蠢動編

第3.5話【villains elegy-アクニンドモノバンカ-】(1)

 その日、宝舟ほうしゅう朱里あかりは起床するとともに、ほのかな幸せに包まれていた。



 具体的な内容は思い出せないながらも、何か喜ばしい夢を見たらしき余韻が残っている。



 今日一日何か良いことが訪れる吉兆サインに違いないと思った彼女は、心地良い微睡まどろみ揺蕩たゆたいながらも、しかし布団からいだし、仕事へと赴く為にてきぱきと支度を始めた。




[長引いていた案件が片付きそうなので今日はなんとか帰れそうだ。良かったら久々に何処かへ美味しいものを食べにいかないか?]




 通勤途中の駅ホームにて、出張続きで殆ど自宅に戻ることの無い夫からの連絡を着信したことで、朱里はいよいよ「今日はツイているな」と確信を抱いた。




 訓読みにすれば“たからぶね”という、いかにも幸せに満ちあふれていそうな苗字の持ち主の自分。



 だが30余年生きて来た中で、彼女はおおむね不幸――ないしは貧乏に付き纏われているといっても過言ではない。




 両親が早逝そうせいした後、親戚間をたらい回しにされた挙句、身に覚えのない借金を負わされた所為せいで返済の為に学校を中退。



 以来、複数の仕事を掛け持ちしながら日々を過ごしてきた彼女。



 朝起きれば当日に敷き詰められた作業タスクに嫌気が差し、馬車馬のように働きようやく夜になれば再び訪れる明日の朝に怯える、そんな日常。




 終わりの見えない労働の連続によって心身をすり減らし、疲労や心労で摩耗に消耗していく朱里は「一体私は何のために生まれてきたのだろうか」等と自問自答するぐらいには病んでいた。




 そんな中、成人してから数年後、朱里はひょんなことからパート先の常連客である夫から婚約を申し込まれ籍を入れることになる。



 その頃には両親の借金をようやく返し終え、ようやく人並みの幸せを手に入れる事が出来たのだと安堵あんどした矢先、実は相手も相当の負債を抱えていたことが発覚――以来、共働きにて再び借金の返済生活に明け暮れている最中であった。




 何にいても金、金、金。




 節約と節制とが常に付き纏い、膨らみ切った利息や返済日に追われながら、趣味らしい趣味も一つも持たず、仕事と家事に追われる朱里であったが。



 しかし、それでも彼女は、中々顔を合わすことのない夫のことを心から愛していた。



 そんな夫が今日は帰宅するかもしれない、のみならず、向こうから食事の誘いを受けたことに対し、これはもう素直に喜ばざるを得なかった。




 結婚した後に掛け持ちしていた複数のパートを辞め、都市近郊にあるビジネスホテルに正社員として勤めるようになった朱里は、こと今日に限り、いつもであれば気怠い気持ちに押しつぶされそうになる陰鬱な朝礼においても、周囲がやや驚くぐらいには元気溌剌はつらつであり、はきはきとした口調で業務報告を行ったのであった。




 度重なり積み重なる小さな数々の幸福によって、この日の彼女は普段よりも少しばかり浮かれていたのかもしれない。




 後から思い返せば結果論でしかなかったとしても、だからこそ……




 彼女からへと声を掛けてしまったのは、致命的な失態であったといえよう。




「おはようございます。あの、お客様。何かお探しのようですが、どうかなさいましたか?」



 3階エレベーター前のホールにて、きょろきょろと辺りを見回しながら、行ったり来たりを繰り返している客へと朱里はたずねた。



「あぁ、いえ。ちょっと私物を何処かに落としてしまいまして。指輪なんですが、中々見つからないんですよ。自室にはなかったので、おそらくこの辺りだろうと思うのですけど」



「左様でございますか。一度フロントにもかけあってみます。もしかしたら届け出があるかもしれませんし……」



 普段働く中で、宿泊中の客が私物を遺失するのは日常茶飯事。



 なので朱里はマニュアル通りの対応を行おうとしたのだが、その客に対して注目せざるを得ない、ある一部をちらりと見遣ってしまう。



 二枚目俳優の様に整った顔立ちをしているその青年は、服装こそいたって普通なものの、とりわけ目を引くのは左手である。




 五指の全て――第三関節より先にはがはめられており、肌色を銀色で覆い隠された彼の指先から付け根までは、ある意味その箇所だけ出来の悪い義手の様な様相をかもし出していた。




「気になりますか? これ」



「いや。えぇ、多少は。すみませんジロジロと見てしまって、失礼しました」



 思わず注視してしまったことをとがめられると思った朱里は視線を青年へと戻し謝罪の意を述べるも、彼はさも愉快そうに両手をぷらぷらと振りながら、爽やかに応じる。



「構いませんよ。歪曲した美的感覚であるのは自らも自覚していますから。本来であればいつもは手袋をしているのですが、こちらこそお見苦しいものを晒してしまい申し訳ありませんでした」



「いえ、そんなことは……あの、つかぬことをお伺いしますが、何故そのような沢山の指輪をはめているのですか?」



 青年がさほど意に介していないと感じたからこそ、頭に浮かんだ疑問をついつい口にしてしまう朱里。



「何故、とは?」



 青年の表情は、この時点ではまだ柔和なままであった。



 しかし、彼の眼尻にはうっすらと血管の筋が浮き上がり、細かな痙攣けいれんを繰り返し出していた。



「僕が理由を述べた所でそれを貴方が聞いてどうなるというんですか? それとも……何か? 通常とは勝手が違う異端な格好をしている他者を下に見て、己の愉悦を満たそうとしている行動の表れですか? 心外だなぁ。理不尽だなぁ。酷薄とし過ぎていて、僕はどうにかなってしまいそうです」



「い……いえ、そんなつもりは全く……」



「これは教育が必要ですね。には、容姿は二重丸で接客態度も及第点を大いに上回る誠実さを持っていそうだったので、そのまま仲良くなれると思っていたのでしたが、残念ですよ。僕の見込み違いでした。止む無し、遺憾ながら、貴方には教育が必要でしょう。になって貰う為にも、多少辛い目に遭う事には、理解を示してもらいたい次第なのですよ」



 今や全身をぶるぶると震わせながら、うつむき加減に支離滅裂しりめつれつな事を早口でまくし立ててくる青年を前に、朱里は思わず息をのんだ。



 踏み込んではならないに領域に侵入ってしまったのかもしれないという後悔を抱くも、しかし全ては遅すぎた。



「い、一体何を言っているのですか......? そ、そうだ、人を呼んで――ッ!?」



  いよいよ内容が狂気を帯びてきていると感じた朱里は、後ろずさり青年と距離を取ろうと試みるも、ここで自分の身に異変が起きていることに気が付いた。



(声が出ない......というよりも......息が出来ない......?)



 首筋を何か細いもので圧迫されている感触がある。



 しかし朱里はマフラーはおろか何も首に巻いていないし、実際に両手で首回りを触ろうともそこには何も巻き付いていない。



 自らに振りかかった災難――ないしは異常事態になすすべなく、程なくして朱里は視界が闇に包まれると同時に、意識を失いその場に倒れ込んだ。



 その様を見下し満足そうに笑う青年だったが、懐のスマートフォンが振動し、ディスプレイには必要最低限に短くまとめられた、任務に関するメッセージが記されている。




[白石親子ターゲットの居場所が判明 決行は今夜 今直ぐ集合場所へ]




 そんな指令を眺めた途端、青年の表情からは笑みが消え、眉を吊り上げ床へとつばを吐き出しながら、悪態をついた。



「折角こっちが楽しみの種を手に入れたというのに、どうして今なんだよ……イラつくなぁ、苛々しちゃうなぁ。さっさと片付けて、この人の矯正に取り掛かりたいのに……はぁあぁ、難儀だ」



 ぼやきながらも青年は倒れた朱里を背負い、エレベーターに乗り込み、1階へと降り、そのままビジネスホテルを後にする。




 その一連の行動と彼の姿は、何故か他の従業員や宿泊客から一切目撃されることはなかった。

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