第10話 弁護士 三原

「あのー、ササガワコーポレーションの方ですか?」


 さっき席を立った木瀬の部下は、トイレから出て洗面台で手を洗っているところだった。部下はその質問にはすぐに答えず、訝る視線を俺に向けた。


「あちらにいらっしゃる方、木瀬部長さんですよね」


「あの、どういったお知り合いですか?」


 木瀬の部下は、こちらが名前を出したことで、何かしらの関係者かと返事はしたが、まだ警戒は解いていない。


「あの、いや、その、知り合いではないというか、これから知り合うというのか、今日はその予定ではなく、その、何と申しましょうか」


 俺はオドオドし、要領を得ない答えを返す。


「あ、別に怪しいものではありません。申し遅れました。私、こういうものです。あ!」


 俺は内ポケットから名刺入れを取り出して、態と手を滑らせ落とした。名刺入れは100均で売っているスチール製のカードケース。カシャンと豪快な音を立てて、中の名刺が散らばった。落としたところはトイレの洗面所。濡れた床に落ち、水を吸った名刺を慌ててトイレットペーパーで拭き、すみません、と木瀬の部下に差し出した。気弱で仕事ができない人間の芝居をするのも大変だ。

 彼は顔を顰め、結構です、と断り、名刺を覗き込んで俺の名前だけ確認した。もちろん名刺の名前は偽名だ。チラッと確認するだけのようだったが、名刺の肩書は弁護士。彼は少し横柄な態度を改めたが、警戒心は更に強まったようだ。


「弁護士の三原と申します」


「弁護士さんが、木瀬さんに何の用です?」


 御手洗いから体半分外に出ている俺の袖を引っ張り、洗面所の中へと引き入れてきた。何か広告の取引で法に触れるようなことがあったのか、多分そんな心配をしたのだろう。


「相手は、どちらの会社ですか?」


「いや、あの、そういうんじゃなくて、その。お宅の会社、ハラスメントなんかないですか?その、木瀬部長とか」


「木瀬さんが?」


 斜め上を眺めて、少し思案し、安心したのかフッと笑顔を見せた。


「あの、こういう飲み会のことですか?たしかに若い奴らは面倒だと思っているかもしれないですが、べつに強制的ではなくて、用があるときは断れますよ。仕事の時も、丁寧に教えてくれるし、木瀬部長に限ってパワハラみたいなことは全然ありませんよ」


「あー、そうなんですか。パワハラはないんですね。それでは、女性社員にとか、そういうのはないんですかね?」


「女性社員?セクハラってことですか?うちは女性社員少ないですからね。それに、そういう対象の人はいないと思うんですが」


 彼は少し下卑た笑みを浮かべる。うちの会社にはババアとブスしかいない、とでも言いたいのだろう。


「あの、よ、横田さんって方は、まだ20代と聞いておりますが」


「横田さんなんですか?!」


 彼はハンカチで手を拭きながら、横田の名前を聞くと、これ以上聞く価値もないと鼻であしらって、この場から去ろうとする。


「あの、もう1つ質問、いいですか?」


 と彼を止めようとするとテーブル席から、どうした?という声。木瀬だ。部下が御手洗いで酔っ払いに絡まれたと思ったのだろう。テーブル席からこちらを覗き込んでいる。


「部長。この人、弁護士さんらしいんですよ」


 部下はヘラヘラした顔で、テーブル席まで戻った。俺は木瀬の様子を伺った。まだ自分に関係しているということには気づいていない惚けた顔をしている。木瀬の部下が、こちらの意図を知っているかのように都合よく話を進めてくれる。


「なんかね、うちでセクハラがあるなんて勘違いしてる人がいるみたいですよ」


 木瀬は一瞬表情を曇らせたが、部下たちが笑っているので、一緒になって笑っていた。まだ余裕な態度だった。

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