10 最後から二番目の治療(過去5)
戦地から帰還して一週間が経った。
その間にエディットは実家に顔を出して大歓迎を受けたり、友人と会って無事を喜ばれたりしつつ、慌しく時が過ぎていった。
「大佐殿、本当にずいぶん良くなりましたね」
陸軍病院に入院したロルフを訪ね、治療を終えたエディットは安堵のため息を吐く。
此度の功績によってロルフは大佐へと昇格していた。もうすっかり顔色は良くなったし、恐らくはこれで歩くことができるようになったはず。
「……ああ、ありがとう」
相変わらず滅多なことでは笑わないロルフだが、礼を言ってくれるようになっただけ打ち解けた方だ。何だか春でも迎えたみたいに嬉しくなって、エディットは微笑んだ。
「それでは、歩けるかどうか試してみましょう。私が支えます、の、で……」
言いながらも失言だったことに気付いて口をつぐむが、飛び出した言葉が戻ってくるはずもない。
ロルフは女嫌いなのだ。女だと思わないで欲しい伝えてあるとはいえ、だからと言って触っても平気になるとは思えない。
「申し訳ありません。誰か、そう、軍医様を呼んで……!」
「いい、必要ない」
それは止める間もない出来事だった。ロルフは頑強な肉体で持って、自力で立ち上がるという強硬手段に出たのだ。
「ほら。問題なかろう」
ロルフはさも当たり前のことのように言ってのけたが、エディットは真っ青になって冷や汗が滲んでくるような気がした。
「まだそこまでの回復を果たせていなかったらどうなさるおつもりですか! 体調の確認はゆっくりと、少しずつ行って頂かなくては!」
「なんだ、そんなに焦るようなことではないだろう。メランデル魔術医務官が歩いてみろと言ったのだから、歩けるようになっているはずだ。何せ貴女の仕事なのだからな」
予想外に嬉しいことを言われてしまい、エディットは魔術医務官として諌める言葉が出てこなくなった。いつの間にそんなにも信頼してくれていたのだろうか。
「……とにかく、危険なのでいけません。万一がないように責任を果たしたいのです」
「ふむ、わかった。そういう事なら協力する」
喜びを顔に出さないようにして言えば、ロルフもまた無表情のまま頷いた。
協力するだなんて、野戦病院に運び込まれて来た頃を思えば大進歩だ。エディットはやはり嬉しくなってしまい、溢れるような笑みを浮かべた。
瞬く間に日々は過ぎ去り、今日は4回目の治療の日。先週になって陸軍病院を退院したロルフを訪ねて、エディットはダールベック邸を訪問することになった。
「今日も世話になった。茶でも飲んで行くといい」
ロルフは相変わらず殆ど笑わないし、愛想のかけらもない。だからこそ治療後に休憩を勧めてくれるとは思いもせず、エディットは驚きのあまり返事を言い淀んでしまった。
「いえ、私は仕事で参りましたので」
「いいから、時間があるのなら休んでいけ。貴女が俺の治療のせいで余計に魔力を消費していることは知っている」
確かに触れずに治療をするために大目に魔力を消費している。いつもより疲労するため、帰る足取りが重くなることは否めない。
しかしそんなことを気付かれていて、更には慮ってくれるとは。またしても予想外のことを告げられて、エディットはその場に立ち尽くしてしまった。
すると執事のトシュテンが入室して来て、あっという間にお茶の用意を整えてしまう。
「どうぞ、メランデル様。甘い物は疲れが取れますから、たくさんお召し上がりくださいね」
「あ……ありがとう、ございます……」
もう断る空気ではなくなったことを悟ったエディットは、観念して美しい焼き菓子と紅茶が用意されたテーブルに着くことにした。
常備された茶菓子にしては豪華だが、これも貴族家ゆえのもてなしという事なのか。向かい側に腰を据えたロルフが無言でマドレーヌを口にするのを見て、エディットも礼を言って同じものを口に含んだ。
「美味しいです! こんなに美味しいマドレーヌは初めて食べました」
「それは良かった。気に入りの店の品だ」
あっさりと甘い物好きであることを教えてくれたことに驚いて、手が止まってしまう。いつも厳しい顔をしたロルフがそんな好みを持っていたとは知らなかった。
つい可愛いと思ったことはどうやら顔に出ていたらしい。ちらりとこちらを見たロルフの視線には、恨みがましげな色があった。
「いつも威張り散らしている割にこんな軟派なものが好きなのか、という顔だな」
「そ、そんな皮肉っぽいことは思っていません。驚いたことは、確かですが」
エディットが慌てて言うと、ロルフは思わずと言った調子で笑った。どうやらからかわれたらしいことに気付き、いつしかこの女嫌いの大佐殿と随分打ち解けていたことを知って、何故か胸が痛んだ。
とても嬉しいことのはずなのに、どうしてこんなに胸が締め付けられるのだろう。
正体不明の痛みに翻弄されるのが嫌で、エディットは明るく笑って言葉を返した。
「菓子店は女性客ばかりですから、入りにくいのではないですか?」
「ああ、その通りだ。故に使用人に頼んでいるが、本当は見て選びたい」
ロルフの女性嫌いについて深くは追及していない。きっと何か深刻な事情があるのだろうと思ったし、何よりもエディットは知りたくなかった。
怖いのだ。これ以上ロルフのことを知るのが怖い。
「相変わらず、女は視界に入るだけで不快だ。触れそうになれば吐き気がする。……それなのに、貴女のことだけは平気だな」
エディットはいつしか俯けていた顔をぱっと上げた。途端にグレーの瞳と視線が交わって、その輝きに目が離せなくなる。
そんなことを言わないでほしい。ロルフはただ、淡々と治療をこなすエディットを仕事相手として信用してくれただけだと言うのに。
「私のことは女だと思わないで下さいと申し上げましたから。きちんと実践して下さっているようで、安心いたしました」
いたずらっぽく笑って、痛む胸を皮膚一枚下に抑え込む。
これ以上この痛みについて考えては、取り返しのつかないことになるような気がした。
「……そうだな。貴女はそういう人だから、俺みたいなのを救おうとしてくれたのだったな。感謝している、とても」
静かに言ったロルフが小さな笑みを浮かべるので、エディットの胸は性懲りも無くざわめいた。
結局のところ、彼は嫌悪の対象にすら冷たくなりきれない人だった。だからエディットの治療も受け入れてくれたし、自身の感情よりも職務を優先しようとしているのだ。
「そんな、最後のようなことを仰らないで下さい。申し訳ありませんが、あと一度はこちらにお邪魔することになりそうですから」
「わかっている。手間をかけるが、頼む」
耐え難い痛みを訴える胸の内を無視して笑うと、痛みはより一層酷くなった。
あと一度。あと一度で、この時間も終わるのだ。
ロルフは土産に焼き菓子を持たせてくれた。寮の部屋に戻りどっしりとした質量感のある紙袋を机上に置くと、その途端に涙が溢れ出してきたので、エディットは呆然と両目を瞬いた。
「あれ……? 何で……」
意味のない独り言を唱えてみると、自分の声とは思えないくらいに醜く引き攣っている。
喉を刺激したせいで余計に涙腺が緩んで、目の奥がずきずきと痛んだ。泣いているという自覚を持ってしまえばもう止まらない。
——わかってた。私は、大佐殿のことが好きなんだ。
エディットは考えないようにしていただけだ。こんな気持ちを抱いたことをロルフに悟られれば、間違いなく嫌悪されてしまう。
そんなのは嫌だった。女だと思われていないおかげで普通に会話ができる、この幸せな立場を手放したくなかった。
ロルフの信頼を裏切っておいて泣く権利なんてどこにもない。そんなことはわかっているのに、目から熱い雫が流れ落ちて止まらない。
エディットは濡れた頬を拭うことすらしないまま、土産のマドレーヌを開封して、徐に口に含んでみた。バターと砂糖の優しい味わいのする菓子は、少しも痛む心を癒してはくれなかった。
悲しみにくれるエディットは知らない。この後の最後の治療にて、まさかの大騒動に巻き込まれることなど。
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