Ⅲ
雑居ビルの四階にある事務所に帰ると、藤森はパソコンで書類を作っていた。
「あ、社長。お帰りです」
藤森はパソコン画面の脇から頭だけを突き出し、また作業に戻った。俺は窓を開けて、煙草を一本取りだした。室外機の唸る音を聞きながら、紫煙を燻らす。
事務所へ戻る道中、振り込みを確認した。女からはきっちり三百万円振り込まれていた。本当はできなかったトラブルの料金分値引くつもりだったけれど、考え直してやめた。女は幸せだっただろうか。仕事に不満はない。けれど、毎日こういう仕事をしていると、柄にもなくふとそう考えるときがくる。
「よし、終わり終わり。つっかれたー」
背後から藤森が近づいてくるのが分かった。
「どうでした、依頼」
「まあな」
「まあなって。社長、それで答えたつもりですか。それだけじゃ分かんないですよ。僕頑張ったんですから、もっと教えてくださいよー」
藤森は人懐っこく聞いてくる。ボディータッチが多いのは藤森の習性だった。
「くっつくな。それと、ここは香水禁止だ」
「ちぇっ。あー厳しいな社長は」
「社長はやめろ」
「じゃあ久良木さん」
藤森は諦めて、コーヒーメーカーに向かった。二人分のコーヒーを持って、戻ってくる。
「飲みます?」
「ああ。悪いな」
俺は煙草を消して、コーヒーを啜った。しばらくそうして、無言でいた。
「もう五年になるんですね」
「唐突にどうした」
「いや、よく五年持ったなって思ったんですよ」
「お前のおかげって言ってほしいのか」
「違いますよ」藤森は笑った。「ただ、珍しい仕事だから続くのかなって。正直、やり始めの頃は心配ばっかしてました」
「潰れたら潰れたで、お前はどこでも行けるだろ。それに、この会社がなかったら、別の会社が立ち上がるだけの話だ」
「そうですかー? 僕は代わりなんてないと思いますけどね。これで救われる人もいると思いますし、たぶん」
藤森は言った。雨が降ってきて、事務所の窓を伝う。俺は眼下に傘の花が開くのをぼうっと見ていた。駅近くの立地とあって、眼下には常に人の往来があった。俺は藤森の言葉を反芻していた。
代わりなんてない。そんなのは偽りの甘い言葉だと知っている。
五年前、当時の俺はトラブルを解決する特殊な仕事に就いていた。大学に来た就職説明会での出会いは忘れもしない。説明会は大きな講義室を簡易的なパーティションで区切って開催されていた。大企業のブースはたちまち満員となっていたが、そのブースだけが索莫としていた。通り過ぎようかと思ったけれど、あまりにも就活が退屈だったから、俺はそのブースで話を聞くことにした。時間つぶしにはなるだろう。しかし、予想に反して俺は話しに食いついていた。社長は魅力的な人物だった。理想に燃えて、社会を変革したいという意欲に溢れていた。ウブだった俺は、他にやりたい仕事もなくて、よく考えずにその仕事に飛びついた。
……が、それが運の尽きだった。残業は多く、休みは少なく、小さな会社だったから社内規則なんてのもなかったし、そのことを久しぶりに集まった大学の友人達に話したら、唖然とされた。体重は激減し、趣味だった釣りも楽しくなくなった。それでも、やりがいがあったなら俺は続けていただろう。でも、実際はどうだ。そもそも扱うトラブルはつまらないものばかり、たまに大きな案件が来てもベテラン社員がやってしまう。決定的だったのは先輩からミスを押しつけられたことだ。俺は社長に責められ、依頼人に責められ、同僚に馬鹿にされた。
精根尽きて、社長に辞めると言った。それまで厳しかった社長は一転、優しくなった。けれど、俺も意志は固かった。社長は激昂し、最終的には「代わりなんて誰でもいるしな」と言った。俺は歯を食いしばりながら下げていた頭を上げた。就活で出会った優しい社長の姿はどこにもなかった。俺はトラブル解決社への復讐を誓った。そうして、トラブルを作る仕事を立ち上げたのだ。
「久良木さん?」
藤森の問いかけで、俺は引き戻された。
「どうかしましたか」
「別に。ちょっと昔の話を思い出してただけだ」
事務所のすりガラスに人影が映ったのはそのときだった。
「ちょっと見てきます」
ゆらゆらと動く人影に、先に立ったのは藤森だった。俺は藤森が半開きにしたドアから話しているのを見ていた。
「アポなしだと難しいんですよ」
藤森の説得に対して、小さな声で、「なんとか」とか「でも」といった音が聞こえてくる。どうやら女が依頼に来たようだった。
そうしていると、藤森が大きくドアを開いた。
「社長、ちょっと聞いてもらっていいですか」
藤森は困った顔で言った。
中川麦について――。透明感のある女という表現が最大限気を遣った言い方で、悪く言えば幸の薄い女だった。かといって美人じゃないかと問われれば、そういうわけでもなく、目鼻立ちははっきりとしていて、パンツスーツはすらりと伸びる手足に似合っていた。女は差し出されたお茶に手を着けることもなく「お構いなく」と言って譲らない。
中川の依頼は、例によって別れたい人がいるというものだった。彼氏とは社内恋愛で付き合い始め四年になる。そこで同棲することになったが、価値観が合わない。時々、物にあたることもあるし、つい最近は誕生日さえ忘れられてしまったという。同棲する前はそんな人じゃなかったのに。そこで別れを切り出そうと思ったが、逆上されたら困るということで悩んでいた。これには過去の男性経験も影響していたらしい。そんなときにトラブルメイク社の存在を知った。第三者に上手く別れをコーディネートしてもらえれば、と思い事務所の扉を叩いた。
……と、そんなことを涙声で語るのを、俺はぼんやりと聞いていた。
俺はため息をぐっと堪えた。
つい今し方も似たような案件をこなしたばかりだった。仕事だから仕方ないとはいえ恋愛問題がこうも続くと、依頼の幅を限定しようかと考えてしまう。
「難しいですか」
中川の声は小さくて語尾の方はほとんど聞こえなかった。
「大丈夫ですよ。別れるためのトラブルをお望みなんですね」
俺は言って、藤森へ顎をしゃくった。藤森はすぐさま契約書を持ってくる。俺は定型化された説明をした。トラブルの種類や程度はどうするか。トラブルを見届けたいかなど、他に要望はないか順を追って確認した。中川は細い声ではあったが、分からない点は質問するし、契約書は自分の顔に近づけて、しっかりと読んでいる。
「二十万円ですか」
「はい。皆さん疑問に思われるのですが――」
「いえ、大丈夫です。払います……」
意外な反応が返ってきた。普通、反発や沈黙が返ってくるが中川はそのどちらでもなかった。今回はその身なりや年齢から料金を五十万円と設定していた。が、相場も分からないだろうから安く感じるはずはない。それでも即答してくれる中川に、俺は少なからず好感を持った。
トラブルの内容は浮気のでっち上げになった。こっちで用意する役者と男を恋愛関係にして、そこをスタッフに激写させる。中川はその証拠を手元に置き、男と別れるという流れだった。もしも抵抗したら裁判沙汰にすると、ふっかければいい。ここまですれば、男も渋々別れるだろう。
「ここにサインすれば契約成立です。ただし、一度契約をすると、そこに書いてあるようにキャンセルはできません。それでもよろしいですか」
中川は頷いて、さっとペンを走らせた。俺は契約書の一枚を渡し、もう一枚を藤森に保管するよう指示した。
俺は依頼料をどう振り分けるか、脳内で電卓を弾いた。浮気でっち上げとなれば、役者は一人。しかし、二人でいる場面を撮影する者や生活状況を調査する者が必要になってくる。それなりの難しさになりそうだ。
「契約成立ですね。では当日に」
中川が別れを切り出す場面には、俺も隠れていることに決めた。成功報酬だから、それで依頼の成否を判断する。場所は前回の依頼で使用したレストランにした。使ってみてとても融通が利く場所だと分かったからだ。
「ありがとうございます……」
中川は頭を下げて、お礼を言った。契約が成立し、俺は中川を見送った。そのとき、俺は違和感を抱いた。中川は浮かない顔をしていた。無事、契約が済んですっきりとは言えない顔だ。嫌な予感がした。中川が事務所から出て行っても、俺は最後までその理由が分からなかった。
それから数日が経った。俺と藤森はいつものように契約を取りつつ、進行中の案件の準備をしていた。
「忙しそうね」
ほぼ同じタイミングで、俺と藤森は驚いた。事務所のドアを背にして、資料を探していたから女の存在に気づかなかった。
西園麻衣がいつの間にか、背後に立っていた。
「西園さん」藤森が慌てて言った。「急にどうしたんですか」
「別に。ちょっと近くまで来たから寄っただけ。――元気そうね、純も」
麻衣は笑った。西園麻衣は前職での同僚だった。俺が悩んでいたとき、よく相談に乗ってくれたのが麻衣だった。けれど麻衣がここに来るのは俺のためじゃない。
俺が独立したとき麻衣は心配して会いに来てくれた。そのとき麻衣と藤森は意気投合した。麻衣は藤森をえらく気に入っていた。以来、麻衣はこの年下の人懐っこい大学生を誘って飲みに行っている。
「まだ、あそこにいるのか」
俺は意味もなくマウスをカチカチとさせながら、麻衣に聞いた。
「ええ。いるわよ。あなたが抜けた穴を埋めるの大変だったんだから」
「代わりはいくらでもいるだろ」
「まだ社長の言葉を根に持ってるのね。子供みたい」
麻衣の言葉が癇に障って、俺は立ち上がり資料を乱雑にファイルボックスにしまった。麻衣は肩をすくめて、俺の胸ポケットを見る。
「煙草……また吸ってるんだ」
「控える必要ないからな」
「それはそうだけど」麻衣は言い淀む。「体に悪いわよ」
「雑談しに来たんじゃないだろ。要件があるなら言ってくれ」
俺が言うと、麻衣は驚くべきことを口にした。
「じゃあ、言うけど。今、あなたが取りかかっている案件、やめてくれないかしら」
「はっ? どういう――。意味が分からない」
「私が受けている依頼とぶつかるのよ」
「それじゃ説明したことになってない」
俺はソファーに載っている資料の箱を床に移動させた。麻衣をソファーに座らせてから、向かいの椅子に座った。
「こないだ、依頼を一件受けたでしょ。女の人から」
「どうしてそれを」
「藤森君が教えてくれたわ」
俺は藤森を睨む。
「守秘義務って言ったはずだ」
「社長、すいません。酒が入ってうっかり……」藤森は指を合わせて、しゅんとした。
「まあいい。それは後できっちり聞こう。で、その依頼が麻衣とどう関係があるんだ」
「実はね。あなたの依頼人の彼氏が、私のところに依頼しに来たの。彼女がどうやら別れたがってる。それを防げないかって」
「それは……」俺は言葉に詰まった。「冗談のつもりか」
「冗談に見える? 冗談だったらどれほどよかったか」
そう言って麻衣は小さな鞄からスマホを取りだした。指で画面をつつき、俺に差し出す。そこには一枚の画像があった。海辺で映るカップル。間違いなく、あの依頼人、中川麦だった。
「俺の依頼人だ……」
俺は小さく舌打ちした。
「間違いだったらって思ったわ。本当に偶然ってあるのね。私も藤森君と話してなかったら気づかなかったわ。藤森君が今抱えている案件を聞いて、私の抱えている案件があまりにも似てたから。藤森君に写真を見せたらびっくりしてたわ。もしも気づかなかったら、そのまま案件を進めていて、私と純がぶつかることになっていた。そういう面ではよかったのかも」
「もしくは、最悪だ。お互い依頼には気づいてるのか」
「いいえ、全然。私の依頼人は一切口にしなかったわ。たまたま同時期に依頼が重なったと考えるべきね」
「で、どうするつもりだ」
「さあね。それで私はここに来たのだけど……正直、お手上げよ」
麻衣は両手で降参のポーズを取った。俺だって降参したかった。こんな複雑な案件になるなら最初から受けなかった。手持ち無沙汰になっていた藤森はクリアファイルをパカパカと遊ばせていた。
「藤森はどう思う」俺は言った。「汚名返上のチャンスだぞ」
「えーと、俺には……。例えば麻衣さんの方の依頼をキャンセルすることはできないんですか」
「それは無理な話ね。もう契約しちゃったし。むしろ、そっちの依頼をキャンセルしてほしいくらい」
「こっちだって無理だな。依頼人は別れたがっている。今更、考えが変わるとは思えない。そもそもすでに契約書を交わしてる」
話は平行線だった。いくら議論しても結論が出るわけない。片方は別れるための依頼をしてきて、もう片方は別れないための依頼をしてきた。二人の依頼を同時にこなし、かつ満足させるなんて芸当は不可能だった。
「少し考えてみる」
俺はそう言って、藤森と麻衣を帰した。そうは言ったものの、解決策は何も思いつかなかった。
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