第1話【eleven years later-ジョウキョウサイカイ-】(4)

 不意に、がくんっと。



 膜間まくまの声が耳元で聞こえたと同時に、ねねの右肩口から指先に達する腕全体における一切の感覚が、消失した。 



「……は?」



 意外なことに痛みは感じなかった、なかったのだが。



 しかし裏を返せばそれは、相手の攻撃を喰らった正確なタイミングがねね自身全く分からなかったという証左に他ならない。



 そしてこの時をもって彼女は、“自分が行動する前に相手から機先を制された”という事実を、遅まきながら認識したのである。



(こ、この××××野郎……!)



 年頃の少女が発するにはあまりにも汚い罵詈雑言スラングを心中で吐き出しながら、ねねはまだ無事である左手で腰元にぶら下げた得物をつかんだ。



「こちとら争う気はねーつってんのに、早漏フライングにも程があんぞオイ。入場料未払いノーギャラにも関わらず、そこまでしてあたしのテクをご所望かい、なぁおっさん?」



 お茶碗を重ね合わせたかのような独楽こまが1つに、それを操る糸の繋がった木の棒スティックが2つ。



 ねねが取り出し構えたのは、ジャグリングでは定番の代物。




 俗に“ディアボロ”と呼ばれている、遊具の一種である。




 通常では両手を用いるのが普通なのだが、握力や筋力の類を腕一本分失ってしまったねねは、器用にも片手にてまるで菜箸さいばしを持つようにして、糸の絡んだディアボロを真上に向けて投擲した。



 彼女の狙いは未だ行方の分からぬ膜間に向けて――では無い。




「どっせい」




 ガシャン!



 ガシャン!!



 ガシャン!!!

 


 天井をはじめとした、壁や床に至るまで取り付けられた投光器や照明器を根こそぎ手当たり次第、ヴンヴンと唸るディアボロが衝突を繰り返す。



 たかだかプラスチック製の、強度に乏しい只の大道芸道具が、凄まじい回転速度と威力を伴いながら、次々に照明器具の発する明かりを奪っていく。



 それはさながら、かつての中世騎士達がこぞって手にした人を殺傷するに特化した武器たる鉄球付連接混アイアンフレイルを振り回すが如き様相であった。



 破損した欠片がぱらぱらと床に落ちていく中、ねねは走り出し、壁際へとその身を寄せた。



(これで条件は五分五分……だともいかないんでしょうね)



 



 彼女が咄嗟に取った行動が、其れである。



 相手からこちらが見えていて、その逆は同様でない条件であれば、むしろいっその事暗闇に紛れた方が幾分かマシなのではないだろうかという、確たる根拠のない思い付きを行動に移しての、結果である。 



 畢竟ひっきょう、光を失った周囲は暗闇に満たされた。



 深呼吸をし、神経を研ぎ澄ませながら、ねねは脱力し切った右腕に軽く触れる。



(さっき自室でみたあのカーペット人間みたく、あたしの腕がぺらぺらに薄くなってる)



 膜間の位置は相変わらず不明だが、それ以上に相手の魔術の仕掛けは依然として茫洋ぼうようでいて、一向に正体が判別しない。



 自ならまだしも他に対してここまで急激に影響する現象は、ねねの経験上、対象へ直接触れるか或いは何らかの媒体を介してのみ発動する可能性が極めて高い、とはいえ。



 ここへ至るまでに、相手が呪文を唱えた様子は皆無。



 魔術師が魔術を行使するには、例外なく呪文の詠唱が必須であるのに、だ。



 ならばねねと同様に、普段から魔力を込めた道具モノが鍵になり得るのではないのかとも一瞬考えたが、しかしだからといってその推理を全面的に信頼するには情報が余りに乏し過ぎる。



 上位の魔術師の中には、空間の位置を指定するだけで力を発動できる化け物じみた存在も僅かながらに存在しているという知見もあればこそ、この譜面でそんな超越者がわざわざ自分みたいな路傍の石へとその身ひとつで尋ねてくるかという疑念も勿論あるにせよ。



(全く力が入らないっていうか使い物ならないっていうか……つーかこれ、はたして元に戻るのかな)



 ならば今置かれたこの状況、絶体絶命と言っても過言は無いのだろう。



 死に片足を突っ込んでいるだけならまだしも、認めたくなくとも首先までどっぷりと浸かっているのが実状か?



「右腕を機能不全にされてからの決死の反撃。然るに無詠唱ながらにこの圧倒的な破壊力。良いですねぇ素晴らしいですねぇ。なんだかんだ言ってもディアレディ、貴方も一般人の振りをしながら来るべき本日に備えていた、という訳でしょうか」



 焦りの一切感じられない、鷹揚な男の声が眼前の闇よりこだまする。



「これとは別に2~3日置きにカチコまれる日常なもんで。別に備えてはいないよ。つーかこんなもん使わなくても曲芸は覚えたし、日常生活は楽勝で送れるからな。勝手に決め付けんのやめて」



「おやおやまあまあ。随分と余裕をお持ちな様子だ。もしかしなくとも、もしかして。ディアレディ。この闇中であれば貴方と私が同等になったとでもお考えなのですか? だとすれば、ハハッハ! 惨めですねぇ哀れですねぇ。その思い上がりこそが青い春を謳歌する若者の特権だと標榜ひょうぼうするのであれば、なかんずく早めに年を召して良かったのだと安堵しますよ。あぁそうそう、言い忘れてましたが」




「私の魔術ちからは、じゃあ揺るぎません」




 そんな風に膜間が宣言したとほぼ同時に。



 左腕・右脚・左脚。

 


 未だ無事であったねねの四肢の内三つが、右腕と同様一切の感覚を失ったのであった。

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