4 今度こそ最後の治療に向かいます
次の日。エディットがいつものように仕事に取り組んでいると、レーネが気楽な調子で声をかけてきた。
「エディット、そういえば大佐殿の治療は無事に終わったの?」
無心でペンを走らせていたエディットは、とんでもないことに気が付いたことによって混乱の最中に叩き落とされた。
昨日の出来事について考えると全く使い物にならなくなるので、あえて封印していたのだ。しかしよくよく思い返せば、一番の目的である治療を果たしていないではないか。
「……どうしよう⁉︎」
エディットは音を立てて立ち上がった。
何という体たらく、何という無能。予想だにしない出来事が巻き起こったとはいえ、一人の健康がかかった仕事を疎かにしてしまうとは。これは魔術医務官としてもっともやってはいけないミスだ。
「わ、私、行かないと……! レーネ、少し席を外してもいい⁉︎」
今日はレーネとともに第二医務室の当番をしている。魔術省では近隣の省庁に勤める者たちへ医務室を解放しており、体調が悪くなれば誰でも利用することができるのだ。
レーネは優秀な魔術医務官なので、一人でも短時間なら管理することができるはずだ。忙しくなってしまうのが申し訳ないけれど。
「それは構わないけど、どうしたの? 顔色が真っ青よ」
「私は大丈夫! ごめんなさい、行ってきます!」
本来なら自白剤が云々で治療できなかったのだと理由を伝えるべきなのだが、もしかすると魔術研究室の機密情報かもしれない。エディットは痛む胸を押さえて頭を下げると、白衣を翻して一目散に走り出した。
軍務省は魔術省のすぐ隣に位置している。何かと協力関係にある者同士、利便性を求めてこの立地と相成ったらしい。
受付を済ませて中へと入ったエディットは、すぐさま顔見知りの軍人たちに囲まれることになった。
「メランデルさんだ! 野戦病院ではありがとな。あんたのお陰で命拾いしたよ」
「魔術医務官の皆さんは元気か? 俺たち本当に感謝してるんだぜ」
「あんた達に会えないと華がねえよ。なあみんな」
そうだそうだと口々に言う男達は、野戦病院においては怪我を負った状態で出会った者ばかり。全快した姿を見ることができて本当に良かったと、エディットは微笑んで安堵の溜息をついた。
「エディットちゃんはダールベック大佐殿に用事かい?」
整った顔立ちに笑みを浮かべて見せたのは、中でも年齢の近いボリス・ヤンソンだった。
ボリスは気が効く上に社交的なので、戦地でもよく話しかけてくれたものだ。
「ええ、そうなの。大佐殿はお元気そうだった?」
「俺たちみたいな兵は直接お話させて頂くことはないからなあ。ああでも、遠目で見かけたけどお元気そうだったよ」
やはり出勤していることは確からしい。できれば完全に治療を終えてからにしてもらいたかったのだが、軍人たちの証言を聞くに体調には問題なさそうだ。
ロルフの執務室の場所を教えてもらって彼らと別れたものの、その後も事あるごとに呼び止められて時間がかかってしまった。焦りながらも装飾の少ない硬質な廊下を歩き、ようやく目的の部屋へとたどり着く。
扉の横には《第三軍第二師団第一連隊長室》の札がかかっている。一字ずつ間違いがないことを確認し、エディットは意を決してノックした。
しかし待てども返事がない。念のためもう一度ノックをしてみても室内からは物音一つ聞こえてこず、どうやら不在らしいことが察せられた。
何の先触れもなしに訪れたのだから当然のこと、一つどころに留まる仕事とも思えない。
探すべきなのだろうが、あまり部外者がうろつくのもよろしくない場所だ。焦るあまりに何も考えずに来てしまったが、ひとまずは元気そうだし、そもそもどんな顔をして会えばいいのかわからないのも確か。ここは心を落ち着けてから明日にでも訪ねることにするべきか。
「メランデル魔術医務官、どうしてここに」
声をかけられたことに驚いて背後を振り返ると、そこにはロルフの直属の部下であるウルリク・マットソン中佐が立っていた。
彼もまた本来ならお目にかかれないような有名人であり、エディットは慌てて一礼する。
太陽を思わせる明るい髪色と新緑色の瞳を持つマットソンは、一見すれば濃緑色の軍服が似合う好青年だ。しかし今までの戦歴で挙げた戦果は絶大で、ロルフの部下ながら英雄と並び称される程の実力を持っているらしい。
いつだったかマットソンが語った所によれば、ロルフの連隊が精強なのは隊長による鍛え方が半端ではないからなのだとか。文武の両面から徹底的に磨き上げ、厳しいながらもいつも親身に面倒を見てくれるから、部下には大変に慕われている、とも。
「マットソン中佐殿。ご無沙汰しております」
「ああ、久しぶり。ダールベック大佐殿を治してくれてありがとうな」
マットソンは上官の復帰を心から喜んでいるようだった。彼とも戦場で知り合った縁だが、ロルフが瀕死の重傷を負った折には治療を受けるよう必死で説得していたものだ。
最後のミスを取り返しに来たというのに感謝を告げられてしまって、エディットは思わず息を詰めた。
「……いいえ、私では力不足でした。最後の最後でミスをしてしまったんです」
「ミス? いやでも、大佐殿はすっかりお元気そうだったけど……」
マットソンが不思議そうに首をかしげる。しかし思い当たる節があったのか、やがてああと言って両手を打って見せた。
「そういえば、今日の大佐殿はちょっと上の空だったなあ」
「上の空、ですか……⁉︎」
「ああ、珍しいよな。何か考え事をなさっているご様子で……とは言っても体調が悪いって感じではなかったし、君のせいでは無いと思うよ」
マットソンは気にするなと笑ってくれたが、エディットは内臓が冷えていくような心地がした。
考え事など昨日の件が影響しているに違いない。何せあの女嫌いのロルフがエディットのような貧相な小娘に綺麗だなどと口走ってしまったのだ。あの狼狽ぶりから考えて、多大なるショックを受けたのだろう。
ヨアキムは自白剤だと言っていたが、幻惑作用のある別の薬と間違えたとか、そんなことだったのではないかと思う。そうでなければロルフがそんなことを言うはずがない。
やはりあの時追いかけて、私は気にしていませんと言うべきだった。何かの間違いですからお互い忘れましょうと。
とっさに動けないほど混乱していたこともあるが、エディットは喜んでしまったのだ。
どんな理由があったとしても好きな人に綺麗と言われて嬉しかった。喜びがもたらした混乱は絶大で、治療すら満足にできずに今こうして気まずさを抱える結果になっている。
「大佐殿に用事なんだろう? 中に入って待っているといい」
「い、いいえ! 中で待たせて頂くなんて、そんな。ご迷惑になります」
「遠慮しなくていいよ。こんなところで立っていたら目立つから」
「い、いえ、ですが……!」
マットソンは親切心だけで申し出てくれているからこそ断りにくかった。ロルフと顔を合わせることに怖気付いたエディットだが、治療を放棄するわけにもいかない。
だからと言って勝手に執務室に入るのも気が引けて、どうしたものかと困り果てた、その時のことだった。
「マットソン中佐。こんなところで何、を……」
武人らしくよく通る声が聞こえてくる。二人して振り返るとそこには案の定ロルフがいて、中途半端な表情のまま完全に言葉を失った様子だった。
そしてそれはエディットも同じ。心の準備がないまま対面を果たしたせいで、どうしたらいいのかわからなくなってしまったのだ。
「ダールベック大佐殿!」
上官の挙動不審も察した様子のないマットソンが鋭敏な動作で敬礼をする。しかしロルフが何の反応も返してくれないので、流石に訝しく思ったらしい。
「大佐殿? 如何なさいましたか」
「っあ、ああ! マットソン中佐、俺に何か用か」
「いえ、私からは。メランデル魔術医務官が大佐殿にご用事とのことで、ご案内しようとしていたところであります!」
「……そうか、ご苦労。もう戻っていいぞ」
「は! 失礼いたします!」
颯爽と去っていくマットソンにお礼を告げれば、残ったのは重い沈黙のみだった。
いよいよ逃げ場がなくなって、エディットは全身に冷や汗が滲むのを感じた。
しっかりしなくては。治療をしたらもうこれで大丈夫だと伝えてすぐに帰ろう。心の中で決意を固めたエディットは、ようやく勇気を出してロルフと目線を合わせたのだった。
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