第88話 嫌な予感
「
良く通る声で言いながらミズハが入っていったのは、王宮と商業区のどちらからもそう遠くない地区――つまり割といい立地にある家だった。
とても大きいわけではないが、2人で住むには十分な広さがある。
『体調が良さそうでしたら、婆やに紹介だけでもさせてくださいね』と言われた俺は玄関でその時を待つ。
婆やは王宮で働いていたらしいけど、かなり昔みたいだからバレる心配はないだろう。
「でもこの辺りは一般庶民が暮らすには少しグレードが高い人気地区だ。やっぱりミズハは元貴族令嬢かなにかっぽいな」
少なくともこの辺りのエリアは、勇者になる前の見習い騎士だったころの俺の給料で住めるような地区ではない。
そして既に復興事業は完了していて、超越魔竜イビルナークの襲撃前までの「日常」がほぼ完全に再開していた。
「ま、俺も素性についてはあまり突っ込まれて聞かれたくないし、ミズハのこともあまり詮索はしないでおこう」
そんなことを考えながら玄関でミズハが戻ってくるのを待っていたんだけど。
「婆や? 婆や、どこにいるのですか? 婆や? 婆や!」
家の中からミズハが婆やを探しまわる声が、外にいる俺のところまで聞こえてきた。
「……どうにもミズハの様子がおかしいな?」
さっきダーク・コンドルのゴロツキに攫われそうになって、そしてこれだ。
なんだか嫌な予感がしてきたぞ?
俺はミズハの後を追って家の中へと入っていく。
「どうしたんだ? 婆やがいないのか?」
「あ、クロノスケ様……はい、風邪で
ミズハが不安でいっぱいの顔でつぶやいた。
「ちょっと急な用事でもできて、たまたま出歩いてるとかは?」
「婆やはわたくしが薬を買いに行っている間に、不安にさせるようなことをわざわざするような人ではございませんわ。それに熱もありましたし……あら、これは?」
ミズハが食卓の上に置かれていた紙を手に取った。
そしてその文面に目を通した途端、
「――っ!」
ミズハの手からスルリと紙が零れ落ちた。
俺は床に落ちた紙をすぐに拾い上げる。
そこにはこう書かれてあった、
『お前の大切な婆やは預かった。婆やの命が惜しければ1人で我が屋敷に来い。場所は知っておるだろう。口外は無用、入る時には念のため裏門を使うべし。門番に話は通しておく。ただしもし一人で来なかった場合は、その時点で婆さんの命はないものと思え。なに、協力すれば悪いようにはせん。ワシはお主の味方なのじゃから』
と。
「婆やは拉致されたのか。この書き置きを残したのは昼間の奴らの仲間……いやあいつらの雇い主か?」
「……」
俺のつぶやきに、しかしミズハは言葉を返さない。
「そいつらの目的はミズハなんだよな? 味方だって? はっ、味方ならこんなことするわけないっての。こういうのは脅迫って言って、悪い奴らがするもんだ」
「……」
「なぁミズハ、いったいお前は何者なんだ? どうして狙われているんだ?」
「……申し上げられません」
「さっきミズハは言ってたよな? 『婆やはその昔にさる高貴なお方の乳母をしていた』って。これってきっとミズハ自身のことだよな?」
「…………」
「話してくれないか? 俺はミズハの力になりたいんだ」
「……話すことはできません。……クロノスケ様に迷惑をおかけしてしまいますので」
「迷惑って、さすがにこの状況は見過ごせないだろ」
「いいえ、これはわたくしの問題です。クロノスケ様には関係ございませんので」
「おいおい、ここまで来てそれはないだろ?」
「クロノスケ様に迷惑をかけるわけにはいきませんので」
「だから俺は迷惑だなんて――」
「これはわたくしの問題です。どうかクロノスケ様は全てを忘れて、今日はもうお引き取り下さいませ」
俺がどれだけ力を貸すと言っても、ミズハは取り付く島もなく俺の言葉をシャットアウトする。
「まさか1人で行くのか?」
「それが向こうの条件です。婆やの命がかかっておりますからわたくし一人で参ります。それに言うことを聞いていれば、わたくしや婆やに危害が及ぶことはありません。それは確かですから」
「ミズハ、お前は本当に何者なんだ? 今、何が起こっているんだ?」
「それを知ってしまうとクロノスケ様も無事ではいられません。いくらクロノスケ様がお強くても、もはや個人の力でどうこうなる話ではございませんので」
「ミズハ……」
もし今ここで俺が国王クロウ=アサミヤであることを伝えれば、ミズハの考えは変わるかもしれない。
いや、無理か。
言ってもそもそも信じてもらえないだろうから。
今の俺は平民の格好をしているし、聖剣は持ってきているけど、そもそも聖剣の詳細な形が庶民に知られているわけじゃないから、何の証明にもなりはしない。
「今日はダーク・コンドルから助けていただき誠にありがとうございました。改めてお礼を申し上げます。ですがわたくしに関わるのは、これっきりにしていただきたいのです」
ミズハはそう言うと決意を決めた顔で歩き出した。
互いに無言で家を出た後、俺は玄関先で徐々に小さくなっていくミズハの背中を黙って見送るしかできなかった……
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