2 何事ですか!
普通に考えて聞き間違いだ。
女嫌いのロルフがそんな歯の浮くような台詞を言うはずがない。怪我をした当初は最低最悪の仇敵に出会ったかのように治療を拒絶したあのロルフが、である。
聞き取れなかったと言って謝ろう。決意したエディットが口を開こうとした、その時のことだった。
「違う! 俺はそんなことは考えていない!」
地面を震わすような一喝が轟き、エディットは瞳を瞬かせた。
見ればロルフは顔を真っ赤にしており、エディットよりも遥かに困惑した様子だった。自らの言動を後悔していると言わんばかりだ。
つまり彼の言い分によると、今日も綺麗だなと口走ったのは事実だが全くの冗談だということだろうか。笑うことができずに悪いことをしてしまったし、なんだか自意識過剰みたいで恥ずかしい。
「そうですよね、申し訳ありません。私なんて良く言って十人並みですもの」
「なっ……⁉︎ そんなことは無いだろう! 貴女は誰よりも綺麗で可愛らしいじゃないか!」
エディットは今度こそ言葉を失ったが、それはロルフも同じだった。
鋭く息を飲んだ彼は、音を立てて口元を覆うと驚愕に目を見開いたまま動きを止めた。まるで悪夢でも見たかのような表情に、エディットは何よりもまず心配になった。
この家で魔術が使われたことは明らかだ。ヨアキムは大丈夫だと言っていたものの、やはりかなりの悪影響があったのかもしれない。
例えば目の前の人間が絶世の美女に見えてしまう副作用とか。そんな症状は聞いたことがないけれど。
「大佐殿、本当に如何なさいました? 明らかに混乱しておられます。まずはどこかにお座りになった方が」
「何があったのかと言うと、ヨアキムのやつに自白剤を盛られたんだ。つまり今の俺は、何でも思ったことをペラペラ喋ってしまう状態にある」
またしても間髪入れずに答えが返ってくる。ロルフは再度音を立てて口元を手で抑えたが、エディットは聞いた話を読み解くのに必死だった。
そう確か、ヨアキムはこう言ったのだ。
『今日のあいつはちょっと素直かもしれないけど別段気にしなくていい』
魔術研究の第一人者かつ破天荒なヨアキムならば、自白剤などという代物を素晴らしい精度で完成させ、それを知人に飲ませることくらい平気でやりかねない。
つまり、今のロルフは本人の申告した通りに自白剤を飲まされてしまい、何でも素直に話してしまう状態にあるということか。
「えっ……⁉︎」
思わず小さな悲鳴が口をついて出た。立てた仮説が正しいのであれば、今のロルフの言動は彼の本心ということになる。
エディットを綺麗だと言った、まっすぐな言葉が。
「……っち、違う!!!」
顔をトマトのように赤くしたロルフが叫ぶ。明らかに狼狽しきって裏返った声に説得力はなく、本人もそれを自覚しているのかよろよろと後ずさっていく。
「違う! とにかく、違うんだ!」
「は、はい……」
「いや、違う、違わない! そんな困った顔をするな、胸が痛むんだ!……っ⁉︎ くそ、俺は何を言っているんだ⁉︎」
言葉にならない声で絶叫しながら頭をかきむしったロルフは、やがて顔を上げると目を釣り上げて、まくしたてるように言った。
「駄目だ、今日はもう無理だ! すまないが帰ってくれ、後日この件に関しての詫びは必ずする!」
「大佐殿……!?」
呼び止める声も虚しく、ロルフは脇目も振らずに屋敷の中へと走り去って行った。彼の背中から「気をつけて帰るように!」とおきまりの別れの言葉が投げかけられ、大きな音を立てて扉が閉まる。
急に静かになったダールベック家の庭にて、エディットはぺたりと座り込んでしまった。
「一体、何が起きたの……?」
「本当になあ」
独り言のつもりが答えが返って来るという珍事に顔を上げると、そこには腕を組んで面白げな笑みを浮かべるヨアキムの姿があった。
そういえばこの人は隠れて様子を見ていたのだったか。呆然とするばかりのエディットに対して、全ての元凶であるヨアキムは、家主の消えた玄関扉を見つめてなぜか楽しそうだ。
「君の治療を受け入れた時点でおかしいとは思ってたんだよなあ。なるほど、そういう訳だったのか……あの狼狽えよう、さては自分でも気付いてなかったな」
独り言ちたヨアキムがこちらを振り向いた。ありがたくも差し出された手を借りて立ち上がったのはいいが、エディットは呆けたままだ。
「迷惑かけて悪かったな。この結果は俺も想定外だ」
「はい……」
「さっきあいつが言ってたことは事実だよ。俺は実験のためにケーキに自白剤を盛り、ロルフはそれを食べた。まさか聞いてもいないことをぺらぺら喋るほど効くとは思わなかったけど」
「はい……」
もはやエディットの頭では理解の範疇を超えてしまっていた。色々とツッコミどころのありすぎる説明を前に、訳も分からないまま頷くしかない。
「これだから魔術は面白い! 効力が強い分には申し分ないが、どこで間違ってこうなったのか検証しないとな」
「はい……」
「なあ、君」
「はい……」
生返事を返し続けるエディットに、ヨアキムは苦笑を浮かべた。それは歳下の幼馴染の成長を喜ぶ兄貴分の顔だったのだが、エディットが読み取れることではなかった。
「ロルフのこと、考えてやってもらえないか?」
エディットは天才発明家の言うことが全く読み取れずにまたたきをした。
ロルフのことを考えて欲しいだなんて、この方は何を言っているのだろうか。ここ最近はずっと考えていたし、今回の出来事で頭が満たされている現在、わざわざ頼まれなくとも勝手に考えてしまう。
「はい……」
ぼうっとした頭を上下に振る。するとヨアキムはこの世の幸運を全て手中にしたとでも言うほどの笑みを浮かべ、エディットの肩をがしりと掴んできた。
「ありがとう! 君は天使だ、ロルフにとっての! これであいつの女嫌いも治るかもしれない!」
——駄目、リンドマン室長が何を仰っているのか本当にわからないわ。
ヨアキムは嬉しそうに「あとは俺に任せておいてくれ!」などと言って笑っていたのだが、頭が真っ白になったままのエディットはこの状況について何一つとして理解していなかったのである。
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