1 もう諦めようと思うのです
午後3時を迎えた時計を確認し、エディット・メランデルは机の上を片付け始めた。すると右隣に席を有する同僚のレーネが気の毒そうな視線を注いでくる。
「エディット、これから『鉄壁の英雄』のところに行くのよね? ……その、頑張ってね」
『鉄壁の英雄』というのは、数々の戦争で凄まじい功績を挙げた軍人、ロルフ・ダールベック大佐のことである。
錆茶の髪と切れ長の灰色の瞳、男らしく精悍な容貌を持つ上に伯爵家の子息である彼は、見た目と地位だけなら抜群に女にモテるはずだった。
そう、極度の女嫌いという特異性だけ無ければ。
「悪い人ではないんだよ? ただ女性にはやたらと冷たいというだけで」
「それ、悪い人って言うと思うわ。こっちは何もしてないのに」
レーネはロルフとは特に面識がない筈だが、すっかり悪印象が定着しているらしかった。エディットは苦笑を浮かべるしかない。
「えー? 私は素敵だと思いますう。硬派で恰好良いじゃないですかあ」
すると左隣のダニエラが甘ったるい声で話に割り込んできたので、レーネはますます眉を釣り上げたようだった。
ダニエラは入省一年目の新人で、エディットたちの一年後輩にあたる。女性社会である魔術医務官の中においても一際華やかなブロンドと水色の瞳を持つ彼女は、既に恋多きことで有名な猛者だ。
「イケメンだし、キリッとした表情も素敵ですよねえ。お話ししてみたいですう」
「うんまあ、格好良いことは間違いないと思うけどね。あはは……」
女嫌いとして女性陣から評判の悪いロルフだが、ダニエラにとってはそんなことはお構い無しらしい。流石の勇猛ぶりにエディットがますます苦笑していると、レーネが明らかに気分を害した様子で突っかかっていく。
「どうでも良いのよイケメンとか、エディットの苦労を考えろって言ってんの。触れずに治療しないといけないから、魔力の消費が凄くて大変なのよ」
「イケメンじゃないよりイケメンの方がいいじゃないですか。私だったら治療の度にテンション上がっちゃいますよお。徐々に距離詰めて、最後には触っちゃおうかなあ」
「何バカ言ってんのよ。あんたには無理、触れずに治療するなんてエディットにしかできないんだから」
「あー! ひどーい、レーネさん! 私だったら触っても大丈夫って言わせてみせますもん!」
ロルフの女嫌いは半端なものではなく、女というだけで全てが嫌悪の対象という価値観の持ち主なのだ。ダニエラほど可愛ければ話は違うのかもしれないが、エディットなど女性と思わないでほしいと伝えて何とか治療を受け入れて貰ったくらいなのだから。
「落ち着いて二人とも。仕事中でしょ」
まあまあと言って取りなすと、彼女らはそれぞれ憮然とした様子で手元を動かし始めた。
生真面目だけが取り柄のエディットは現在19歳で、この魔術省魔術医務室に勤めて二年のひよっこ魔術師なのだが、一年目から最前線の野戦病院に送り込まれた経験の持ち主でもある。
最後の戦いで大怪我をして運び込まれてきたロルフの治療担当官となり、以来治癒の魔術を一定の間隔で施してきた。
しかし実のところ、エディットは戦地に赴いた頃から彼のことを知っていた。
彼がどれほど勇敢で、部下想いなのかを。どれほど責任感があって、生真面目すぎるほどの思いで仕事にあたっているのかを。
「それじゃ、私はこのまま直帰だから。お疲れ様でした」
「お疲れ。気をつけてね」
「お疲れ様でしたあ!」
先輩方からも頑張ってきてねと華やかな激励を受けたエディットは、笑顔ひとつ残して職場を後にした。
一つに束ねたラベンダーブロンドが秋風を受けて揺れる。クチナシ色の瞳を伏せて歩いていると、意志とは関わりのない苦笑がこぼれ落ちた。
——治療も今日で終わり、か。元気になってくれて嬉しいけど、やっぱり寂しいな。
それは生真面目で奥手なエディットの、生まれて初めての恋だった。
何もあんな難しい相手じゃなくてもいいのに、どうしてロルフだったのだろう。いや、違う。彼の良いところなんていくらでも知っている。この短い期間ですらいくつも見出せてしまうほどにずっと見つめていた。
エディットはひっそりと微笑む。
叶う当てのない想いは今日ですっかり捨て去るつもりだ。こんな想いを抱いたこと自体が彼に対する裏切りであり、絶対に悟られるわけにはいかないのだから。
異変が起きたのは次の角を曲がればダールベック家に着くという頃のことだった。
周囲を震わすような爆発音を聞きとめて、エディットは俄かに顔を上げる。目的地の方角からはミントグリーンの煙が立ち上っていて、明らかに魔力反応を帯びたその色に慄然とした。
一体何が。疑問を抱くより先に走り出したエディットは、門を押し開けて庭に入ったところで何者かにぶつかってしまった。
「ごめんなさい……!」
「おっと、すまない!」
お互い倒れることはなく、よろめくだけに留めて相手の姿を確認する。そこには見覚えのある男がいて、エディットは両目を瞬いた。
「リンドマン室長!」
「……ああ、もしかして。ロルフを治してくれた子って、君のことか?」
ヨアキムはエディットの顔を見るなりほっと息をついた。エディットからすれば面識はなくとも魔術省の有名人のことは当然知っていたし、どうやら彼の口ぶりから察するにロルフと親しいようだ。
「あの、今爆発が!」
「大丈夫大丈夫。俺の仕業、それ」
へらへらと笑みを浮かべる天才は、爆発を引き起こしたというのに全く悪びれる気が無いらしかった。エディットは状況が把握しきれずに焦燥を募らせる。
「大佐殿はご無事ですか?」
「いやあそれが……」
「まさかお怪我を⁉︎」
「それは無いんだけど、ずいぶん怒らせちまってさ。逃げてきたとこなんだよな、うん。参った参った」
ヨアキムはひらりと身を翻すと、楽しげな笑みと共にものすごく適当な動作で手を振って見せた。
「今日のあいつはちょっと素直かもしれないけど別段気にしなくていい。じゃ、俺は経過観察のためにそこいらに隠れるから、後よろしく!」
言い切ってからのヨアキムは人とは思えぬほど俊敏な動きを見せた。よく整えられた垣根の向こうにその身を滑り込ませたのと、一人の男がドアをぶち破る勢いで玄関から飛び出してきたのは殆ど同時だった。
「どこだ、ヨアキム! 舐め腐りやがって——」
ロルフは鬼も裸足で逃げ出す形相をして、抜き身のサーベルをその手に携えている。ヨアキムが何をしたのかはわからないが、過去最高に怒髪天をついているようだ。
まずは落ち着いてもらわなければ。完治に近い状態とはいえ、興奮すると傷に良くないことは間違いない。
「大佐殿、一体如何なさったのですか」
側へと駆け寄って灰色の瞳を見上げる。ロルフは怒り心頭に発するといった顔をしてたが、エディットと目を合わせるなりピクリと眉を震わせて動かなくなった。
「とにかく落ち着いて下さい、傷に響きますから。……あの、大佐殿? 本当に、どうなさったのですか」
サーベルの切っ先を地面に向けたまま微動だにしないロルフに、エディットはだんだん不安になってきた。
何せ一度は魔術による爆発があったのだ。魔術師ではないロルフが何らかの影響を受けていても不思議はない。
「まずは診察をしましょう。さあ、お部屋にお戻りにな」
「メランデル魔術医務官、貴女は今日も綺麗だな」
——んん?
唐突すぎる賛辞に、エディットは10秒固まったのちにぱっくりと口を開いたのだった。
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