8 自分で縫うとかそんなのアリですか(過去3)

 遠くで砲声が聞こえる。国際法で非戦闘員への攻撃が禁止されている現在において、野戦病院が攻撃を受けることはない。そうわかっていても少しだけ体が強張るのを叱咤して、エディットは病院内を走り回っていた。


 成功すればこの戦争の勝ちは決定的となるとされた作戦が始まって、そろそろ三日が経とうとしている。怪我人が運び込まれる頻度は時間を追うごとに増し、軍医や衛生兵、そして魔術医務官の疲労もかなりの段階に達しつつあった。


 先程は重症患者を治したばかり。しかしもう一人ぐらいなら治せるから、早く別の病室へ——。


「触るな!!!」


 どこか聞き覚えのある怒声だった。ただ事ではない様子に驚いたエディットは、ともかくその場所へと急ぐことにする。


 息を切らせて走った先には特に重症の患者を収容する病室があって、一人の軍人の周囲に数名の魔術医務官らが輪を作っていた。

 エディットは入室して良いものかと足を止め、焦った表情をした彼らが囲むのがロルフだと気付いて顔を強張らせる。血に塗れた軍服を身に纏った彼は、それでもベッドの上で半身を起こして周囲を威嚇していた。


「女が俺に触るな! 吐き気がする!」

「しかし、中佐殿……! 今すぐ治療しなければ、手遅れになります!」


 輪の中で唯一の男性である歳若い軍人は少佐の肩章を身に付けており、どうやらロルフの部下のようだった。顔を青ざめさせて、何とか上官を説得しようと必死になっている。


「いらんと言っている! この通り俺は元気だ、魔術医務官など必要ない!」

「貴方のことは失えないのです! どうか、治療をお受け下さい!」


 エディットからは傷口は見えないが、軍服に付いた血痕を見るに大声を出せることが信じられないほどの怪我を負っているはずだ。


 一人の魔術医務官が隙をついて鎮静剤を投与しようとしていた。しかし百戦錬磨の英雄がその気配に気付かぬはずもなく、ロルフは燃えるような憤怒を宿した瞳でその女性を睨み上げる。


「とっとと散れ、女魔術師ども! 貴様らに触れられるくらいなら、死んだ方がマシだ!」


 青ざめた顔で悲鳴を漏らした魔術医務官たちは、ついに押し出されるようにして病室から飛び出して行った。彼女らはもう背後を振り返ることはなく、各々その表情に恐怖を貼り付けている。


 エディットはその流れに逆らい力強い足取りで病室に入った。ベッドの側に立つロルフの部下は、新緑色の瞳を驚きに見張ったようだった。


「エディット・メランデル三等魔術医務官です。私に中佐殿の治療をさせて下さい」


「……何だと? 貴様、聞いていなかったのか」


 言った途端、ロルフの目が三角形につり上がった。全身に怒気を漲らせた男を前にしても、エディットには引く気など毛頭無い。


「私は魔力の量が多いので、触れずとも治療をすることができます。中佐殿のご要望にお応えすることができるかと」


「たわけたことを。そのような事が出来るはずないだろう」


「できます。証明してみせましょう」


 触れずに治せるとは言え、掌から魔力を送り込む必要がある。しかし手を前へと掲げると、その途端にロルフが凄まじい速さで体を仰け反らせたので、エディットは驚いてしまった。


 一体どうしたのだろうか。頬の小さな傷を治すつもりだったのだが、顔に手を近づけるのはまずかったのか。


「大怪我をしているのですから、体に負担をかけてはいけません」


「だ、黙れ! 貴様が急に動くからだろうが!」


 困惑しきって言うと、ロルフは苦虫を噛み潰すような顔で言い返してきた。一刻を争う怪我だというのに、どうでもいいことでごねないで欲しい。


「触らないと言っているでしょう。まずは頬の傷を治すんです、じっとしていて下さい」


「信用できん、そもそも触らないから良いというものではない! 近寄るな、出て行け!」


 ロルフが魔術医務官たちを怒鳴りつけている光景を思い出せば、エディットが恐れなどを抱く理由はなかった。

 皆優しい人たちで、この人を治すために力を尽くそうとしていたのに。女嫌いという理由だけであんなひどい態度を取るなんて、許せない。


「もう、埒があかない……! 少佐殿、中佐殿を押さえて下さい!」


「何だと! おい、マットソン少佐! まさか俺を裏切るつもりではないだろうな⁉︎」


 二人してマットソンと呼ばれた男を振り返ると、彼は驚いたように目を丸めていたが、すぐに爽やかな笑みを浮かべて見せた。


「ダールベック中佐殿が女性と話しているのを初めて拝見しました。これは……奇跡ですね!」


「マットソン、お前何を言っている。話しているのではない、揉めているんだ!」


「中佐殿、お許しを!」


 部下に容赦なく両腕を後ろに捻られたロルフは、ますます怒りを増幅させた表情で大声を上げた。


「マットソン、何をする! 離せ、許さんぞ貴様ぁ!」


「俺はどう思われても構いません! 中佐殿、貴方は生きていただかなくては! どうか大人しくなさって下さい!」


「知るか、貴様らのせいだろうが! 寝ていれば治ると言っているのがわからんのか!」


「申し訳ありません中佐殿、治療を受けて頂きます!」


 ロルフは威勢良く声を張り上げているが、身をよじる動きに勢いはなかった。あっさりと不覚を取ったあたり、見た目よりもかなり弱っているのかもしれない。


 心配になったエディットは、急いで頬の傷へと手をかざした。


 手と違って足は解放されていたが、流石に蹴飛ばす気にはなれなかったらしい。親の仇を見るような目で睨みつけられたものの、ロルフはこれ以上暴れるようなことはしなかった。

 呪文を唱えながら魔力を傷へと注いでゆく。小さな裂傷はすぐに塞がって、跡形もなく治っていった。


「はい、終わりました。鏡をお見せしましょうか」


「……いや、いい」


 ロルフは憤懣やるかたなしといった様子で低く唸ると、ぷいとそっぽ向いてしまった。こうしていると何だか拗ねた子供のようだ。


「凄い……君は凄いな、メランデル魔術医務官! 触れずに傷を治したばかりか、ダールベック中佐殿を納得させてしまうとは!」


 部下の男はウルリク・マットソン少佐と名乗った。驚くべきことだが彼も数々の武勲を挙げた英雄で、ロルフに勝るとも劣らぬ有名人だ。どうやらロルフの大隊には役者が揃っているらしい。


 それからは二人で協力して治療にあたることにした。ロルフは渋々ながらもベッドに横になって腹部を露出させたのだが、エディットは患部を目にした瞬間に唖然と口を開けることになった。


「これは……既に縫ってあるではありませんか。処置はどなたが?」


「それがな、中佐殿がご自分で縫われたんだよ」


 困り果てたようにため息を吐くマットソンに、ますます驚きを覚えて目眩がした。


 信じられないことだが蛇行する縫い目が真実であることを物語っている。素人がしていいことではないし、ここまで大きな傷口を麻酔もなしに自ら縫い付けるとは、想像しただけで痛みで気絶しそうだ。


 しかも戦場などという悪環境で縫ったりしたら絶対に化膿する。もしもこのまま放っておこうものなら、感染症その他で命の境を彷徨うことになるかもしれない。


「そんなに女性に触られたくなかったのですか?」


 ロルフは答えを返さなかった。不愉快そうにそらされた視線はにべもなく、これ以上立ち入るのは駄目だと直感が告げていた。


「恐れながらこれではいけません。まずは抜糸をしなければ」


 エディットはため息交じりに言って準備を開始した。こんなに手のかかる患者は、初めてだ。




 治療には幾ばくかの時間を要した。終える頃にはロルフは青い顔で眠りについていて、どうやらあの元気は相当の無茶だったことが察せられた。

 当然だ。この怪我は少し場所がずれればその場で死んでいてもおかしくないものだった。あんなに暴れてよくもまあ無事だったものだ。


 意外にも安らかな寝顔を眺めながらエディットは思う。


 これほどの無茶を可能にするほどの女嫌い。触れようとした時の過剰反応を思い出すに、これは嫌いというよりも。


「女性恐怖症……?」


 眠りにつくロルフ以外は誰もいない病室で一人呟くと、背後で息をのむ気配がして、エディットは慌てて振り返る。

 そこにはマットソンが立っていた。安堵と苦笑の入り混じった笑みを浮かべて。

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