ダーティーワーク ~その男、トラブルクリエイター~
佐藤苦
Ⅰ
「三百万!?」
それは金切り声のようだった。
目の前の女が驚いた声を上げると、喫茶店の客達も会話を止めて、こちらを見てくる。俺はそんな視線を意に介さず、コーヒーを啜った。
よく晴れた日の午後、洒落た喫茶店。
俺は女とそこで重要な話をしていた。端から見れば、カップルに映るだろうが、俺と女はさながら店と客の関係だった。
俺は静かに取引したかっただけだ。そのために喫茶店に出向いた。なのに、この女ときたら……。頼むから、そんな下品な声を上げないで欲しい。コーヒーがマズくなるじゃないか。
しかし、女には俺の不機嫌な眉の動きなど読める能力もなく、
「冗談じゃない。そんなお金用意できるわけないじゃない」
と、手入れの行き届いたテーブルを叩いた。
険しい顔をしながら店員が向かってくる。他の客に迷惑になるから、と注意するつもりなのだろう。俺は余裕のある笑み浮かべながら、片手で静止する。
――大丈夫です、すぐに済みますから。
実際、余裕があった。仕事が仕事だから、失礼な反応をされるのは慣れていた。むしろ、俺に依頼してくる客層を考えれば自然なくらいだった。
「三百万は冗談ではないです。無理なら別にいいっすよ。待ってる人は他にいますから」
俺は席を立ち、店を出ようとする。もちろん、代金は置いていった。契約成立にかかわらず、それが男としてのたしなみだからだ。
席を立ったのにはもう一つ理由がある。俺には女の本気度がいまいち分からなかった。三百万というのは高額ではないはずだ。女がこれまで風俗で稼いできた金を出した上で、身につけているアクセサリー、服を大黒屋で売れば無理ではない額だし、女がしてきた依頼のコスト、つまり人件費もろもろの経費を考えれば格安と言ってもいいだろう。どうせ脱税してるんだし、それくらいは許されるはずだ。
「待って」
案の定、女はそう言った。女はよく待たせる生き物だ。俺は振り返った。
「悪かったわ。もう少し話を聞かせて」
女は懇願した。俺は笑みを隠しつつ、もう一度席に着いて、コーヒーを一口。どうやら女の依頼は本気なようだった。いずれにせよ、これで立場が分からせられただろう。
「分かりました。でも、もしもまた遮るようなことがあったら、僕はすぐにでもこの場を去りますからね」
女は、こくりと首を縦に振った。
「よかったです。まずお互いの認識が異なっていてはいけないので、依頼の核を確認しましょう。DMだけでは情報不足ですから」
俺はスマホをタップする。
「ええと、つまりあなたはターゲットの男性に復讐をしたい、これで合ってますか」
「ええ。その通りよ」
「けれど、復讐というと法律的なことがあるから、仕返し程度のものをお望みだ」
「それも……全くもってその通り。私は何も暴力的な行為を望んでいるわけじゃないの。だからこそ、この」
「この、何です?」
女はそこで言い淀み、唾を飲み込んだ。その先は言わなくても分かっている。
「この金額になるのが不満なんですよね。みんなそうおっしゃるんです。ですが、この手の依頼は大体この金額が相場なんです」
「そうなの」
「はい。極端なことを言えば暴力沙汰の方が安上がりなんですよ」
「えっ」
女は露骨に驚いた。
「下請けに出して、終わりです。その下請けはさらに下請けに出すんだと思いますが、まあそれはいいです。とにかく、僕としてはお金をもらうだけの簡単な仕事なので、請けない理由はないんです。でも、あなたがしたいことはマイルドな仕返しときた。これはとても手間がかかるんです。繊細な仕事なんです。ですから、正当な金額だとご理解いただきたい」
はったりにはったりを重ねることは綱渡りに似ている。しかし、女は目を丸くするだけでそれ以上突っ込んでこない。どうやら気づかれていないようだ。どうせ、引っ越しみたいに見積もりを比較することなんてできやしないのだ。仕返しの見積もりなんて、全国探しても俺のところくらいしかないだろう。当然、下請け云々も全部でっち上げた。昔、小説で読んだことをそのまま言ってみた。唯一、正しかったのは最後の正当な金額ということだけ。以前は一律で金額を設定していたが、ある日を境にその人によって変えることにした。依頼内容の複雑さも影響してくるが、本気度を試したかったのだ。ただの冷やかしじゃ困る。こっちだってリスクを負っているのだ。さもなきゃSNSで依頼募集なんてしない。
「さて、話を戻します。そもそもどうして、あなたは仕返しを望んでるんです」
「あの男はずっと私を指名してきた。不潔だったけど金払いがよかったから我慢してた。でも、私が風俗を辞めるって言ったその日、あの男なんて言ったと思う」
「辞めて悲しい、とかですか」
「違うわ。遊びじゃなくて付き合おうだって。それも合鍵を貼り付けた手紙で。汚いとか臭いとかなら慣れっこだけど、こういう誠実ぶったキモい手紙は虫唾が走るわ。ご丁寧にお説教まで書いてくれたし」
「なるほど。それはお察しします」
「でしょう! 分かってくれる」
女は手を握ろうとする。俺はやんわりと自分の手を引っ込めた。
確かに、男の俺でも客にそんなことを言われたら気持ち悪いと思う。自分も変なことを口走らないように気をつけなければと肝に銘じておかなければ。
「その男性のプロフィールを教えてください」
「どうしてそんなことを。ううん、別に嫌ってことじゃないけど、気になっただけ」
「相手が最も嫌がる嫌がらせを創造するためです。例えば爬虫類を飼っている人に、天井から蛇が降ってきても驚かないでしょう」
「それはそうね」女は笑った。「年齢は五十くらいの男。で、独身。趣味は……ええと、分からないわ」
「それだと不充分です。もっと具体的なことが分からないとプランの練りようがありません。何かないですか。その人の癖、言っていた言葉……」
観察は好きだ。どんなに注意を払っていても行動にはその人の生活や価値観が現れる。だからプロフィール調査、俺がインタビューと呼んでいる下準備は欠かせなかった。けれど、どうやら女にとってはどうでもいいことらしく、男の内面的な特徴は一切出てこなかった。金づるとして逢瀬を重ねていたにもかかわらず、由々しき事態。これじゃ、ターゲットが最も嫌がるシチュエーションをアレンジできないじゃないか。
俺が内心、憤慨していると、
「手を洗ってた」
女はポツリと言った。
「今、なんて?」
「そうよ。あいつ、潔癖なんだわ。随分長い時間、執拗に手を洗ってた。そのときは気にならなかったけど、今にして思えばかなりの神経質だった気がするわ。シャワーも笑っちゃうくらい長かったし。あれじゃ普通のお風呂タイムよ」
その瞬間、勝利を確信した。俺は早速、思いついたプランを提案した。
「なら、汚れ系の仕返しでいきましょう」
「汚れ系?」
「はい。とにかく汚いものをお見舞いするんです。どうでしょう。暴力でもなくささやかな復讐じゃありませんか」
「いいわ。ともかく、あの男には仕返しをしてやりたいの。汚れでも何でもやっちゃって。あ、でも、私には被害がないようにね」
即答だった。俺は微笑み、気が変わらないうちに、鞄からバインダーに留められた契約書とペンを取り出す。契約書は俺と依頼人用の二枚が複写になっていて、料金や守秘義務、キャンセル不可の旨が記されてあった。今回は会って詳細を詰めるつもりだったので、依頼内容は空欄にしてあった。DMで話し合おうと思ったけれど、女の生活が不規則すぎてレスポンスが遅かった。
女は受け取るなり内容も読まずペンを走らせる。よほど不満が溜まっていたのかその筆致は乱暴だ。
もしも、俺が悪人で契約書に不都合なことを書いていたらどうするつもりなのだろう。あいにく俺は善人だから、そんなことはしていないが、やはりこの女は不注意だと思った。
「契約成立ですね」
俺は女と軽く握手をした。それから内容を詰めていった。
ざっくり言うと、俺の提案はこうだ。貸し切ったレストランに依頼人とターゲットを招く。そこに、不快感を積み重ねるトラブルを投入し、最後に渾身の一発をぶち込む。特に最後の一発は依頼人のダサさを強調するトラブルにデザインする。依頼人はターゲットに失望し、退店する――。
演出の全体像を提案すると、女は首をかしげた。しかし、根気強く説明していくとようやく理解してもらえたようで、女の目に意地悪い輝きが戻ってきた。俺がデザインした過去の事例から具体的な部分を披露すると、女の興奮はピークに達した。
こんなトラブルがいい、あんなトラブルがいい。と、会話は盛り上がった。それはまるで、大好きな彼氏に贈るプレゼントを考えるやり取りのようだった。もっとも、悪意のプレゼントにほかならないのだけれど。
想定外のことが一つあった。女は自分の都合のいい日時で仕返しをしてほしいという。動画を保存して送るサービスもしていると言ったが、仕返しを眼前で見届けていたいのだと譲らなかった。
「なんとかならない?」
女は上目遣いで俺を見た。けれど、そんなあざとい目線は俺には通用しない。どうしてこうも自分勝手なのだろう。思い返せばDMのときも怪しかった。要望があるなら先に言うべきだ。せっかく二人で話し合って具体的なプランが決まったのに、また修正しなければならない。
しかし、結局は二転三転する主張に辟易しながらも、俺は女の同席を認めた。
「分かりました。なんとかします」
「よかったわ。あ、それと、お金はいつまでに振り込めばいいの」
契約書に書いてるのに、女はそれを読まずに質問した。
「弊社は成功報酬型なので、成功するまでお振り込みは結構です。成功次第、そちらの振込先に指定の金額を送金してください」
俺は渾身の営業スマイルで言った。
「失敗することもあるってこと」
そこで初めて女は疑いのまなざしを向けた。
「一度たりともありませんよ。ただ、単純に僕のポリシーの問題です」
女は胸をなで下ろす。
諸々のやり取りが完了し、俺は契約書を鞄にしまった。あとは事務所での仕事が待っている。といってもやることは決まっている。ちょうどいいトラブルを藤森と練るだけだ。
「では、約束の日時に。場所は決まった段階で連絡します」
「ねぇ、あなたどうしてこんな仕事しているの」
立ち上がりかけた俺に女は唐突に質問してきた。女のコーヒーはほとんど減っていなかった。
「どういう意味です」
「だって、その顔ならねぇ……もっと稼げるところがあるじゃない」
女は不思議な笑みを浮かべた。それが商売用の笑みだと理解するのに時間はかからなかった。要するに女は俺に顔で稼げるでしょ、と言いたいのだ。しかし、あいにく俺はそういう仕事に向いていないことを知っている。
究極のサービス業なんてご免だね。それに、この女が言ったとおりにとんでもない客に粘着されたら、それこそぞっとする。
「さあ、どうでしょうね」
俺はお茶を濁して、今度こそ席を立った。喫茶店を出て、よく磨かれたガラス越しに女の顔を見た。さっきまで会話をしていたにもかかわらず女は俺を一瞥するだけで、そっぽを向いた。コーヒーを啜って、彼方を見ている。
俺は振り返ることなく、歩き始めた。
それにしても、皮肉なものだ。依頼人はターゲットで稼いだ金を使って、ターゲットに仕返しをするとは――。肩入れする気はないけれど、もっといいやり方がないものか考えてしまう。
事務所に向かうためにバスに乗った。乗客は少なく、俺は一番後ろの席に座った。バスに揺られて、気づいたら俺は眠っていた。
起きたのはクラクションがしたからだ。信号待ちのところで、運転手が窓を開けて怒っていた。見ると、ウーバーイーツの鞄を背負った自転車と言い争っていた。同じ車道を走っていたバスと自転車の口論だろう。俺はそう推測すると、また眠りについた。
口論なんて珍しいことじゃない。この世はみんなトラブルを求めているのだから。
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