第9話 いつものように

「明日の日没の頃、お迎えにあがります」


 供を連れてアウゲの離宮を訪れた天本博士はそう言い置いて、アウゲの前を辞した。

 明日がアウゲの17歳最後の日だった。そうして明後日には、アウゲは18歳になり、魔王に嫁ぐ。天文博士は、その際の手筈の確認に来たのだ。


「姫さま、外はいい天気ですよ。一年で一番いい季節ですね。ちょっと散歩でもしませんか」


「そうね」


「明日は何しましょうか。思い出を作らなきゃ」


「別にいいわよ、そんなの。そんなことより、あなたとゲームでもしてる方が余程いいわ」


 胸が痛い。もうこれ以上、話すことも彼の顔を見ることもできない。


「じゃあ、そうしましょうか。……明日が、おれが騎士として姫さまに会う最後の日になるんですねぇ」


 ヴォルフは何気ない調子だったが、その言葉は予想外の重みを持ってアウゲの心の中に落ちた。

 彼には感謝している、何か言わなければ、と思って彼の顔を見あげたアウゲだったが、言葉の代わりに涙が零れた。


「わ、え、すみません、おれ」


 その涙をみてヴォルフは慌てる。アウゲは首を振った。


「あなたには、感謝しているわ。ただそれを言いたかっただけよ」


(ありがとう、ヴォルフ。この私と、家族のように、友人のように接してくれて。あなたの存在が、どれほど私を助けてくれたか、あなたはきっと知らない)


 涙は、見せるべきではなかったとアウゲは思う。明日になれば、彼とはもう何の関係もなくなる。彼はこの親密で奇妙な日々のことを忘れるべきだ。そうして、幸せになるべきだ。それと同時に、彼が時々、自分のことを思い出してくれないだろうかと思う。アウゲの涙の意味に気づいていてくれないだろうかと。


(私は、ずるい。彼は私のことを忘れるべきだとわかっているのに、彼の心に、ほんのひとかけら、私の存在が残り続けることを願っている)


 彼は誠実な人間だった。きっと、どこにいても、誰といても、幸せになるだろうし、彼の傍にいる者を幸せにするだろう。


「確かに、すごくいい天気ね。ちょっと歩きましょう」


 アウゲは窓の外に目を移した。



「ゼレの花も、今の時期が一番綺麗ですね」


 アウゲに日傘を差しかけながら、ヴォルフが言う。


「そうね。冬の間も咲き続けてはいるけれど、やはり旬というものはあるのね」


 アウゲは離宮の前庭に咲き乱れるゼレの花を見て、それから離宮の建物に目を移した。空は晴れ渡り白い雲が浮いて、アウゲが刺繍で表現したかった風景がそのまま目の前にあった。結局、刺繍は完成しなかった。完成させてしまうと、なんだか故郷との繋がりが切れてしまうような気がして、針を進めることができなかった。


 用水路の脇には、黄色い可愛らしい花がたくさん咲いていた。水の中には小魚の姿もある。アウゲは飽きもせず風に揺れる花を見つめ、群れを作って泳ぐ魚たちを見つめた。ヴォルフは何も言わず、ずっとアウゲに付き従ってくれた。


「ねえ、ヴォルフ」


 アウゲが用水路の方に顔を向けたまま言う。


「なんでしょうか」


「明日のことなのだけれど」


「ええ。何かやりたいことでも思いつきましたか」


 日傘を差しかけたまま、ヴォルフはアウゲの顔を覗きこむ。


「違うの。明日……、別れる時……」


 アウゲはそこで一旦言葉を切った。ヴォルフはその先をじっと待った。


「特別なことは何も言わないでほしいの。いつものように、ただ『それじゃあ、おやすみなさい』とだけ言ってほしいの」


「……承知いたしました」


「ありがとう」


 アウゲは目を伏せた。その長いまつ毛が、小さく震えているのをヴォルフは見た。



 特別なことはしないでほしい、というアウゲの希望どおり、最後の日もそれまでと同じように2人でゲームをして笑い合った。


「わかったわよ。この局は負けを認めるわ。ただし、次は勝つわよ」


「ほんとにもう……。姫さま、高貴な身分でありながら、その山っ気の強さはどうなんですか。一か八かの大勝負が好きすぎるでしょ」


 アウゲの大勝負が失敗してヴォルフに足元を救われる、という、負けのパターンにすっぽりはまってしまった局を流す。


「私に説教する気? あなたみたいに手堅く生きてたら、つまらないじゃない」


「……姫さまが博打うちになったら、大成功か破産かの二択ですね」


「いいじゃない。それでこその人生よ。そして私は必ず勝つの。負けを認めるまでは、負けじゃないわ」


 駒を初期配置にする。


「その負けん気の強さ、敬服しますよ」


「どういう意味よ」


「言ったままの意味です」


 離宮で過ごす最後の時間は、それまでの日々と変わらず、ゆったりと流れた。アウゲとヴォルフはゲームをして、離宮の周りを散歩した。いつもと違うところといえば、アウゲは時々名残を惜しむように、テーブルや椅子の背や、さまざまな調度類を撫でていたところだった。


 空が夕焼けに染まる頃になると、アウゲは口数少なくなったが、それでも取り乱す様子はなく、それまでと何も変わらないかのように振る舞っていた。やはり彼女は、気高くて負けず嫌いで意地っ張りなお姫さまだった。負けを認めたら負ける、と彼女はいつも言っていた。アウゲは、負けを認めていないのだ。自分の運命にすら、勝つ気でいる。

 アウゲは窓の外、離宮に続く小道を見ていた。王宮の方から、アウゲの運命を告げるための一行がこちらに向かってくるのが見える。不安と寂しさに胸がかき曇るが、アウゲはしっかりと顔を上げて、真っ直ぐ前を見つめた。


 黒い祭服を着た天文博士が、恭しくアウゲに膝をつく。


「アウゲ姫、お迎えにあがりました」


「わかりました」


 アウゲは頷いて、後ろに控えているヴォルフを振り返った。


「それじゃあ、姫さま、おやすみなさい」


「ええ。あなたも、いい夜を」


 いつもどおりのやりとりをする。それがヴォルフと交わす最後の会話だった。アウゲは天文博士の方へ向き直ると、振り返らず、離宮を出て行った。扉が閉まった後も、ヴォルフは1人、アウゲを見送った。



「今夜は、神殿で潔斎をして過ごしていただきます。明日の日の出と同時に旅立ちとなりますので、時間になりましたらお迎えにあがります」


「わかりました」


 神殿の地下最奥にある、魔界と人の世界の通路だという大きな扉の横に、潔斎の間があった。人の背丈の倍はあろうかという魔界への大きな扉も、周囲の壁も、潔斎の間の内部も、何もかもが真っ白だった。従者が潔斎の間の扉を開く。記録によると以前ここが使われたのは二百年以上前のことだが、今日の日に向けて整備がなされたのだろう、部屋は清潔に整えられ、調度類も新しかった。

 天文博士が首をたれ、アウゲの目の前で扉が閉められた。

 仰々しい名前とは裏腹に、潔斎の間はこぢんまりした造りだった。小さな部屋には寝台があるだけで、続きの間を見てみると、そこは浴室だった。離宮の浴室と同じように、こんこんと湯が湧いている。浴室には、新しいドレスが用意されていた。身を清め、新しい衣服を着るように、ということのようだ。アウゲは素直に従う。

 湯に身体を浸してぼんやりしていると、ヴォルフは今どうしているのだろうということばかりが頭に浮かぶ。彼はアウゲの護衛の任を解かれて、明日からは、他の近衛騎士たちと同様、王宮に詰めるのだろうか。聞いておけば良かったと今更思う。話し足りないことばかりだ。肝心なことも、何ひとつ言えないまま。

 アウゲは湯の中から手を持ちあげる。手袋越しに一度だけ触れた、彼の大きくて力強い手が思い出される。食器を入れた鉄の箱を難なく持ちあげ、重い剪定鋏をすいすいと動かす、あの手。あの手に、触れてもらえたら。あの深い青の瞳に、ただひとりの存在として映ることができたら。アウゲは両手で顔を覆った。彼の甘い甘い蠱毒は、アウゲの心を回復不能なほどに蝕んでいた。


(きっと私は、あの手を、あの瞳を、恋焦がれて残りの人生を送ることになる……。それならいっそ、明日でそれが終わってしまえばいい。負けてしまう前に)

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