7 ブチ切れてしまいました(過去2)
近々最後の作戦があるらしいとの噂は、この野戦病院においても皆が聞きつけるに至っていた。
どこか落ち着かない雰囲気に満ちた中、エディットは今日も今日とて洗濯をする。近頃は同僚たちも手伝ってくれるようになり、同じ洗い桶に手を突っ込むのは最も仲の良いレーネだ。
「後は干すだけだからやっておくね。レーネは休んできて」
「そんな、悪いわよ」
「私の魔力は戻るまでまだ時間がかかりそうだから。レーネはそろそろでしょう? 何かしら食べておいた方が良いよ」
笑顔で伝えてもなおレーネは申し訳なさそうに眉を下げていたが、さあさあと背を押すと流石に納得したようだった。
無理しないでと手を振るレーネに、エディットもまた笑みを返す。友人の後ろ姿を見送ってシーツを干していると、何処からか賑やかな声が聞こえてきた。
見れば戦闘を終えた軍人たちがテントの下で休憩しているところで、タバコを吸いながらトランプに興じているようだ。
するとそこにロルフが通りがかって、楽しげに笑う部下たちによって輪の中に引きずり込まれていく。タバコに火を付けられてしまっては断れず、細く紫煙を吐き出した後にはポーカーに混ざることにしたらしい。
何を話しているのかはわからないが、彼らの間に確かな信頼関係があるのは見て取れた。親しみの持てる表情で笑うロルフを目にするのは初めてではなく、エディットもまたそっと笑った。
やっぱり噂なんて全然当てにならない。ロルフは確かに厳しい人なのかもしれないが、恐怖政治を敷いて部下に恐れられているわけでもなければ、理不尽に女性に怒ったりもしない。
確かに女性と話しているのは見かけないから嫌いなのは本当なのだろうが、やはりあのお方は悪人などではないのだ。
洗濯物を干し終えてふうと息をつく。そろそろ休憩時間も終わりに近づいているから、食事を取っておかなければならない。
エディットは食堂に向かって歩き出し——何者かが目の前に立ち塞がった事によってすぐに足を止める事になった。
「なあ、魔術医務官さん。何か手伝おうか?」
見れば軍服を着崩した士官が3人、ニヤニヤとした笑みを浮かべている。明らかにタチの悪い笑い方であることを瞬時に悟ったエディットは、業務用の笑みを顔に貼り付けた。
「有難いお申し出なのですが、今から昼食を取りに行くところですので」
「へえ、こんな遅い時間にかい?」
「大変なんだなあ」
「じゃあさ、一緒に食堂に行こうぜ。支給された菓子もあるしさ」
彼らの目的はわからないが、あまり良い予感がしないのは確かだ。
エディットは困惑を押し隠しながら、なるべく丁寧に見えるよう心がけて首を横に振った。
「短時間で食べなければ間に合わないのです。また今度お誘いください」
「つれないなあ。短い時間でもいいって」
真ん中に立つ男が手を伸ばしてくる。気付いた時には肩を抱かれていて、エディットは全身が総毛立つのを感じた。
「あ、あの! 本当に、急いでいるので……!」
「まあまあ。悪いようにはしないからさあ」
身を捩って振りほどこうとするが軍人の腕力に敵うはずもない。
嫌だ、気持ち悪い。ビクともしない男に困り果てた時、突如として拘束が解かれたので、エディットは何度も瞬きをしてしまった。
男の腕を掴み上げていたのはロルフだった。見ればテントの下からは彼の姿が消えていて、残された部下たちも唖然として事の成り行きを見守っている。
「……貴様らのような腑抜けた連中がいるから軍規が乱れるのだ。この俺の目の前で舐めた真似をしおって、何様のつもりか!」
大砲の音の方がまだ小さいのではないかと思わせるほどの怒号が放たれ、男たちは一斉に直立不動の姿勢を取った。
一人残らず青ざめて震えている。先ほどの不遜な態度は鳴りを潜め、彼らはただ上官の怒りにさらされるだけの哀れな存在に成り下がっていた。
「このような愚かさではクソの役にもたたんだろう。貴様らの大隊長殿に知られる前に、俺が叩き斬ってやろうか」
男たちが一斉に肩を震わせる傍、エディットも同じように血の気が引くのを感じていた。
——まさかそんなこと、しないわよね? けど、何だか腰の軍刀に手をかけているし。
もし万が一があるのなら止めなければ。決意を胸に口を開こうとしたところで、ふとロルフがこちらへと視線を向ける。しかし彼はエディットが何かを言う前に小さく舌打ちをすると、すぐに男たちへと向き直った。
「……貴様らの行いは立派な軍規違反だ。第一大隊長殿には俺から報告をする、三名とも沙汰があるまで待機せよ。解散!」
命令が下されるなり、男たちは蜘蛛の子を散らすようにして駆け出して行った。
嵐のような出来事だった。何が起きたのかよくわからないが、一つだけ確かなことがある。
ロルフは困っていたところを助けてくれたのだ。とにもかくにも、まずはお礼を言わなければならない。
「あ……あの、中佐殿。助けていただき、ありが」
「おい。貴様もだ、魔術師」
しかし腰を直角に折ろうとしたところで、感謝の言葉までもがぽっきりと折られてしまった。
灰色の瞳が不愉快そうに細められている。その色が宿した侮蔑に、エディットは息を飲んだ。
「飢えた獣の巣窟を一人でふらつきおって、もう少し自衛してはどうなんだ。それとも男を引っ掛けるための作戦か?」
「なっ……!」
「だとしたら当てが外れたな。軍属でない女がどうなろうと知ったことではないが、軍規を乱してもらっては困る。せめて俺の目の届かないところで狙いを定めるがいい」
——前言撤回。この人、嫌な人だ!
エディットは両手に握りこぶしを作った。
悪人ではないだなんて考えるだけ馬鹿だった。こんな謂れのない侮辱を受けて、黙っている義理などない。
「……お言葉ですが! 私は、そのようなつもりは一切ありません!」
ざわ、と周囲から驚きの声が上がった。「まじかよ、ダールベック中佐殿に言い返した⁉︎」「あの子、すげえぞ……!」などと聞こえてきたが、怒りに飲まれたエディットの耳はその内容を拾わなかった。
「中佐殿の直属の部下の方ではないようでしたが、彼らの規律が乱れていることを私のせいにしないで下さい! 私はただ院内の清潔を保ち、滞りなく仕事をこなし、出来うる限り多くの命を救いたいだけです!」
勢いのまま言い切った時、場は水を打ったように静まり返っていた。
あまりの静けさに急速に頭を冷やしたエディットは、大変なことをしでかしたことに気付いてさっと青ざめた。
高級幹部相手になんと言うことを。これは……クビ? いや、もしかして。この場で切り捨てられたって文句は——。
「……失礼した。先程の発言を撤回する」
またしても四方からどよめきが上がったが、それは先程の比ではなかった。
「中佐殿が女の子に謝ったあ⁉︎」
「う、嘘だろ……!」
「槍……いや、砲弾でも降ってくるんじゃないのか⁉︎」
騒然となるテント下の男たちに負けないほどに、エディットもまた唖然とした。ロルフに冗談を言っている様子はなく、ただ真っ直ぐにエディットのクチナシ色の瞳を見つめ返してくる。
「酷い侮辱だった。連中に腹が立って頭に血が上っていた。許してほしい」
まさかこんなにあっさりと謝られるとは思わなかった。ロルフは軍の幹部であり、エディットのような新米魔術師とは比べるべくもないほど偉い人だというのに。
しかも彼は女嫌いだという。そんな人が何のためらいもなく、女に対する非を認めるだなんて。
「私の方こそ、身の程を弁えぬ物言いを、致しました。お許しください……」
半ば実感の湧かないまま何とか返事をすると、ロルフは無言で頷いて立ち去って行った。
部下の元に戻ることもなく建物の陰にその姿が消えた頃になって、エディットは止めていた息を大きく吐き出した。
びっくりした。緊張した。だけど……怖くはなかった。
よくわからない人ではあるけれど、やっぱり悪い人ではないのかもしれない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます