大通りから細い路地に入っていき、地図を片手に歩いて行くと、目的のレストランは住宅街にひっそりと佇んでいた。

 小さなレストランだった。一見して趣味がいいな、と思った。白い漆喰の壁に黒に近い青色の屋根。入り口にはランプが吊されていて、夜には橙色の光を路面に投げかけるのだろう。窓枠が楔形なのも遊び心があって楽しい。それでいて住宅街の景観と調和しているし、主張しすぎた気障な印象だって与えない。これが長く営業を続け、地元民に愛される秘訣なのだろう。さすが、評価4.2はだてじゃない。惜しむらくはもっと近場にあればということ。そうすれば毎日のように通っていたのに、と悔やまれる。

 外にある低いウッドデッキに三席、内は多く見積もっても五席程度か。家族やご近所さんを呼んだ小さな祝い事にはちょうどいいサイズ感だ。後で藤森をうんと褒めてやろうと思った。俺の考えた場所は計画にはそぐわなかったので、藤森が代案を出してくれたのだ。やはり、あいつは俺の事務所になくてはならない存在である。

 店に入ると、一斉に視線を浴びせられた。それらの視線を素通りして、俺は背の高いカウンターに設けられた席に浅く腰掛ける。プロペラが天井で緩やかに回転し、室内には軽やかなジャズの音色がジュークボックスから鳴っている。カウンターを選んだのは全体を把握しやすいからだった。

 席は一つを除いて、全て埋まっていた。人気のレストランだからこれが常ではあったが、今日に限っては俺がコーディネートしたさくらである。数人が顔見知りで数人は初対面だった。この仕返し劇場に欠かせない役者たちは、依頼料三百万の一部から雇ったエキストラだ。

 余り待たせては悪い。そろそろ始めよう、と俺は背後を振り返った。エキストラたちは皆、俺の言葉を待っている。全体の流れ、注意事項等を口頭で最終確認をして、来たるべき時に備えた。

「――それでは皆さん、台本通りによろしくお願いします」

 俺はそう締めくくり軽くおじきすると、何人かが会釈を返してくれた。頭を上げて、様々な表情をしているエキストラの顔を見る。困惑。期待。多くは緊張していた。初めてこの仕事に応募したものは必ず戸惑う。

「大丈夫だから。全部台本に書いてある通りだよ」

 ベテランのエキストラが軽い調子で声を掛けて緊張を和らげている。俺が来ない間に暗黙裏にリーダー的役割を演じてくれていたらしい。この人にはいつも世話になっている。こういう仕事には不可欠な存在だ。

 壁に掛かっているダリ風の伸びた時計を見ると、約束の時は迫っていた。ここに女とターゲットがやって来る。定刻まで残り十分。これまで依頼は何度も行ったし、今回のシミュレーションも余念がなかった。けれど、やっぱりこの瞬間は緊張する。なにせ、失敗が許されない一発勝負なのだから。いつだって成功よりも失敗の方が、伝播されやすいのだ。

 外から声がした。二人分の足音。ヒールと吸音性のある靴。小窓から女と依頼人が向かってくるのが見えた。俺は素早く指で合図をして、店内の役者たちそれぞれに与えられた使命を務めるように促した。自然な食事。よくある休日のひとときをイメージしてください。これでターゲットには微塵も疑われまい。

 戸が開き、春の柔らかい風が店内を吹き抜けた。女は店内を見回し俺を一瞥すると、軽く頷いた。男の方は人差し指と中指を立てて二人であることを店員に伝えた。俺は外にいるエキストラに「貸し切り中」の札を掛けるように連絡した。

「ちょうど二人入れるなんてラッキーだね」

「レミちゃん、こういうお店がよかったんだ」

「うん、私こういうレトロな雰囲気好きなんだよね」

 女はまろやかにした金切り声で囁きながら、男の手を握った。打ち合わせの喫茶店で俺が聞いた声とは大違いだ。今日これから起きることを想像して、最後のサービス精神を見せつけているのだろうか。

 二人は間もなく席に案内された。予定通り俺から最も近い席だ。俺は横目を滑らせて、さりげなく男を観察する。男はツイードのジャケットに細身のパンツといった服装に身を包み、年齢にしては綺麗な指をしていた。その指が鞄の中に向かう。何をするのかと思っていると、男は除菌シートを取りだし、テーブルと椅子を拭いた。みるからに店の使い込まれた調度品の古さに動揺していて、話に聞いていたよりもずっと潔癖症のようだった。これはかなりの効果を上げそうだ。男はさらに鞄を持ったまま、椅子の下を見ていた。鞄入れは事前に取っ払っていた。何か聞かれたらあいにくこの席の分だけ汚れてしまっていて、と店員には言葉を濁すように指示していた。幸いにも男は諦めたようで膝の上に窮屈そうに鞄を置いた。

「ご注文がお決まりになりましたらお呼びください」

 店員はグラスに注いだ冷水を運んできた。

「ちょっと待って」男は言った。「悪いけど水、変えてくれないかな」

「どうされましたか」

 男の知らないところでエキストラたちの視線が男に集まる。始まった、と思った。

「いや、ちょっとコップの縁が汚れてるからさ」

「申し訳ございません。すぐにお取り替えいたします」

 店員は謝罪し、キッチンに引き下がる。申し訳なさそうな顔をしていたのはもちろん演技だ。コップには俺の指示で無数の指紋がつけられていた。レベル一くらいの嫌がらせで軽くジャブを打ってみる。

「信じられない。レミちゃん見た?」

 男はゲジゲジみたいな太い眉を寄せて、小声で不満をぶつくさ言っていた。女はそれに同調するようでいてその表情の背後には全くそうは思っていない。大した役者だと思った。

「お待たせしました。申し訳ございません」

 店員が帰ってきた。そっと置かれたグラスを見て俺はほくそ笑んだ。数は少なかったがグラスにはまたしても手垢がついていた。

「あのさ、これ本当に……」

 言いかけた男の唇が閉じた。

「どうかなさいましたか」

「いや、別に」

 男の声は尻すぼみする。またしても予定通りだった。男は小心者と聞いていたから、スキンヘッド、身長百九十センチのエキストラを雇って正解だった。店員が変わってあからさまに男は焦っていた。店員が消えると、男はメニューを広げる。額には玉の汗が浮かんでいた。

「レミちゃん、僕がこういうところダメだって知らなかったっけ」

「えーそうだっけ」

「ここ出ない? なんだか良さそうなお店じゃないよ」

「ひっどい。私、ここ行きたかったのに」

 女は艶やかなマニキュアを塗った指を触りながら、惚けるように言った。男は仕方なしといった感じになりながらも、再び無言でメニューを開く。

 それから仕返しは立て続けに起きた。男は苦々しい表情を浮かべていた。店員があえて頼んだ料理と別の料理を運んだからだ。男は店員の目を見ずにミスを指摘した。店員はさらに十五分ほど待たせてから、正しい料理を運ぶ。けれど、男は安堵するどころかみるみるうちに険しい顔つきになっていく。その料理はメニューのイラストとかなり異なっていて、しかも手作り感がとても強かったのである。他人の作ったおにぎりが食べられない男には計り知れない苦痛を与えただろう。それでもなんとか我慢していた。女が仕事を辞める最後の日とあれば、少しくらい器が大きくなるのだろうか。呼吸を整え、言葉をぐっと押しとどめていた。けれど、まだお楽しみはこれからだ。料理のメインディッシュは運ばれてきたが、仕返しのメインディッシュはこの後待っている。

 俺は入り口に一番近い席に座っているエキストラに視線を送った。エキストラは緊張した面持ちで男に向かっていく。当然、男は気づいていない。それをいいことに、お手洗いを装ってエキストラは男のテーブルに置いてあったグラスに故意にぶつかった。グラスは床に落ちて、破片をまき散らして割れた。

「おい、ふざけんなよ!!」

 男は突如、大きな声を張り上げてエキストラに言った。その勢いは今にも掴みかからんばかりだ。とうとう限界が来たようだ。一瞬手が出るかと思い、俺の背中に冷や汗が流れるのを感じた。けれど、さすがに男も弁えていたようで罵倒だけに留まった。

「すみません、服が当たったみたいで」

「すみませんだぁ?? すみませんで済むわけねぇだろ!」

 エキストラが謝罪しても男の耳には届かなかった。男は顔を真っ赤にして、完全に怒り狂っている。店員が白い厚手のタオルを持ってきた。奪うように受け取ると、男は服を拭った。さすがに、ここまでの騒ぎになると遠慮がちに様子を見ている必要はなかった。俺は驚いた演技をしながら、じっくりと男を観察していた。これほど頭に血が上りやすい気質だとは思わなかった。そのせいで、臭い付きのタオルを素通りされてしまった。後で料金から値引く必要がある。俺は小さく舌打ちした。

「これ、クリーニング代です。すみません」

 エキストラが財布からお札を取り出した。男は礼も言わず受け取って、ポケットにねじ込む。

「トイレはどこだ」

「そちらです」

 男は肩を怒らせながら、早足でトイレに向かった。男が消えると、女は俺の顔を見てドヤ顔をする。満足している証拠だ。俺もエキストラたちにジェスチャーで親指を立てた。と、トイレの戸が開き男が出てきた。

「どうなってんだよ。トイレ水浸しじゃねぇか」

 男は言った。無理もない。どう動いても平気なように様々な場所に仕掛けはあった。男の怒りはますますヒートアップしていた。

「本当ですか。さっきまで綺麗だったんですが」

「疑うなら見て来いよ。全部水浸しで、使えたもんじゃねぇから」

 店員はトイレに向かい、しばらくして帰ってきた。

「申し訳ございません。ただいま清掃いたしますので」

「いい。もういいから。不愉快だから会計して。レミちゃん、行こう」

「え、でも」

「いいからさ。俺がもっといいお店探してあげるから」

 女は渋々といった様子で立ち上がる。店員は平謝りしながら、レジに向かった。男はレジに表示された金額を見て、カードを取り出す。

「申し訳ないですが、カードはお使いいただけなくて」

「はぁあ!? 今時そんな店あるわけ」

 男の声が裏返る。俺は男の心情が手に取るように分かった。こんなにも不幸が立て続けに起こるなんて、と男は混乱しているのだ。

 潔癖のこの男は現金を持たない主義であることは知っていた。だから次に起こることも、予言者のように言い当てることができた。男は何かを思い出したようにポケットに手を突っ込んだ。そこには、先ほどエキストラから貰ったクリーニング代があるはずだった。男の表情が緩んだ。握ったそれを、コイントレーに叩きつける。

「お客様、こちらはお使いいただけません」

「は? どういうことだよ。現金出したじゃ――」

 男は唖然とした。札を取って凝視する。それは紛れもなく子供銀行券だった。男は店内を見回した。すでにエキストラはいなかった。男がトイレに入った段階で、俺が退去させたのだ。

「偽札ですよね。通報しますよ」

 さっきまで弱気だった店員が豹変した。

「違う。これはさっきもらった金で。そうだよな、レミちゃん」

 男は女を縋るような視線で見る。

「えー私知らない」

 女は間延びした声で答えた。

「嘘つけ。レミちゃん、見ただろ。なあ、言ってくれよ」

「知らないって。もう、私払うから。そんな甲斐性ないとは思わなかった」

 女は千円札を四枚出した。店員はありがとうございますとだけ言って、レジにお金をしまう。男は項垂れた。プライドはずたずただった。

「だっさ。もうかかわらないでね」

 女はバッグを揺らしながら、店内を後にする。俺の脇を通り過ぎるとき、誰にも気づかれない程度に笑ったのが見えた。女が去って、店内は沈黙していた。空しくジュークボックスから静かな音楽が流れていた。

「レミちゃーーーーん」

 男は叫んで、床を叩く。これがドラマなら、慰める誰かがいるのだろう。例えばそれは一言だけの役割を任されたチョイ役的存在なのかもしれない。でも、これはドラマじゃない。男に声を掛けるものは誰もいなかった。

 悪く思わないでくれよ。俺は依頼をこなしただけなんだから。

 俺は店の外に出た。女の姿はすでに消えていた。

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