第8話 ロッタの花

「ああ、驚いた……。どうなることかと……」


 アウゲはテーブルの椅子を引くと、へなへなと座った。


「や、マスクを外した姫さまがあんまりにも綺麗だったから、見惚れてました」


「……馬鹿じゃないの? 死ぬところだったのよ?」


 呑気なヴォルフを睨みながら、辛い出来事を繰り返さなくて、本当に良かったとアウゲは思う。


「だいいち、今夜はもう戻らないと思っていたのに」


「あ、それで」ヴォルフはぽん、と手を打つ。「油断してたんですね」


「……油断。本当、油断よ。私としたことが」


 アウゲは手で額を覆った。


「宴の料理をちょっと分けてもらいに行ってました。今日は女性が好きそうな可愛らしい料理がいっぱい並ぶって聞いてたんで」


 そこでアウゲは、ようやくヴォルフがバスケットを持っていることに気づいた。


「私はてっきり、宴に戻ったのかと……」


「まさか。姫さまがいない宴にいても、意味ないじゃないですか」ヴォルフはテーブルにバスケットを置く。「……手、出してもらえます?」


「……?」


 意図がわからないまま、アウゲは右手を、手のひらを上にして差し出した。ヴォルフはロッタの花を胸ポケットから引き抜く。彼が何をしようとしているのかわかって、アウゲは慌てて手を握った。


「だめよ、受け取れないわ」


「……なんでです?」


「なんでって……あなたにだって、恋人や婚約者がいるでしょう? もしかしたら奥様が。その方に贈るべきよ。受け取れないわ」


「いませんけど?」


「嘘をおっしゃい。あなただって、貴族の息子でしょう? その歳で婚約者がいないなんて、見えすいた嘘をつかないで」


「いませんよ。少なくとも、あの宴の間には。それに、おれの一番大切な女性は姫さまです。だから、ね、受け取って」


「あなたが職務に忠実なのはわかったわ。でも……」


「いいから」


(何がいいんだか全くわからないし、多分何も良くないのに。彼は、わかっているのかしら。これがどういうことか。外国暮らしが長かったと言っていたし、多分、本当にはわかっていないのよね。母親に花を贈るみたいなことだと思っているんだわ。違うのに)


 しかしヴォルフに押し負けて、仕方なくアウゲは手を開く。その上に、そっとロッタの花が乗せられた。アウゲはそれをつまみあげて、親指と人差し指で茎を転がすようにして、目の前で花をくるくる回す。

 ヴォルフはそのアウゲの目元を見て、きっと照れ隠しにむくれた顔をしてる、とマスクの下の表情を想像する。




 

 押花になったロッタを見つめて、アウゲはため息をついた。刺繍を仕上げてしまおうと、最近ゲームは自粛していた。成績は、僅かにアウゲがリードしたまま終わることになるだろう。運命の日が迫っていた。ヴォルフには、ゼレのエキスを抽出する仕事を頼んでいる。

 離宮の建物、その周りで咲き乱れるゼレの青い花が完成し、今は背景を刺していた。ロッタの押花を刺繍道具の箱に入れて、再び刺繍の枠を持つ。


(これが完成したとして、それでどうなるっていうのかしら。お父さまとお母さまに差し上げるわけにもいかないし、私も持っていけない。いっそ、本当にヴォルフにあげようかしら。でも……。彼も、いつかは結婚するのよね。女から贈られた物を持っているなんて、不貞を疑われかねない。それも、王族との不貞行為とみなされたら、下手をすれば、罪に問われる可能性も……)


 アウゲは手にした刺繍の枠を、放り出すようにテーブルに置いた。心がばらばらになりそうだった。あるいは、心の底が抜けて、自分を形作っていた何か大切なものが、全て流れ落ちていく気がした。泣きたくないのに涙があふれる。アウゲはテーブルに顔を伏せた。結婚への不安、そしてヴォルフのこと。やはり、ロッタの花を受け取るべきではなかった。彼はそっとアウゲの心の中に入ってきて、今や完全に住みついていた。こんな気持ちを抱えたままこの先を生きていくなど、到底耐えられそうになかった。彼の優しい甘い微笑みこそが、蠱毒だった。一生かかっても解毒することはできない。それならいっそ、魔王が自分を殺してくれればいいのにとすら思う。


「姫さま、終わりましたよ」


 ヴォルフがいつものように、ノックもなしに扉を開いた。アウゲははっとして顔を上げる。


「どうしたんですか」


 ヴォルフが険しい表情で歩み寄ってくるので、アウゲは寝室に逃げこもうとするが、ヴォルフが寝室の扉の前に回りこむ方が早かった。


「そこを退きなさい」


「退きません」


「これは命令よ」


 アウゲは赤くなった目で、頭ひとつ背が高いヴォルフを睨めあげる。


「その命令には従えません」


「命に背くと言うの」


「だって、姫さま、泣いてるじゃないですか。どうしたんですか。何があったんです」


「何もないわよ」


「何もなくて泣くような人じゃないでしょう、姫さまは」


「あなたに私の何がわかるっていうのよ」


「最近、食事にもほとんど手をつけずに捨ててるでしょう。知ってるんですよ」


 子どもの悪戯を咎める教師のように、ヴォルフが厳しい調子で言う。


「だからなんなの」


「ああもう、見ていられない。……姫さま、おれと一緒に逃げましょう、ここから」


「……」


 ヴォルフの言葉はアウゲの理解の範疇を超え、頭が真っ白になる。アウゲは呆然としてヴォルフを見あげた。その瞳の、吸い込まれそうな深い青。ゼレの花と同じ。


(ただ、頷けばいいだけなんだわ……彼の手を、取れば……そうして、ここから、2人で――)


「嫌よ」


 ヴォルフは驚いて目を見開く。


「逃げて、それでどうなるっていうの。あなたは王族を拐かした罪で死罪、私は、その事実を隠して魔王に嫁いだ後、不貞の疑いが発覚して殺されるのかしら。そして王国は恩恵を失って、あなたの家族も連座で罪を問われて領地を没収されて。少しは考えてからものを言うべきだわ」


(どうせ、私に触れることもできないくせに)


 アウゲはテーブルに戻ると、突っ伏して泣いた。


「姫さま、軽率でした。あまりにも姫さまが辛そうで、つい……。許してください」


 ヴォルフはアウゲの傍に膝をついた。


「……」


 アウゲは顔を上げると、ヴォルフを見て、力なく首を縦に振った。新しい涙がひとすじ流れ、思わずヴォルフはそれを拭おうと腕を伸ばす。アウゲはさっと顔を背けた。


「死ぬわよ。……ちょっと、1人になりたいわ。夕食はいりません」


 そう言ってアウゲは、ヴォルフをその場に残して寝室に消えた。

 立ち上がってアウゲを見送ったヴォルフは、刺繍道具の中にある小さなカードに気づいた。カードに留められている花は、あの日ヴォルフが贈ったロッタの花だ。こんな風にしてまだ持ってくれているとは、思っていなかった。ヴォルフは寝室の扉を見た。

 アウゲの誕生日まで、あと数日だった。

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