第3.5話【villains elegy-アクニンドモノバンカ-】(2)

 朱里が目を覚まし辺りを見回すと、そこはビジネスホテルとは別の場所であることが分かった。



 民家のリビングだろうか、窓の外は既に日が落ちており、室内を蛍光色の柔らかい明かりが照らしている。



「ここは一体……」



 あの青年に連れ去られてしまった可能性は否めないが、しかし周囲に人の気配は感じられなかった。



 職場の制服を着たままだった為、今の彼女はスマートフォンはおろか私物の一切を持っていない。



 斯様な状況も相まって、一刻も早くこの場から離れて交番へ駆け込み事情を説明する必要があると感じた朱里は、身体を起こし出口を探すべく立ち上がった。



 と、そこで。



 キッチンの前、ダイニングテーブルに一枚のレポート用紙が置かれていた。



 朱里はそれを手に取り、ボールペンで書かれた内容に目を走らせる。




『お疲れ様です。突然の出来事に困惑されていらっしゃるかもですが、まずは落ち着いて深呼吸をしてみることをおすすめします。


『吸ってー、吐いてー、吸って—、また吐いて―。


『はい、よくできました。貴方がこの置手紙を読んでいる頃、僕は仕事で外出しているため、深呼吸をした前提で話を進めますが、もしもしていなければ後程ペナルティを課すことになるのであしからず。


『それでは改めてご挨拶あいさつをしておきます。


『僕の名前は余歯楕よしだ正一しょういち。埋まらない心の隙間を追い求める、流浪の旅人ボヘミアンとでもいったところでしょうか。


『定職には就いていませんが、生活するには困らない程度の貯えはありますし、これから先貴方が望むもの全てを与えられるぐらいには余裕があるので、ご安心ください。


『さて、宝舟ほうしゅう朱里あかりさん。有象無象の負債責任を押し付けられ、日々あくせくとかけがえのない時間を切り売りしている、不遇の淑女。


ほまれある美貌の持ち主でありながら、何故自分がこんな目に遭わなければならないのかと考えたことはございませんか?


『一度も無いとは言わせませんよ。過去の経歴や行動を調べるにあたって、貴方は10代後半から20代全般にわたり、その全てを無為な労働に費やしているのだから。


『身から出たさびならまだしも、他責の一切を引き受けて、不当な償いを長年続けさせられた臥薪嘗胆がしんしょうたんの日々、痛み入ります。


『でも、もう大丈夫。これからはそんな不毛な毎日からは解放され、喜びに満ちあふれた日々が訪れるであろうことを、僕が約束します。


『僕の理想の妻となってもらう為にも、かせとなる不純物は軒並み処理を終えています、何も心配することはないのです。


『返済すべき借金に関しましては、勝手ながらこちらで全て清算を行いました。


『そしてその元凶である貴方の夫だった人間にも、然るべき報いを受けてもらいました。


『束縛された日々からの解放を祝して、僕から貴方へささやかな贈り物を用意しています。


『向かって右側の突き当り、ユニットバスの中にしまっておいたので、なるべく早く見ていただけると嬉しいです。


『それと食事に関しては、冷蔵庫の中にあるものを好きに使っていただいて構いません。欲しいものがあれば用意しますので、僕が戻った時にでも教えてください。


『ちなみに、この家の鍵は開けたままにしていますが、僕の許可を得ないまま外出するのは禁則事項タブーとします。


『どうしてもというならば、僕に貴方を止める事は出来ません。どうぞお好きにして下さい。


『その後、どういう目に遭うかを考えた上で……ゆめゆめ行動なさってください。


『貴方が利口であるならば愚行を冒すはずはないだろうと、僕は信じています。


『最後に、僕の理想の妻になって貰う為の教育課程カリキュラムは、全297項を予定しています。


『一日あたり21時間、期間は短く見積もって半年もあれば達成できる見込みです。


『詳細に関しては僕が戻ってからひとつずつ丁寧に説明するので、ご安心ください。


『それでは、ごきげんよう』




「な、んなのよ……これ……」



 読み終えた朱里の顔は、真っ青になっていた。



 精神に疾患があるとしか思えないような幼稚な独創論の裏に見え隠れする、怖気の走る狂気の様相を目の当たりにし、彼女は戦慄せずにはいられなかった。



 恫喝どうかつに等しき監禁未遂のき目にあっている現実に打ちのめされそうになりながらも、彼女は気を確かに持ち顔を洗うべくキッチンの流し台にある蛇口をひねった。



 断水なのか、水は出なかった。



「……確かバスルームに贈り物があるとか書いてたわよね」



 嫌な予感しかしないが、特段することがないので、彼女はリビングを後にする。



 そして室外に出た時点で、濃厚に漂っている死臭を嗅ぐことで、彼女の脳内では最大音量の警戒音アラートが鳴り響いていた。




 この先に行くべきではない、今すぐ逃げなければならない、と




 すくみあがった両足の膝を叩きながら、意を決して彼女は足を踏み出した。




 片側開きの扉を開けた先、ユニットバスルームの奥。




 身体の至る所を線上に切り裂かれた、が横たわっており。




 彼女はたまらず、胃の中のものをまとめて吐き出し、やがて再び気を失ってしまう。

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