団地の香苗

滝田タイシン

第1話 団地の香苗

 少し寒さを感じ出した、十一月三日の午後。私は七年ぶりに、娘の愛理あいりを連れて実家である県営住宅に帰って来た。




 バスを降りて、国道沿いを少し歩くと団地が見えてくる。団地が近付くに連れて、気持ちがだんだん重くなった。二度と戻らないと決めて出てきた場所だから。


 目の前にした団地は、私が居た時より綺麗に整備されている。入口横にあった花壇には柊ひいらぎが一面に植えられていたが、今は花壇自体が無く、芝生の広場になっている。外装も塗り替えられ、耐震工事も完了し、見違えるようだ。


 綺麗な外観を見ても気持ちは晴れなかった。重い気持ちのまま、団地の敷地に足を踏み入れた瞬間、体中の毛が逆立つような不気味な感情を覚える。思わず引き返したくなったが、出来なかった。他に戻れる場所など今の私には無いからだ。




「ママァ、どうしたの?」




 団地に入った途端に立ち止まった私を、不安そうな顔で娘の愛理が見上げる。


 まだ六歳になったばかりなのに、今までずっと、怖くて不安で辛い日々を送ってきた愛理。この子だけは絶対に幸せにしないと。


 私はつないだ手を握り直した。




「何でも無いよ。おばあちゃんが待ってるから行こうか」




 私が作り笑顔でそう言うと、愛理はホッとしたように「うん」と笑顔になった。


 団地は十四階建ての建屋が五棟。今私が見上げているのは、L字型に並んだ一号棟と二号棟。二号棟の奥に三、四と続き、五号棟は少し離れた場所に単独で建っている。


 一号棟と二号棟の共通エレベータに乗り込み、今は母一人が住む十一階の実家へ向かう。エレベーターを降りた後は、愛理の手を引いて廊下を歩いた。




「ここがお婆ちゃんのお家よ」




 部屋の扉の前に立ち、愛理に話し掛けた。愛理は緊張した面持ちで、返事をせずに扉を見つめている。愛理は祖母と初対面となるのだ。


 七年前に高校を中退して実家を飛び出してから、私は初めて帰って来た。決して母が嫌いになった訳じゃなく、只々、この団地に住んでいるのが耐えられなくて、東京に行くという彼氏に付いて実家を飛び出したのだ。




「こんにちは」




 「ただいま」と言うか少し考えたが、私は他人行儀に「こんにちは」と挨拶しながら扉を開けた。




「お帰り」




 連絡をしていたので、母はすぐ出迎えてくれた。まだ五十代になったばかりだが、七年ぶりに会った母は老けて見えた。




「あら、愛理ちゃん、初めまして」


「こんにちは。初めまして、愛理です」




 愛理は練習した通りに、キチンと頭を下げて、母に挨拶をした。




「いやあ、凄いお利口さんね! さあ、上がって、おやつも有るよ」




 笑顔で家に上がり、奥へと進む愛理。




「さあ、あんたも自分の家なんだから上がって」


「ありがとう。お母さん」




 母の優しさがありがたいと感じると同時に、ずっと顔を見せなかった親不孝を心の中で詫びた。


 父は私が幼い頃に亡くなり、3DKに今は母一人で住んでいる。奥の和室で、愛理は母が出してくれたお菓子を頬張り、テレビを観ている。私達はお茶を飲みながら再会を楽しんだ。


 母はあえて自分の話ばかりして、私の事は聞かなかった。私は母の話に相槌を打つだけで済んでいる。それが本当に助かった。


 七年前、彼氏に付いて東京に出たものの、良かったのは愛理が産まれるまで。彼は私の一歳上で当時十九歳。父親になった自覚など無く、私や愛理の事などお構いなしに遊び歩いていた。当然夫婦仲は悪くなりDVへと発展、娘の為にと我慢していたのだが、暴力が愛理にまで向かい始めて離婚を決意した。揉めたあげくにようやく離婚は出来たが、頼れる者は母一人。結局、私はまたこの団地に戻ってきたのだ。




「あんたさえ良ければ、ずっとここに住んでも良いんだよ」




 母は私に遠慮しながらも、そう勧めてくる。




「ありがとう。でも、仕事が見つかったら、アパートを借りるつもり。出来るだけ近くに住むから、来てくれれば良いよ」


「そう……まあ、あんたはこの団地が嫌いだったよね……」


「そう言えば、この団地も綺麗に整備されたわね」




 私は自分の事から話題を逸らした。




「そうよ。あなたが出てから、ずいぶん綺麗になったわ」


「入口にあった柊の植え込みも無くなったのね」


「あれに関しては無くして良かったのかね。あれ以来毎年のように飛び降り自殺が発生しているのよ。住人が自分の部屋から飛び降りた例もあれば、わざわざ別の場所からこの団地に侵入して飛び降りる人も居たんだよ。しかも、隣に分譲マンションが出来たのに、こっちばかりで飛び降り自殺するの。ホント嫌になっちゃう」




 母はため息交じりに笑った。




「それにね、幽霊が出ると言う噂もあるのよ。集会所前の電灯あるでしょ。あの下に男の人が立っているとか、雨の日には電話ボックスの中に女の人が立っているとかね。一番怖いのはエレベーターなのよ。一人で乗っていて目的の階で降りた後にね、なにか視線を感じて振り返ると、誰も居ない筈なのに、中に頭から血をドクドク流した女の子がこちらを見て笑ってるとかね」


「もうやめてよ怖いわ」


「ごめん、ごめん。でも実際見たという人は居ないのよ。馬鹿みたいね」




 母はそう言って笑った。




「でも、柊って魔除けの効果もあるらしくて、それを刈り取ってしまったから、この団地には、魔物が集まるんじゃないかって言う人もいるんだよ」


「そんなの迷信よ」


「そうだね……香苗ちゃんの事故は、柊がまだある頃だったものね……」


「あの事故の話はしないで!」




 私が自分でも驚くほどの大きな声を上げたので、テレビを観ていた愛理まで振り返った。




「そうだ、耐震工事でベランダが広くなったんだよ。柱を外から追加して、その分ベランダになってね」




 母は話題を変えようとして、立ち上がりベランダに向かう。私も愛理と一緒に、母の後ろに続いた。


 確かに広くなっている。そう感じながら、ベランダに出て外を見た瞬間、私はまた大きな声を上げそうになった。先程の事があるだけに声は抑えられたが、鼓動は高鳴り、体が小刻みに震えた。


 十一階のベランダからは、広い範囲の景色が見える。団地からは歩いて十分ぐらいの場所に河が流れていた。その河は私にとって、この団地以上に近付きたくない場所。母が言った「あの事故」以降、私は河川敷にさえ足を踏み入れた事は無い。




「寒いわ、中に入ろうか」




 私は動揺を隠して、愛理と母に声を掛け部屋の中に戻った。


 その後は事前に送っていた荷物を整理した。明日からは仕事を探さないといけない。一刻も早く、この団地から離れないと……。






 次の日から、私は仕事を探し始めた。母も仕事をしており、その間は愛理一人で留守番しなくてはいけない。可哀想だと思うが、来年からは小学校に入学する。あと半年だけは我慢してもらわないと。


 今日も就活の面接が終わり、夕方ごろ団地に帰って来た。毎日私が帰ると、泣きそうな顔で抱き付いてくる愛理。あの顔を見ると心が痛い。




「あら、真希ちゃんじゃないの?」




 エレベーターホールで先に待っていた、ずんぐりとした体形の五十代ぐらいの女性が私を見て話し掛けてくる。




「お母さんから、戻って来たって聞いていたのよ。懐かしいわね」


「お久しぶりです」




 女性は小学校時代の同級生、古田香苗ふるたかなえの母親だった。私にとって、この団地で一番会いたくない人だ。




「娘さんが居るんだって? 羨ましいわ」


「はあ……」




 会話を続けたくなくて、曖昧に返事をする。三階から降りてくるエレベーターを祈るような気持ちで待った。




「香苗も生きてたら、今頃お母さんになっていたかな……」




 独り言のようなので、聞こえない振りをした。やっとエレベーターが降りて来たので乗り込む。




「でもね、良い事があったのよ。香苗が久しぶりに夢に出て来たの」


「えっ?」




 先に乗り込んだ私は香苗の母親の言葉を聞き、思わず振り返る。




「香苗がね、もうすぐ、もうすぐって呟いてたの。夢でも会えて、本当に良かった……」




 ハンカチを取り出して涙を拭う香苗の母親。夢とは言え、死んだ香苗の話を聞くと、不気味で背中がゾクリとする。




「それは良かったですね」




 私は心にもない事を、ニコリともせず言ったが、彼女に私の思いは伝わらなかったようだ。その後も自分の階に着くまで思い出話を続ける香苗の母親に、相槌を打つことも無く無視し続けた。


 先に降りた香苗の母親と別れ、私は十一階の家に帰って来た。




「ただいま」


「おかえりー」




 愛理が奥から笑顔で出てくる。今までに無かった事だ。先ほどの嫌な気持ちも忘れて、駆け寄ってきた愛理を抱きかかえた。




「良い子でお留守番してた?」


「うん、愛理良い子にしてたよ。今日はお姉ちゃんと遊んでたの」


「お姉ちゃん?」


「うん、一緒にね、テレビ観たり、絵本を読んだりしてたの」




 家に誰も入れちゃ駄目、ドアも開けないように言っていたのに、守れなかったのだろうか?




「そのお姉ちゃん、お家に入れちゃったの?」


「愛理が入れたんじゃないよ。愛理の頭の中に勝手に入ってたのよ。お姉ちゃん!」




 愛理は目を瞑って「お姉ちゃん」を呼んだ。




「あれ? お姉ちゃん居なくなった。向こうに行ったら出て来るかも知れないから、こっち来て」




 愛理は不思議そうな顔で、私の手を引きリビングへと向かう。リビングのテーブルの上には読みかけの絵本が広げてあった。ついさっきまで読んでいた感じがする。




「お姉ちゃんはさっきまで居たの?」


「うん、頭の中に居たけど、今は居なくなっちゃった」


「お姉ちゃんは何て言うお名前なの? 何歳ぐらいか分かる?」


「お姉ちゃんは五年生って言ってたよ。お名前は今は言えないけど、もうすぐ分かるって」




 五年生か。かなり年上なんだな。


 イマジナリーフレンドという言葉を聞いた事がある。幼少期に架空の友達を作ってしまう事。一人っ子や女の子に現れやすい傾向があると聞いたけど……発達過程における正常な事とも聞いたけど、大丈夫なんだろうか。




「じゃあ、愛理はドアを開けてないんだね」


「うん、ちゃんと約束守ったよ」


「そう、偉いね」




 嘘を吐いている感じは無い。とりあえず様子を見るべきか。




「じゃあ、ご飯を作るから、もう少し遊んでてくれる」


「うん」




 愛理が笑顔で頷く。何にせよ、愛理の明るい表情を見ていると気が楽になった。






 団地に戻って来てから三週間が過ぎた。私はパートを二つ掛け持ちして働き出している。早く自立出来るお金を貯めて、この団地から抜け出したかった。


 愛理はイマジナリーフレンドが出来てから、泣き言を言わずにお留守番してくれている。そういう架空の友達を作ってしまう事に不安はあるのだが、今の私に出来る事も無く、後半年の辛抱だと見て見ぬ振りを続けた。






「真希ちゃん!」




 今年一番冷え込んだ日、エレベータホールで待っていると、後ろから声を掛けられた。顔を見ずとも香苗の母親だと分かったので、無視したかったが、この場所ではそれも叶わない。




「こ、こんにちは……」




 私は作り笑顔で挨拶をした。




「ちょっと聞いてよ! 昨日また夢に香苗が出て来てね。今までとは違って凄く楽しそうに笑ってたの」


「はい……」




 私の迷惑そうな空気などお構いなしで、嬉しそうに話し出す。




「いよいよ今日だって」


「今日……ですか?」


「そうなのよ! 長い間待っていたけど、やっと今日叶うって嬉しそうにね」




 彼女の目は見開き過ぎて三白眼になり、口の端には泡状の唾が付いている。私の嫌な顔もお構いなしで、完全に自分の中の世界にはまり込み、普通の状態には見えない。




「今日何の日か知ってる? 今日はね……」


「やめてください!」




 私の恐くなり、腕を掴んでくる香苗の母親を大きな声を上げて振りほどき、降りてきたエレベーターに乗り込んだ。驚いた顔をして呆然としている香苗の母親を置いたままエレベーターのドアを閉めた。


 今日が何だと言うのだ。今日は……まさか……。そんな筈はない。そんな……。


 早く十一階に着かないかと、エレベータのドアの前でジリジリしながら通過する階をにらんでいる。早く愛理の顔が見たい。今日はもう何処にも行かずに閉じこもっていよう。


 エレベーターが十一階に着いて、扉が開き切らないうちに外に飛び出す。急いで家に帰ろうとした瞬間、目には見えない何かが横をすり抜けて後ろに行く気配を感じた。


 一瞬後、強烈な視線を背後から感じ、私は反射的に振り返り、エレベーターの中を見てしまった。




「ひぃ!」




 エレベーターの中には顔中傷だらけで血まみれの少女が笑顔で立っていた。両瞼と唇は痛々しく腫れて血が滲み、鼻は潰れ、額はザックリ割れて、そこからドクドクと血が流れている。知り合いでも分からないぐらい顔が傷だらけだが、私には少女が誰だか分かっていた。




「香苗……」




 エレベーターの中の少女は間違いなく香苗だった。


 エレベーターのドアが閉まりだした。無言で笑っていた香苗の、腫れて血が滲むの唇がハッキリと動き出す。(か・わ・に・こ・い)言葉として音が出てこないが、口の形からそう読めた。


 エレベーターが下降し、香苗の姿が消えると、私は我に返る。




「愛理」




 私は嫌な予感がして、家へと急いだ。焦る気持ちで鍵を差し込み回すが、手応えが無い。


 開いてる!


 ドアは施錠されてなく、あっさりと開いた。




「愛理!」




 叫びながら中に入るが返事が無い。




「愛理!」




 もう一度名前を呼び家中を探すが愛理は何処にも居ない。ベランダに出て探したがやはりいない。


 頭の中に、先程の香苗の姿が甦る。(か・わ・に・こ・い)直感的に、香苗が愛理を河に連れ出したと思った。


 私は玄関を飛び出し、階段を駆け下りる。


 間に合って! 河まで行っちゃ駄目よ!


 河に着く前になんとか愛理に追い付きたい。下に降りてからも私は走った。普段運動などしていないので、心臓がはち切れそうだ。


 ほとんど歩いているようなスピードだったかも知れないが、私は焦る気持ちで走り続けた。だが、愛理に追いつけない。河川敷まであと少しだ。


 結局、追い付けなかった……。


 私は堤防の上に立ち、絶望的な気持ちで河川敷を見つめた。河川敷は、整備されて多目的グランドになっている部分もあるが、目の前に広がる景色は雑草が多く、昔のままだった。十一月後半の夕方で、寒くなってきた事もあり人影はない。


 とうとう私はここに戻ってきてしまった……。






 私と香苗は物心ついた頃からの幼馴染。いつも一緒に居るから姉妹みたいだと周りから言われていた。だが、私はそう呼ばれるのが本当に嫌だった。心から香苗の事が嫌いだったから。


 香苗は自分勝手で我儘だ。意見が対立しても絶対に譲らない。恫喝、懇願、ヒステリーに泣き落とし、香苗はあらゆる手を使う。私はいつも譲歩させられ、利用された。私の持っている物は何でも欲しがり、奪い取られ、そのくせ手に入れるとすぐに飽きてゴミのように投げ出す。


 こんな香苗でも、外面は凄く良かった。私に見せる横暴ぶりは微塵も感じさせず、周りを味方に付ける。香苗以外の友達を作り離れようとしたが、私の悪口を吹き込まれて、引き離される。私は常に孤独で、香苗以外に付き合う者が無いように囲い込まれた。


 香苗からは逃げられない。でも、逃げなきゃ一生奴隷のように扱われる。私にとって香苗は、悪魔のような存在だった。


 私達が小学五年生だった、十一月の終わり頃。とても寒かったあの日もそう。香苗の我儘から始まったのだ。




「ねえ、私達の秘密の場所を作らない」




 学校からの帰り道に並んで歩いていると、香苗が急にそう提案してきた。




「秘密の場所?」


「そう、私達だけしか知らない秘密の場所よ。良い場所があるの。今日行こうよ。絶対に誰にも言っちゃ駄目よ」




 香苗がこう言い出すと、嫌だと言っても聞かないのは分かっているので、私はしぶしぶ了解した。


 夕方ごろ、誰にも見られないように人のあまり通らない道を選んで、私達は河川敷に向かった。気が進まない私は、香苗から少し離れてとぼとぼ付いて行く。河川敷に着いてからも、人が見ていないのを確認して、雑草の中を進んで行った。




「ここよ」




 香苗に連れられて着いた場所は、釣り場になっているのか、そこだけ雑草が生えてなく、河に面している。風が冷たく、心細くなる場所だった。




「ここ、人が来るんじゃないの?」


「大丈夫、来ても土日だけよ。ほら、ここにクーラーボックスも有るし、宝物持って来ようよ」




 香苗が指さしたのは、誰かが捨てて行ったであろうクーラーボックスだった。汚れていてとても宝物を入れる気にはなれない。香苗は何を考えているのだろう? ここは父親と釣りに来て知っていたのかも知れないが、とても秘密の場所として宝物を隠しておく場所に相応しいとは思えない。




「ここで手も洗えるんだよ」




 香苗は川縁で手を洗う。まるで私に大丈夫だとアピールするように。




「じゃあ、明日宝物を持って来ようか。真希はあのリップクリームを持ってきたら?」


「えっ?」




 これで香苗の目的が分かった。香苗の言ったリップクリームは、従姉が買ってくれた物で私の宝物だ。これは香苗から何を言われようとも絶対に貸したりしなかったので、手を出せなかったのだろう。だからこんなふざけた芝居で盗み取ろうと考えたんだ。




「ね、約束よ」




 私は身震いした。笑顔の香苗が、自分と同じ人間とは思えなかった。もう嫌だ。香苗と一緒に居たくない。このまま香苗と居たら、今のように私の大事な物は全部欲しがるんだ。そんな地獄が続くんだ。香苗から逃げなきゃ。


 そう思うと、考えるより先に体が動いた。




「あああああー」




 私は無意識のうちに、香苗に体当たりした。不意を突かれた香苗は河の中に弾き飛ばされる。




「た、助けて、寒い、助けてよー」




 二、三メートル先なだけだが、急に深くなっているのか、足が届かないようだ。


 私は立ち上がり、川縁に戻った。呆然と立ちすくみ、必死の形相で手をばたつかせている香苗を見ていた。


 そのうちに、香苗はもがきながらも何とか岸に近付いて来る。


 私は恐怖した。もし、香苗が戻ってきたら、また地獄が始まる。いや、恨みを買ったんだ、今まで以上に酷くなるだろう。


 私は足元の石を拾い、半狂乱になって香苗に投げつけた。


 一つが口に当たり、血が滴る。一つが顔の中心に当たり、鼻が潰れる。


 恐怖で夢中になって、力の限り投げた。石が当たる度に香苗の顔は変わり、それがまた恐怖を増加させる。


 また一つが目に当たる。大きく腫れて血が滲む。




「や……やめて! お願い許して!」




 香苗が腫れあがった唇で、泣きながら助けを求める。だが、私にはその声さえも怖かった。


 石で傷つきながらも、香苗は生への執念を見せ、岸へと迫って来る。


 私の恐怖は極限状態となり、小さい石では駄目だと、周りを探す。傍にあった、かろうじて両手で持てるぐらいの大きい石を持ち上げる。これが当たれば死ぬかもとの考えが頭によぎるが、躊躇しなかった。私は「死ね!」の叫び声と共に香苗に投げつけた。


 見事、大きな石は香苗に命中し、額がざっくり割れ、血が飛び散る。それが致命傷となったのか、香苗は力尽き、河底へと沈んで行った。


 私はゼイゼイと肩で息をしながら、香苗を殺してしまったと確信した。だが、罪悪感より、解放感が強かった。


 私はすぐに、人目を避けて団地へと帰り、閉じこもって香苗の事は誰にも話さなかった。香苗が帰って来ないので警察を巻き込む騒動となったが、幸いにも私を覚えている目撃者は居なかった。


 翌日、河で香苗の靴が見つかり、遊んでいて流されたと結論付けられる。だが、何日も捜索されたが、最後まで彼女の遺体は発見されなかった。






 河川敷を見渡しても愛理の姿は見えないが、行くべき場所は分かっている。私はあの頃の記憶をたどり、雑草の中に踏み入った。


 あの時と同じ、釣り人が利用する、雑草が多い獣道のような道を通り、奥へと進む。




「愛理!」




 私は愛理の無事を確かめたくて叫んだ。




「ママ!」




 愛理はまだ生きている。私は愛理の声に勇気づけられて、さらに奥へと進む。しばらく行くと、急に目の前の雑草が途切れ、私は川縁までたどり着いた。




「愛理!」




 愛理は少し河に足が浸かる場所で一人佇んでいた。今は膝あたりまでの深さだが、少しでも奥へ行くと急に深くなる。香苗が溺れた場所からそう離れていない。




「愛理!」


「ママ!」




 私は河の中に入り、愛理を抱きしめた。




「良かった……こんな所に居ると風邪を引くよ。ママと帰ろうね」


「ママァ……あの日も、こんな寒い日だったよね……」




 私は驚いて体を離し、愛理を見た。今にも泣き出しそうな顔をしている。




「あの日って、何の事を言ってるの?」


「ママァ……宝物を持って来てくれた?」


「えっ? 宝物って……」


「持ってきてないの? 宝物忘れて来たの?!」




 愛理の言葉に悲壮感が漂い、最後は悲鳴のような声になる。私はその様子に狼狽えてしまう。




「ごめん、愛理、宝物持って来てないの」


「うああああああ」




 愛理が今まで見た事ないぐらい大きな声で叫ぶ。




「ごめん、愛理、ごめんね」




 私は訳も分からず謝り続ける。




「この、役立たず!」




 愛理が大声を上げて、とても六歳児とは思えない力で、私を後ろに突き飛ばした。


 不意を突かれた私は、大きく後ろに跳ね飛ばされ、河に背中から倒れ込んだ。


 岸から三メートル程だが、もう足が届かない。私は必死に岸へを泳ぎ出す。


 ボチャン、ボチャンと顔の近くで、次々水しぶきが上がる。


 岸を見ると、愛理が狂気の笑顔で、私に向かって石を投げつけてくる。




「やめて、愛理、お願い」




 私がそう頼んでも、次々と石が飛んできて、岸に近づけない。そのうち、鼻に大きな衝撃を受けた。ぬるりとした温かい液体が潰れた鼻から流れ出す。鼻で息が出来なくなり、ゼイゼイと口で呼吸する。


 岸を見ると愛理の顔が変わっていた。両瞼と唇は痛々しく腫れて血が滲み、鼻は潰れ、額はザックリ割れて、そこからドクドクと血が流れていた。愛理ではなく、香苗の顔になっていた。


 香苗はキャハハハハっと歓喜の叫び声を上げながら、石を次々投げ付けてくる。


 唇に、瞼に、額に、石が当たる度に顔が熱く、血が流れた。




「お、ねがい・・・許し……」




 苦しい息で助けを求めるが、香苗は狂気を帯びた高笑いを続けるだけで、石を投げつけて来る。


 悔しい……。香苗が悪いのに……。私は悪くない。香苗が……。


 もう泳ぐ事も出来ず、ほとんど開かない目で香苗を見ている。


 逃げなきゃ……香苗から逃げなきゃ……。


 心の中で必死に唱え続けるが、もう私の体にその力は無かった。


 いよいよ、香苗がとどめとばかりに、大きな石を持ち上げた。とても六歳児の体とは思えない程の力だ。


 香苗の振り上げた両手から大きな石が放たれた。香苗はこれ以上ないくらい嬉しそうな顔をしている。


 悔しい……。逃げないと……。


 そう思いながらも身動きが出来ず、大きな石が飛んでくるのを呆然と見ていた。額に大きな衝撃が走り、熱い液体が顔中に広がる。


 ああ、やっぱり私は香苗から逃げられなかったんだ……。


 そう思った瞬間に肺の空気が口から抜け出し、私は意識が遠のいた。


                                       了

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団地の香苗 滝田タイシン @seiginomikata

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