様に落下した。被害者めいた悲鳴があがり、暗がりからこちらを睨みつけてきたのが見える。
「触るな! 恥知らずな女め、二度と俺の前に現れるな!」
殆ど絶叫するようにぶちまけたロルフは、着の身着のままで屋敷を飛び出した。
裸足で出てきてしまったから道端の砂利が突き刺さって足が痛い。冷え込んだ空気が寝巻きしか纏わない身体を押し包んで、肺が凍ったように苦しい。
汚い、と思った。男なら見境なしに手を出そうとする女も、あんなおぞましい生き物にうつつを抜かす父も、何もかもが汚らわしく見えて仕方がなかった。
そうしてたどり着いたのは姉夫婦の家。深夜であることも忘れて玄関扉を遠慮なくノックすると、ガラス越しにランプに火が灯るのが見えて、中からヨアキムが顔を出す。
「ロルフか……⁉︎ 一体どうしたんだ」
訪問者の正体を知ったことで、マリアもすぐに飛び出してきた。
「ロルフ⁉︎ 本当にどうしたの、そんな格好で……とにかく入ってちょうだい」
「姉上……」
二人の顔を見たら膝が折れそうな程の安堵が押し寄せてきて、ロルフはふらつきながら顔を歪めた。
それに気付いたヨアキムが手を伸ばして、しっかりと義弟の身体を抱き止めてくれる。
「ロルフ、大丈夫なのか⁉︎」
「ヨアキム……すまない。俺を、ここに置いてくれ。少しの間だけでいいから。頼む……」
ああ、二人の邪魔になんてなりたくなかったのに。
心の奥底に弱い自分を嘲笑う何かがいた。けれどもう屋敷に戻ることなど、考えたくもなかったのだ。
事情を聞くと二人は激怒して、伯爵家に直談判に行ってくれた。
あの女は「ロルフに突然突き飛ばされた、怪我をしたのはこっちだ」との主張をして取り付く島もなかったらしい。これは想像なのだが、立場が危うくなったことに危機感を抱いた女は、爵位の継承者であるロルフを味方につけようとしたのではないだろうか。
父は女の嘘を真に受けて、ロルフを勘当するとマリアたちに宣告した。これ以上は裁判に発展するというところで口論が打ち切られたと聞いたロルフは、もう気にしないでくれと二人を宥めた。
ただでさえ家に置いてもらっているのに、これ以上の迷惑をかけるわけにはいかない。ロルフにできるのは士官学校の受験勉強をし、家周りの手伝いをこなすことだけだ。
軍人になると言ったとき、マリアは悲しそうな顔をした。けれどこれは決定事項なのだ。
この家を出るために、二度とあの家に戻らないために。事件以降女嫌いとなってしまったロルフには、選択肢など存在しないのだから。
*
ロルフは深く吸って紫煙を吐き出し、乱暴な仕草で短くなった煙草を灰皿に押し付けた。もう一本取り出して火をつけると、また薄暗がりに赤い灯火が浮かび上がる。
軍での暮らしは楽だった。
体力精神共にすり減らすような訓練が昼夜を問わず続いても、女と関わる必要の無い空間は居心地が良かった。貴族家出身ということで、たまに上官によって社交会に連れ出されたりもしたが、それも歯を食いしばっていればすぐに終わる。
それなのに、エディットと関わるようになって。
女なんて大嫌いだ。特に男漁りを生業とし香水の匂いを振りまくような女に心底嫌悪感を覚える。
しかし今になってロルフはようやく思い知った。善良な女は、もっと苦手なのだと。
あんな目をした人を軽蔑することなどできない。今はもうどんな状況だって睨むことも、ましてや怒鳴りつけるだなんて考えられない。
尊敬の念すら覚える。眩しい。自分などとは何もかもが違う。
あれほどひどい態度を取ったロルフをエディットは許してくれたばかりか、女嫌いの克服に手を貸してくれるという。ならば彼女の期待に応えなければ。もっとまともな人間になって、そうすれば。
——そうすれば、俺はどうするつもりなのだろう。
絡み合った思考に答えは出ない。視界の端で、赤い灯火が優しく揺らめいていた。
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