6 当時は中佐だった彼との出会い(過去1)
戦争における魔術の攻撃運用が国際法で禁止された昨今でも、魔術は医療や物資の輸送に欠かすことのできない存在だ。
隣国からの攻撃を受けて始まった戦争は激化の一途を辿っていた。若手ながら強大な力を持った魔術医務官であるエディットも、経験に関係なく人員を補填すべしとの上官の判断の下、戦地へと赴くことになったのである。
「エディットちゃん、あんたもしかして包帯を洗っているのかい?」
その時のエディットは野戦病院の裏手で洗濯をしているところだった。
近頃治療した縁で親しくなったボリス・ヤンソン一等兵に声をかけられて、泡だらけの洗い桶に手を突っ込んだまま顔を上げる。白衣を纏った腕に水が跳ねて、小さなシミを作った。
「ええ。たくさん溜まっていたから」
「そんなのエリートの魔術医務官殿のやることじゃないだろ? そんなことより休んだ方が良いと思うぜ」
怪訝そうに首を傾げたボリスは、山と積まれた包帯とエディットの顔とに視線を往復させた。
確かにこれは階級の低い者の仕事だ。魔術省の職員であるエディットがやる仕事ではないのかもしれないが、休憩時間をどうやって使おうと個人の自由のはず。
「好きでやってるから、気にしないで」
「けどさ……」
「大丈夫、これが終わったらちゃんと休むわ」
戦況は悪くないようだが、次々と急患が運び込まれる都合上、この野戦病院もまた戦場と化している。
エディットももちろん慣れない仕事に疲労困憊だ。しかし人の命がかかっているのだから、動ける時に動かなければならない。
「しゃーねえ、俺も手伝ってやるよ」
「えっ? いえでも、悪いわ」
「いいって、ここで見て見ぬふりは後味悪いからよ。さっさとやっちまおうぜ」
エディットは恐縮したが、ボリスは鷹揚に笑って引き受けてくれた。彼は中々に整った顔立ちをしているので、笑うと更に男前が引き立って爽やかな風が吹き抜けるかのようだった。
一緒に洗うことを申し出てくれたボリスのおかげで、休憩時間内に包帯の洗濯は完了した。二人で乾いた洗濯物を取り込んで、前が見えないような量を抱えて廊下を歩く。
すると前方から歩いてきた人物にぶつかってしまった。
洗濯物の山がぐらりと傾ぐ。何もできずにその絶望的な光景を眺めたエディットは、ぶつかった相手が洗濯物に手を添えて倒壊を阻止してくれたことに、ほっと息をついた。
「ありがとうございます……! ぶつかってしまい、申し訳ありま、せ」
笑みを浮かべて見上げた先には、射殺さんばかりの眼光を放つ灰色の瞳があった。
エディットは危うく悲鳴を上げそうになった。男は端正な面立ちをしているのに、その表情に殺意と蔑みを表しているせいで誰もがひれ伏すような迫力を醸し出している。
——殺される……⁉︎
本能的にそう思った。驚きと恐怖心に身が竦んで、一言も発することができなかった。
エディットが固まっている間にも、男は無言で洗濯物の山を押し返すと、眼光を緩めることもないまま歩き去って行く。
ボリスと二人でしばらくの間、濃緑色の軍服を纏った背中を呆然と見つめていた。圧倒的な存在感が曲がり角に消えてしばらく、ボリスが泡を食ったようにして問いかけてくる。
「大丈夫かい、エディットちゃん……!」
エディットはばくばくと鳴り響く胸を何とか押さえつけて、笑みを浮かべて頷いて見せた。
「だ、大丈夫」
「そりゃよかった。あのお方は極度の女嫌いで有名なロルフ・ダールベック中佐殿だぜ!」
その名前は新参者のエディットですら聞いたことがあった。
ロルフ・ダールベック中佐。戦争にていくつもの功績を挙げた英雄で、その勇名は国中どころか敵国にまで轟く。彼の率いる大隊は他の追随を許さぬ精鋭部隊であり、これまでもいくつもの難局をくぐり抜けてきたらしい。
今のお方がかの有名なダールベック中佐殿だったのか。エディットは先程合間見えた迫力ある立ち姿と殺気に満ちた瞳を思い出して、素直に納得してしまった。
「挙げた武勲がそれはもう素晴らしいんで、鉄壁の英雄と言われるお方だ。俺は訓練でしごかれたことがあってさ、すげー厳しいんだよ。ほんと死ぬかと思った」
「そんなに?」
「ああ。しかもめちゃくちゃ硬派で、女嫌いらしくてさ。噂では女性と見るや理由もなく怒鳴りつけたりするって言うが……まあ、それはどうだかわからないにしても、軍属外に対する態度は一貫してるな。あんたが兵士だったら、睨まれるだけじゃ済まなかったと思うぜ」
ボリスは大袈裟に肩を震わせる動作をしながら、ロルフの消えて行った廊下の先を見つめている。
あの眼光と殺気は本物だった。女嫌いというのは本当で、ぶつかってきたエディットに心底苛立ったのも確かだろう。
しかしロルフは傾きかけた洗濯物を支えてくれたのだ。女嫌いを脇に置いてまで、本物の悪人が果たしてそんなことをするのだろうか。
エディットは小さな違和感を口に出すことはせず、ボリスと共に目的地への歩みを再開した。
戦地での生活は忙しかった。
膨大な数のベッドが用意された巨大な病室を慌ただしく歩き回る。次々と運び込まれてくる兵士に治癒の魔術をかけては、枯渇した魔力を取り戻す間は雑用をこなし、また急患の治療にあたる日々。
魔術医務官の仕事は本来なら魔術省での勤務が基本だ。何故か治癒の魔術を扱える者は女性しかおらず、彼女らの多くが家族との時間を犠牲にしてここにいる。その精神的疲弊は相当なもので、独り身のエディットですらめまぐるしい日々に息切れを覚えていた。
——ああ、駄目だわ。この人のことは、救えない。
目の前に横たわる青年は、虚ろな瞳で何を見つめているのだろう。
胸から流れる血が止まる気配はなく、いくら強い力を持ったエディットの魔術でも手の施しようがなかった。ほんのわずかな輝きとなった命の灯火は今まさに消えようとしていて、エディットは青年の血にまみれた手を強く握り込んだ。
なんて無力なのだろう。治癒の魔術は被術者の身体にも大きな負担をかけるため、使用には限界がある。これ以上彼に力を使えば死期を早めるだけなのだ。
「魔術師、さん……。戦況は、どうなった? 俺は……隊を、率いらなければ」
掠れた声で問われた言葉に、エディットは息を詰めた。
青年の肩章には少尉の階級を示す一つ星が輝いている。こんな事になってもなお、彼はこの戦いの行方を憂いているのだ。
戦況は良くないということしかエディットにはわからない。しかしそれを伝えれば、彼は安らかに逝くことができなくなってしまう。
喉が痛んで声が出なかった。どうしたらいい。どうしたら——。
「作戦は終わった。ルンド少尉、お前のお陰だ」
それはとてもよく通る、低い声だった。
慌てて顔を上げると簡易ベッドの向こう側にはロルフの姿があって、エディットは驚きに目を見張った。
ロルフの軍服は血と土埃で汚れ、所々擦り切れていた。激戦を物語るその姿に言葉を失っている間にも、彼は力強い言葉を紡いでいく。
「明日からは反転攻勢に出る。必ず勝つ」
「中佐、殿……。ほんとう、に」
「この俺の大隊に所属しておきながら疑うつもりか。任せておけ、敵軍にもはや未来はない」
エディットはロルフが話す所を見るのは初めてだった。
彼は死に瀕した部下を前にしているとは思えないほどに堂々と、はっきりと喋る。
「お前が働いた分、俺が働く。お前の部下も上官も同じように思っている。だから、今はしばし休むといい」
青年の茫洋とした瞳がふと緩む。笑顔らしきものを浮かべているのに、返ってくる言葉はもうなかった。
大怪我を負って苦しみながらも、この青年は笑って死んだのだ。そしてそれが誰のおかげなのか、考えるまでもなく明白だった。
もしかするとロルフは死んだ仲間の分まで責任を背負い、武勲を立ててきたのかもしれない。そう思いついたら胸が詰まって、エディットは何も言うことができなかった。
ロルフはほんの少しだけ目を細めると、すぐに迷いのない動作で十字を切った。その動きに自分のすべきことを思い出したエディットは、同じように祈りを捧げるために目を閉じる。
どうか彼の魂が安らかなることを。
再び瞼を押し上げた時、何故かロルフはじっとこちらを見つめていた。
何か言いたそうというわけでもなさそうな、透明な視線。なぜそんな目で見つめてくるのかわからなくて立ち尽くしていると、ロルフは物言わぬまま踵を返して立ち去って行った。
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