11 何故か待ち合わせをしています

 一九〇〇ヒトキュウマルマルとは軍隊特有の言い方で、夜の7時を指す。

 エディットにとっては戦地での生活のおかげで耳慣れた言い回しだ。集合時間の20分前に指定された大噴水前にやってくると、待ち合わせの聖地は笑顔の人々で賑わっていた。


 この国の秋は寒い。今年は今のところ降雪はないが、この冷え込みなら近いうちに初雪が観測されるはずだ。エディットはトレンチコートの前を掻き合わせて、探しやすそうな銅像の前に佇んで待つことにした。

 気持ちを落ち着けるために深呼吸をして、行き場のない視線を銅像が持つ杖に向ける。


 お詫びだとかお礼だなんて、仕事なのだから気にしなくていいのに。これでいよいよ最後、笑って別れられるように気をつけなければ。

 俯いたままぼんやりと考えていると、視界に革靴の爪先が入り込んできたので、エディットはゆっくりと顔を上げた。


 しかしながら、それはロルフではなかった。ウールのジャケットを着込んだ人の良さそうな男が、笑みを浮かべて話しかけてくる。


「こんばんは。実は、道に迷ってしまいまして。ウルフト区一丁目に行きたいのですが……」


 ウルフト区一丁目といえば、ここから歩いてすぐのところだ。待ち合わせまで15分以上あることだし、案内して戻って来ても余裕があることだろう。

 エディットは笑顔で頷いて、ウルフト区の方角を示して見せた。


「すぐそこですよ。よろしければご案内しましょうか」


「良いのですか? 助かります」


 男は朗らかに笑って会釈をした。しかしエディットが先導して歩き出そうとすると、さり気ない動作で腰に触れてきたではないか。

 歩き出した男の足取りに迷いは感じられない。エスコートと言えば聞こえがいいかもしれないが、他人同士の距離感ではないような。


 失礼と思われてもいいからと、半歩足を引いて距離を取ることにする。しかし男の手は離れることなく腰に吸い付いてきて、エディットは全身に鳥肌が立つような気がした。


「あの……! 失礼ですが、こういうのは困ります」


「この人混みですから、危ないと思っただけですよ」


 男は笑みを絶やさずに断言したが、そんな気遣いなど気味が悪いだけだ。しかし道案内をすると申し出た手前、困っている人を途中で放り出すのも気が引ける。


 エディットがどうしようかと考えを巡らせ始めた時、腰を抱く感触が瞬時に消えた。


 何が起きたのかもわからないまま顔を上げると、そこには軍服を着たロルフの姿があって、問答無用の勢いで男の腕を捻り上げていたのだった。


「痛えええ⁉︎ な、何、す……っ⁉︎」


 男は怒りを宿した目でロルフを見上げたが、圧倒的な体躯と存在感を持つ軍人を相手取っていることに気付いてさっと青ざめた。何も言えなくなっている男を人睨みして、ロルフは低く唸った。


「貴殿こそ彼女に何をしている。嫌がる相手を無理やり連れていくなど、恥を知るがいい」


 掴み上げる手が力を増したのか、男がますます苦悶の表情を浮かべる。ロルフが本気を出せば腕の一本や二本折ってしまうような気がして、エディットは慌てて制止に入った。


「大佐殿! 私のことなら大丈夫ですから、どうか手を離してください」


 ロルフは射殺すような眼差しのままエディットを一瞥して、捻り上げていた腕を解放した。既に戦意を失った男は泡を食ったように逃げていき、後に残された二人に気まずい沈黙が落ちる。


 どうしよう。また男を引っ掛けようとしたと思われてしまっただろうか。実際に変な相手だったことを見抜けなかったのは自身の落ち度だから、侮蔑の目を向けられても反論のしようがない。


 以前はそう思われても感じたのは怒りだけだった。けれど、今は。


「大丈夫か」


「……え」


 エディットは暗い想像をして気分を沈み込ませていたので、咄嗟の反応ができずに間抜け面を晒してしまった。


「大丈夫だったのかと聞いている」


「へ……あ、はい! 大丈夫です。助けていただき、ありがとうございました」


 慌てて礼を言って頭を上げると、ロルフは安堵した様子でため息をついた。


 心配してくれたことに喜んでしまったエディットだが、すぐに心の中で苦笑をこぼす。

 この方は本来義理人情に厚い人。怪我の治療をしてもらった相手が困っていたら、心配するに決まっている。ただそれだけのことなのだ。


「もう少し気をつけたほうがいい」


「はい、申し訳ありません。ぼんやりしすぎました」


「……まあ、それもあったのかもしれないが。貴女は目立つのだから、自覚するべきだ」


 よくわからないことを言われてしまい、エディットは更なる困惑に見舞われた。


 確かに髪と瞳の色は少々珍しいが、だからと言って声をかけられる程でもない。ロルフが何に対してそう思ったのかは知らないが、ここは素直に頷いておくべきか。


「承知しました。気をつけます」


「わかったのならいい。行くぞ」


「行く? あの、どちらにでしょうか」


 もはや訳がわからなかった。エディットがおずおずと首を傾げると、ロルフはさも当然とばかりにこう言い放ったのだ。


「俺は貴女に食事を提供する、と言ったはずだが」

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