3 腐れ魔術師許すまじ

 今日という今日は殺す。


 ロルフは肩に殺気を漲らせて、姉夫婦の家の戸を叩いた。

 何故かエディットのことを脈絡も無しに褒め称えてしまうという醜態にのたうち回ったのはつい先程のことだ。何とか精神的ダメージから回復したロルフは、当然ながら怒りの矛先を全ての元凶に向けた。


「いらっしゃいませ!……あら、ロルフ? どうしたのこんな時間に」


 出迎えてくれたのは姉のマリアだった。同じ錆茶の髪と、同じグレーの瞳。あの冷え切った実家で数少ない味方だった姉には返しきれない程の恩義があるが、事ここに至っては別の話として割りきらねばならない。


「とにかく入って! 元気になって良かったわ、本当に」


「姉上、あいつはいるか」


 大きなお腹を抱えたマリアは久方ぶりに弟に会えた喜びに笑みを浮かべていたが、無表情で夫の居所を問えば、流石に怪訝そうに首を傾げた。


「ケントに勉強を教えているけど」


「……そうか。ならばケントが眠った瞬間が奴の最期だ」


 ケントというのは夫妻の一人息子で、今年10歳になったかわいい甥っ子だ。低い声で吐き捨てて中へと入ると、どうやら事態を察したらしいマリアがのんびりとした歩調で追いかけてくる。


「また喧嘩? 今度は何があったの」


「よくわからん薬を盛られた。あのクソ魔術師、病み上がりの人間をモルモットと勘違いしているのか? しかも姉上が作ったケーキにだぞ、俺が全部食べるのを見越しての所業だ!」


 自白剤という単語を口に出すことはできなかった。

 あれが自白剤だったことを認めるいうことは、昼間に自らが口走った台詞が全て本心だと認めることと同義なのだ。


 確かにエディットは有能な魔術師であり、真面目で勇敢な仕事ぶりに敬意を覚えていたことは間違いない。女と見れば全てが汚らわしく感じるロルフが、姉以外の女を一人の人間として認識できたのが初めてだということも認めよう。


 白衣の妖精と渾名されていることを知ったときは浮かれた男どもに呆れたものだが、治療に対する清廉なまでの姿勢と優しい微笑みを見れば、そう呼びたくなる気持ちもわからないでもなかった。


 ——だがしかし。俺は女が嫌いだ。よってあんなことを考えるはずがない。……ない、はずだ。


「今回こそは許さん! 必ずこの落とし前は付けさせてやる!」


 貴族の子弟とは思えない口調で怒りを撒き散らすロルフを前にして、マリアは流石と言うべきか落ち着いていた。ヨアキムが二階の子供部屋から降りてくるのを待って階段下に陣取ろうとする弟を制し、ひとまずリビングに案内してソファに座らせてしまう。


「それはまた酷いわねえ。まあまあ、ヨアキムが降りてくるまでお茶でも飲みなさいな」


 あっという間に目の前に用意されたのは、姉の手製のマドレーヌだった。

 昼間に薬を盛られたばかりというこの状況、殆ど条件反射で警戒心を抱いてしまったのは仕方のないことだろう。ロルフが思わず顔をしかめたのを見て、マリアは楽しげに笑った。


「大丈夫よ、さっき焼きあがったばかりだもの。何かを仕込む暇は無かったはずよ」


「……そうか。そういうことなら、頂戴しよう」


 紅茶を飲みつつマドレーヌを食べる。相変わらず美味いし、どこか落ち着く味がする。


「ふふ」

「何を笑っているんだ、姉上」

「ううん。生きて帰ってきてくれて良かったって、思っただけ」


 そう言って優しく微笑まれてしまえば、ロルフは返す言葉を無くして黙り込むしかなかった。

 女が嫌いという理由だけで命を手放そうとした。ロルフにとって命に代えても超えることのできない壁がそこにはあるのだが、家族からしてみれば生きていてくれるだけで何物にも代え難い僥倖なのだ。

 今命があるのは、親しい者を悲しませずに済んだのはエディットのおかげ。そんなことは重々承知している。


「優しい魔術医務官さんに感謝しないとね。ちゃんとお礼はしたの?」


「……いや、まだだ」


「あら、やだわ。そんな子に育てた覚えはなくってよ」


「わかっている、ちゃんと礼はする。武人の務めだ」


 憮然として頷くと、マリアは朗らかに笑ってそうねと言った。以降は世間話をしつつ次々と供される焼き菓子を頬張っていると、上の階で廊下を踏む音がして、やがてリビングの扉が開いた。


「おお、ロルフか。どうしたんだ?」


 呑気な笑顔を見せつけられたことによって一気に沸点を突破したロルフは、懐から取り出した短刀を何のためらいもなしに投げつけた。

 寸でのところで防御の魔術に阻まれたものの、ヨアキムを青ざめさせるには十分だったらしい。


「お、お前な……! 挨拶もなしにそれか⁉︎」

「知ったことか。昼間にあれだけのことをしでかしておいて、よくもへらへらと俺の前で笑えたものだな」


 今日という今日は殺す。そう決めたのは間違いないのだが、その前に一つだけ確認しなければならないことがある。

 珍しくもロルフは一瞬だけ言い淀んで目をそらし、再びヨアキムのサファイヤブルーの瞳を見返した。


「……昼間の薬とやらのことだが。自白剤だというのは間違いないのか」


 どうか違うと言ってほしい。そうでなければ、俺は。


「何だよ改まって。言っただろ、あれは自白剤だよ。捉えたスパイや政治犯なんかに使用する予定の、正真正銘、魔術研究室特製の新薬だ」


 ヨアキムが防御魔術を解きつつあっけらかんと言うので、ロルフは青ざめて絶句した。不思議そうに首をかしげる様子がむしろ真実味を増長させていて、ますます血の気が引いていく。


「……つまり、考えていたことや思っていたこと、知っていることを吐かせることができる薬だと?」


「そういうこと。もちろんこの俺の体を持って実験済みなんだが、なかなかに素晴らしい結果が出たんだぞ。しかも無味無臭にして副作用も一切なし、どうだ凄いだろ?」


 実用化したら軍部に回す予定でさ、そんなわけでお前に先んじて飲ませたんだが——と続けた得意げな声は右から左へと通り抜ける運命を辿った。


 ——まさかそんな。そんなことを心の奥底で考えていたとでも言うのか、この俺が。


 ロルフの脳裏にエディットの笑顔が浮かぶ。

 初めて会った時つい反射的に睨みつけてしまったのだが、ぶつかってきた彼女がやらなくてもいい仕事を引き受けていたことにはすぐに気付いた。


 死んだ部下のために祈ってくれた姿。そこかしこで見かける仕事中の背中。毅然と言い返してきた時の怒りの眼差し。治療を受けると伝えた時の、心の底から嬉しそうな笑顔。


 全てが好ましい。……全てが、好ましい?


「だあああああああ!」


「うわ、何だあ⁉︎」


 耐えられなくなって絶叫したロルフは、ヨアキムの怯えたような声もまったく聞こえていなかった。

 この胸をかきむしりたくなるような感情は何だ。けれど違和感はなく、むしろずっとそう思っていた、ような。

 おかしい。そんなことはあり得ない。子供の頃のトラウマはそう簡単に越えられるものではなかったはずなのに、どうして彼女だけは。


「……帰る」


 呆気にとられて口を開けた姉夫妻の顔を見る気も起きず、ロルフは亡霊のような動作で立ち上がった。

 以降は思考回路がまとまることもなく、いつのまにか自宅へと帰り着いた後は、眠れぬ夜を過ごすことになったのである。



 *



「あいつ、大人しかったな。……ってことは、鎮静剤入りマドレーヌは食べたんだよな?」


「ええ、ばっちり食べていたわ」


「助かったよマリア、命拾いだ。それで礼をするように促してくれたか?」


「もちろん。あのロルフとはいえ、流石に行動を起こすはずよ」


「これはまたとない機会だからな……ロルフには女嫌いの克服、ひいては嫁さんをゲットしてもらうぞ!」


「おー!」


 溌剌と拳を振り上げた夫婦の会話を聞き留めたものは、誰一人としていなかったという。

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