もうこの恋はやめます。ー治癒魔術師は女嫌いの想い人の前から静かに去りたいー
水仙あきら
序 義兄に自白剤を盛られるなんて誰が想像する?
ロルフ・ダールベック大佐の自宅に姉の夫が訪ねてきたのは、療養期間も終わろうかという秋のある日のことだった。
「よお。元気にしてたか?」
どう考えても戦場で瀕死の重傷を負い、ようやく体調を戻してきた相手にかける言葉ではない。
ロルフはげんなりとした表情を隠しもしていないというのに、目の前の男——ヨアキム・リンドマンは、まったく空気を読む気がないようだった。
「お前が来なければ元気だったのだがな」
「はっはっは。そんだけ憎まれ口が叩けるなら大丈夫みたいだなあ」
ヨアキムは後ろで束ねた茶髪を靡かせて、気だるげながらもずかずかと敷居をまたいでくる。玄関ホールに入り込まれた段階で諦めたロルフは、使用人のトシュテンにもてなしの準備を整えるよう声をかけた。
仕方なく応接間に案内してやり、テーブルを挟んで腰掛ける。ヨアキムはサファイアブルーの瞳を細めて笑うと、前置きもそこそこに手土産を差し出してきた。
「快気祝いだ。甘いもん好きだろ」
「なんだ、珍しく人並みの気遣いをするじゃないか」
意外な心遣いを受け、ロルフは笑みを浮かべた。このヨアキムという男は天才魔術師として名を馳せる傍、その破天荒ぶりでも有名人なのだ。
魔術省研究部第二研究室という変人の巣窟を束ね、34という年齢にして稀代の大魔術師とも呼ばれている彼は、自由すぎる言動には枚挙にいとまがない。
とんでもない発明をして研究室を吹き飛ばしたり、実験の過程で部下が人の姿に戻れなくなったり、それを戻そうとした結果世紀の発明を成し遂げたり。
お互いに貴族家の生まれのヨアキムとの付き合いは長く、幼い頃から姉と三人でよく遊んでいた。ロルフが実家の伯爵家を出ても、ヨアキムが姉と結婚してもその関係に変化はなく、今なおこうして気にかけてくれている。
ただし6つも歳上であるはずのこの男のせいで、魔術による被害を被ったことは両手で数えても足りないほどだ。
ロルフは確かに甘いものが好きなのだが、このお土産を素直に受け取っても良いのだろうか。躊躇う気持ちはあったものの、街で買った既製品のようだし、何より義兄兼友人である男の好意を無下にするわけにもいかない。
「ありがたく頂く。今すぐ開けよう」
「おお。そんじゃ、ご相伴に預かるとするか」
正方形の箱を見るに、中身はどうやらホールケーキのようだった。包装紙を解く間も二人は他愛も無い会話を続けていく。
「ロルフ、仕事にはいつ復帰するんだ?」
「明日だ。随分と部下に仕事を押し付けてしまったからな、恩を返すつもりで働かねばならん」
「おーおー、部下は大事にしろよ。何せお前のような死にたがりに付いてきてくれるような連中なんだからな」
王立軍第三軍第二師団第一連隊長であるロルフと国お抱えの魔術師であるヨアキムは、仕事の上でも切っても切れない関係にある。どんな無茶な作戦を実行したのかは、既にこの男の耳に入っているのだろう。
今回の大怪我を負った際の醜態を思い出して、ロルフは気まずさを押し隠すように眉を寄せた。
「俺は別に死にたがっているわけじゃない。職務を忠実に実行した上で、治療を拒否しただけだ」
「それ、周囲からしたら血の気の引く発言だからな。天下の大佐様を治すために、軍医も魔術医務官も必死だったんだぞ」
ヨアキムはやれやれと言わんばかりに笑った。しかしこの話は、ロルフにとっては冗談では済まない重大なものなのだ。
ティーワゴンを置してトシュテンが入室してくる。60才になろうかという執事とは実家のダールベック伯爵家にいた頃からの付き合いで、主人の考えについてもよくよく承知していた。
「治療だからといって女に触れられるなど、ぞっとする。そんな目に遭うくらいなら、死んだほうがマシだ」
そう、ロルフは極度の女嫌いなのだ。
もし指の先でも触れようものなら吐き気を催すほどで、とくに色香を利用して権力者に取り入るような連中は心の底から大嫌い。社交界に出入りしていた頃など毎日が地獄だった。
それは死の淵に立たされるという状況にあっても変わらず、ロルフは野戦病院にて女性による治療を拒否するという暴挙に出た。治癒の魔術は即効性があるのだが、いかんせん魔術医務官は女性しかいないのだ。
すぐに戦線復帰しなければならない戦況なら血を吐く思いで耐えられたかもしれない。あいにく大怪我を負うと同時に戦争に勝利していたので、心置きなく拒否することができた。
「でも、最終的には治療してもらったじゃねえか。そうでなけりゃ全治半年はかかる大怪我だったんだろ」
「……仕方がない。それでは職務復帰まで時間がかかりすぎるからな」
ロルフの脳裏にとある魔術医務官の姿が浮かんだ。触るなと言ったらその通りにしてくれた、稀有な力を持った女。
彼女の治療も今日が最終日だ。そう思うとホッとして、力が抜けるような思いがする。
「その女嫌い、なんとかする気はないのか?」
「女は害悪で、寄生虫だ。いかに金のある男と一緒になるかということしか考えず、結婚した後には一夜の恋のために汚らわしい視線を振りまいている。あんな連中、視界に入ることすらおぞましい」
憎しみのこもった言葉を唾棄する主人の傍ら、トシュテンがティーカップに茶を注ぎ、皿にケーキを盛り付けている。長い付き合いの使用人は何か言いたげな視線をちらりと向けてきたが、結局何も言わずに去っていった。
土産はフルーツの乗ったタルトだった。見た目からして美しいケーキは気分を高揚させたし、実際の味わいも爽やかな酸味とバターの生地が相まって非常に美味だ。憮然とした表情を輝かせたロルフだが、ヨアキムは相変わらず呆れたような笑みを浮かべている。
「良いもんだけどね、結婚ってのは。帰ってきた時奥さんが出迎えてくれるとな、すごく癒されるんだぞ」
「……俺だって、もちろん姉上がそんな女だと言ってるわけじゃない。お前が幸せなのはな、ヨアキム。お前自身が姉上を信頼しているからなんだよ」
女にだって男と同じでいろんな者がいて、誠実で真面目な者も存在する。しかしそれをわかっていても女というだけで信用できず、全てが汚らわしく見えるのだからどうしようもない。
「信頼を寄せてくれる者に信頼を返す。人間関係とはそういうものなのだから、つまり俺に女とそんな関係を築くのは一生無理ということだ」
「……ふーん。まあ今更しょうがねえか」
ヨアキムはいつものように微笑んでいる。しかしその飄々とした佇まいの下に人情が潜んでいることを、ロルフはよく知っていた。
この幼馴染みは女嫌いの原因についても承知しており、故に強く言うことができないのだ。心配だけは無言で受け取ることにして、ロルフはケーキをもう一つ皿に盛った。ヨアキムの皿にも乗せてやると、四等分にされたケーキはこれで終了と相成った。
「美味いだろ、このケーキ」
「ああ、かなりいけるな。どこの店だ?」
自分でも買いに行ってみようか、などと呑気に考えながら最後の一口を飲み込む。
しかしながら、友人の口から帰ってきた答えはとんでもないものだった。
「マリアの手製だ」
「……何だと?」
完成度の高い包装から店のものだと判断したのに、まさか姉の手製だったとは。たしかにあの人は料理が上手いが、ホールケーキを作る趣味は無かったはずなのに。
「快気祝いに張り切ったみたいでなあ。臨月近いから外に出るのは止めたけど、会いたがってたぞ」
満面の笑みを浮かべる古い友人を前に、ロルフの背中を冷や汗が流れ落ちてゆく。
「さて、どうかね気分は。妙に喋りたくなってこないか?」
「ヨアキム、お前まさか」
「ああ。一服盛った」
さらりと言ってのけたヨアキムに怒髪天をついたロルフは、音を立てて立ち上がった。
「お前、俺に何を食わせた!?」
「自白剤。お前みたいな強靭な意志を持った奴が飲んだらどうなるか知りたくってさ」
ヨアキムは至極飄々とした笑みを浮かべている。
どうやらこの男には良識というものが欠如しているらしい。病み上がりの義弟に対してなんてものを食わせるのか。
「貴ッ様あ! そこに直れ、その崩壊した性根を叩き直してくれる!」
「まあまあ、ひとつ弁明をさせてくれ。マリアは無実でな、俺がお土産にと持たせてもらったものに薬を盛っただけなんだ。そこのとこ間違えるなよ」
「姉上がお前と結婚すると言った時、俺は心の底から祝福したんだがな。やはりお前のような腐れ魔術師は早めに成敗しておくべきだった。……さあ、せいぜい神に祈るがいい」
低く唸ったロルフは壁に飾っていたサーベルを抜き放った。その段階になって、ヨアキムはようやく事態の不味さに思い至ったらしい。
「え? ちょっと待って、ロルフ君? 何その剣は……おい⁉︎」
「——問答無用!」
全身のバネを総動員した突きは、寸での所で躱された。切っ先が革張りのソファに突き刺さり鈍い音を立て、間髪入れずに抜き去ったことによって中から綿が飛び出してくる。もう一度顔面に突きを繰り出したが、今度も茶色の髪を幾筋か断ち切るのみで終わった。
その光景を目の当たりにしたヨアキムは、端正な面立ちを恐怖に引きつらせた。
「ちっ、ちょこまかと。神妙にしていろ」
「お兄様に対してそれはないんじゃないの⁉︎ 一歩間違ったら死んでたぞ、今の!」
「黙れ。今日という今日は許さん!」
ロルフは言うと同時、今度は横払いの剣戟を繰り出した。ヨアキムが慌てて防御の魔術を発動させたお陰で、あと1センチと言う所で見えない壁に阻まれる。爆風が生まれ、それによって茶器や花瓶がなぎ倒されて甲高い音を立てた。
それはヨアキムが倫理観を無視した実験を試みた時の、いつもの光景であった。
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