第10話 勝てなくても、負けない

 一睡もできないまま、夜は過ぎたようだった。何が待っていようとも前を見て目を開いていよう、それなら、勝てなくても、負けない、と不安に押しつぶされそうな自分の心に言い聞かせていると、扉がノックされた。

 アウゲはマスクをつけると、返事をした。

 そこにいたのは、天文博士と神官たちと、両親だった。


「アウゲ、せめて見送りたいと、私たちが頼んだのだ」


「……」


 アウゲはただ頷く。両親の目も赤く充血していたが、抱きあって別れを惜しむことすら、彼らの間には許されていなかった。


「あなたには、辛い運命を背負わせてしまって……」


 母はハンカチでずっと目元を拭っている。アウゲは笑って首を振った。どうぞ、気になさらないで、という気持ちをこめて。


「お時間です」


 天文博士が重々しく告げる。アウゲは頷いて部屋の外に踏み出した。


「アウゲ、どうか、息災で」


「わたくしたちは、いつもあなたを想っています」


 両親にアウゲは礼の姿勢を取る。


「お父さま、お母さま、どうぞお健やかにお暮らしくださいませ。行ってまいります」


 神官が魔界への扉の閂を外し、扉を開く。冷たい空気が流れ出した。

 ランプを持った神官と天文博士が先導する。アウゲは振り向かず、真っ直ぐ前を見たまま後に続いた。真っ直ぐな道をしばらく進むと、同じような扉があった。


「わたくし共がお供できるのは、ここまででございます。この先はおひとりで」


 扉の前で天本博士がアウゲを振り返り、頭を下げる。

 開かれた扉の向こうは暗闇だった。


「これをお持ちください」


 天文博士がランプを手渡す。アウゲは頷いて受け取った。頭を下げている神官たちに背を向け、扉の向こうへ踏み出す。扉の内側に入ると、背後で扉が閉められ、閂がかけられた音がした。心臓の音が高まる。じっとりと汗をかいているのを感じた。閉鎖された暗闇にいる、根源的な恐怖。震えて崩れ落ちそうになる膝を叱咤して、前に進む。この先には何があるのだろう。もしかしたら、何もないのかもしれない。魔王との婚姻などというのは、本当は、蠱毒の者を穏便に殺すための方便なのではないか。その可能性の方が高そうだ。だが、扉はもう外側から閉ざされてしまった。進むしかない。


(明かり……?)


 最初は恐怖と願望が見せる幻覚かと思っていたが、だんだんと近づいてくるところを見ると、どうもそうではなさそうだ。今や、前方にはっきりと明るい空間が見える。

 足を踏み入れた円形の白い空間は、照明もないのに明るく照らされていて、天井はドーム型に整えられている。アウゲが来た道と直角に、もう一本の道があった。そちらに進むべきなのかと見てみるが、扉があって行き止まりになっている。


 誰かが、ここに来るのだ。

 緊張が一気に高まり、寒いくらいの気温だと感じているのに、汗が噴き出す。呼吸が乱れ、浄化筒がごぼごぼと音を立てた。

 閉ざされた扉の向こうで、慌ただしい気配がした。

 アウゲは瞬きも忘れて扉を見つめる。


「いっけね、完全に遅刻だ」


(え……っ?)


 扉の向こうから聞こえてきたその声を、アウゲは知っていた。


(なんで……)


 開いた扉の奥から現れたのは、その声の持ち主、ヴォルフだった。


「すみません、姫さま、本当は迎えに行くつもりだったのに」


「なん……で……」


 喉がカラカラに渇いて、思うように声が出ない。


「なんでって、おれが、姫さまの結婚相手だからです」


 ヴォルフはにっこり笑う。


「嘘……」


「本当です」


「嘘よ……あなたはフォンレドル家の末息子で……それで……」


「あっちにいる間はね。おれの得意技は『暗示』です。魅了とも言うけど。適当な貴族の家に潜りこんで、架空の息子になりすましてました。初対面の人間たちと『昔の知り合いごっこ』するの、なかなか楽しかったですよ」


「……なんのために?」


「姫さまに会いたかったから。母に、あ、今の魔王はおれの母なんですけど、『その人がそうだと、一目見ればわかる』って言われてもいまいち信じられなかったし、どんな人か、知っておきたかったから。本来、ルール違反なんですけどね」


「私にも魅了の力を使ったの?」


 そうだとすると、色々なことが前提から崩れてくる。


「いいえ。……いや、一度だけ、使いました。失敗したけど」


「いつ?」


「姫さまに、一緒に逃げようって言った時です」


 確かにあの時、頭がぼんやりして、理由もなく彼の言うことが全て正しいような気がした。


「おれもまだまだ修行が足りないなって思いましたけど、考えたら他の人間には覿面に効いてたんで、そんなことないですね。姫さまの我が強すぎるだけでした」


「失礼な」


 アウゲは憤慨する。


「でもね、姫さま。おれは姫さまのそういうところが好きですよ。負けず嫌いで意地っ張りで、気高くて。新年祝賀の宴で王族席に座っている姫さまを一目見た時、母が言ってたことは全部正しかったってことがわかりました。初めてその姿を見た時から今まで、そしてこれからも、愛しています、姫さま」


 アウゲは息をのんで、笑っているヴォルフを見上げる。


「この日を、おれがどれだけ待ち望んでたか、わかりますか」


「どうして、言ってくれなかったの……」


 ようやくそれだけを言うことができる。


「人間界で正体を知られないってことと、18歳の誕生日を迎えるまで、姫さまには指一本触れない、ってことが、母がおれにつけた、人間界に行く条件だったからです。まあ、人間界との盟約では、魔界と人間界の往来は一応禁じられてるんで、だいぶ危ない橋ではありましたけどね。ただ、黙ってたことは、すみませんでした」


 ヴォルフはアウゲがまだ手に持ったままだったランプを取ると、地面に置いた。

 アウゲは、ヴォルフが手を伸ばしてくるのを、呆然と見ている。ヴォルフはゆっくりと両手をアウゲの髪に差し入れると、後頭部のマスクの留め金を外した。


「今日からは、これは必要ありません」


 春の女王の宴の夜、マスクを外して歌っているところにでくわしたヴォルフは、確かに、なんの影響も受けていなさそうだった。そういうことだったのか。彼が、魔族だったから。

 ヴォルフが、呆然としているアウゲの顔を見つめる。その視線の甘さに気づいて、頬が火照るのを感じた。

 ヴォルフはアウゲの頬に手を添えて、ゆっくりと顔を近づけた。


「愛してます、姫さ……むぐ」


 ヴォルフのしようとしていることに気づいて、アウゲは焦って両手で彼の口を塞いだ。


「待って、お願い、待って」


 アウゲはこれまでヴォルフが見たことがないくらい動揺していた。天文博士に連れられて離宮を出て行った時ですら、あんなに落ち着き払っていたのに。


「本当に? 本当なの?」


「本当ですって。だから、今までだってずっと一緒にいたけど、大丈夫だったでしょ?」


 ヴォルフは笑って、口を塞いでいるアウゲの手を引きはがす。その手はこれまでどおり手袋で包まれているので、引っ張って脱がせた。そうして、騎士が女性にするように、その手の甲にくちづけようと顔を近づける。


「……怖いですか?」


 唇が触れる寸前で、ヴォルフは動きを止める。アウゲの手は見てわかるくらい震えていた。


「だって……、傷つけて、しまったら……」


「そっちの心配ですか」


 笑ったヴォルフの吐息が手にかかり、次に柔らかなものが触れて、アウゲは身体を硬くして思わず目を閉じる。

 アウゲの手の甲から唇を離したヴォルフは、目を閉じたまま固まっているアウゲの背中に緩く腕を回すと、首筋に顔をうずめた。全く力は込められていないし、ごく軽く背中に腕を回されているだけなのに、アウゲは息ができない。


「おれが贈ったロッタの花、ずっと持っててくれたんですね」


 低いささやきが首筋をくすぐる。アウゲは目を開いた。なぜ知っているのだろう。隠していたはずなのに。


「ねえ、姫さま。姫さまは、おれのことをどう思ってますか」


「どう……って」


「ロッタの花をあんなに大切に持っててくれてたってことは、同じ気持ちだと思っていいんですか」


 ヴォルフはアウゲの肩から顔をあげて、間近にアウゲの目を見つめる。


「……」


 アウゲは何か言おうとするものの、その唇は震えるばかりで、何の言葉も紡げなかった。


「じゃあ、おれと同じ気持ちなら、受け入れて。違うなら、張り倒してください」


 ヴォルフがゆっくりと顔を寄せてくる。アウゲは思わず目を閉じた。

 ヴォルフの温かく柔らかな唇が、アウゲの唇に重なる。世界がぐらりと揺れた気がして、アウゲは思わずヴォルフにしがみついた。ヴォルフの腕が、力強くアウゲを抱き寄せる。一度離れた唇が、名残を惜しむように再び重ねられる。そうして、何度も、何度も。これまでの、触れ合えなかった時間を埋めるように。


「……また、泣いてる」


 気がつくと唇は離れていて、ヴォルフがアウゲの顔を覗きこんでいた。


「でももう、おれは涙を拭うことができる。こうして、抱きしめて、慰めることだってできる。嬉しい。姫さまが泣いているのをただ見てるのは、本当に辛かったかから」


 ヴォルフはそう言って、親指の腹で、アウゲの涙を拭った。


「愛しい人が目の前で泣いてるのに何もできないなんて、あんなに辛い時間はなかったです。……ねえ、姫さま。おれとの婚姻を、受け入れてもらえますか」


「受け入れるも、何も……」


 もう扉は閉ざされ、外から閂がかけられてしまった。


「別に、尻尾を巻いて逃げだしたっていいんですよ? 人間界まで送りますよ?」


 ヴォルフはにやりと笑いながら言う。その表情にカチンときてすかさず言い返す。


「嫌よ。わかったわよ。するわよ、あなたと結婚……きゃっ」


 ヴォルフが突然アウゲを抱きあげたので、思わず悲鳴が漏れる。ヴォルフはアウゲを抱きあげたままぐるぐるその場で回って、目が回ると訴えてようやく下ろしてくれた。


「ああ、嬉しい。こんなに嬉しい気持ち、初めてです。愛してます、姫さま。おれのただひとりの人」


 ヴォルフが力一杯抱きしめてくる。その苦しさも今は心地よかった。また新しい涙が溢れて、アウゲもヴォルフの背中に両腕を回して、彼を抱き返した。

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