じっとしているなんてできやしない。俺は仕事をしただけだ。

 麻衣は依頼人の利益のために俺に相談を持ちかけたが、俺の方だって立派な依頼だ。だから、雇った役者にはしっかりと働いてもらった。

 一ヶ月経って中川の彼氏を捕まえて、デートまでこぎ着けた。役者は中川が通っていたパチンコ店に通い詰め、顔なじみになった。

 報告によれば彼氏はそういう関係を望んでいなかった。けれど、俺は二人が一緒にいる姿を写真に収められればよかったのである。

 役者が中川に寄り添う姿を、藤森に撮らせた。写真は数枚手に入った。これで充分だった。

 麻衣も黙っていなかった。負けず嫌いなのはお互い様だ。別れないために依頼人の彼氏に色々と吹き込んだらしい。

 プレゼントを贈ったり、言葉遣いを気をつけたり――。麻衣お得意のじれったいやり口で、小さな変化を積み重ねてきた。中川から嬉しそうに彼氏の変化を聞いたときには、このまま麻衣の依頼を暴露してやろうかと思った。ギリギリまで押し留まったのは、これだけ彼氏の変化があっても、中川の意志が固かったからだ。

 俺は優勢だった。このままいけば、依頼を達成させられるはずだった。

 電話が鳴ったのは、その日の昼頃だった。スマホを慌てて取ると、中川麦と表示されていた。中川には念のため緊急時の連絡先を伝えてあった。

「ご相談があります」

 中川ははっきりとした声で言った。わざわざ前置きがあるのは、良い知らせではないからだろう。俺は逸る心を抑えて、相手の出方を待った。

「依頼を中止させていただけませんか」

 来たか、と思った。俺は焦りを悟られないように冷静を装った。

「それは……またどういう心変わりだ」

「それは」中川は少し考えた様子で、「やっぱり別れる必要はないと思いました。あのときの自分はどうかしてました。ただの喧嘩で、勢いで相談なんてしてしまって」

 俺は衝撃をなんとか受け止めて、返答する。

 どうして、急に変わったんだ。中川は別れたかったはずだ。麻衣の差し金か? いや、それはない。もしそうならば、彼氏の変化が全部麻衣のおかげだと露呈してしまう。そんな作られた変化、いくら中川でも許そうとはしないだろう。

「言ったはずだ。契約は一度結んだら断れないと」

「それはもちろん承知してます。でも、そこをなんとかできませんか」

「無理だ」

 俺は躊躇いなく言った。こういうとき少しでも間が空くと相手に希望を与えてしまう。

 一度した約束は絶対に破らない。それに例外はないのだ。

「もう役者を雇って、動いている。証拠も集めてもらってるんだ。進捗はアンタも知ってるはずだ。そいつらに謝礼を払わなきゃならない」

「でも」

「慈善事業じゃないんだ。そいつらに悪いと思わないのか」

 本心だった。雇った役者だって生活がかかっているのだ。中川の依頼から得るはずの報酬を頼りにしているやつもいるだろう。それに依頼人の都合でいちいち結んだ契約を破っていたら、役者から俺に対する信頼も揺らいでしまう。

 電話の向こうで息を吸い込む音がした。

「なら、私はこれを警察に言います。あなたがやっていることは不法なビジネスです。争いをビジネスにするなんて」

 俺は絶句した。自分から依頼しておいて酷い言い草だと思った。こちらからけしかけたわけでもあるまいし。

「そこまで言うんだったら、こっちも考えがある。アンタの彼に伝えてやろう。別れるための工作を頼んできたって。彼はどんな反応をするだろうな」

 意地悪いとは思ったが仕方なかった。

 中川の返答はなかった。やがて、静かな息づかいが聞こえてきた。

「どうしてこんなことをするんですか」

「何がだ」

「こんな仕事をしようと思ったんですか」

 まさかそれを聞かれるとは思わず、言葉に詰まった。

「――答える必要はない。アンタ、そんなに別れたくないのか」

「はい。あの人じゃなきゃいけないんです」

「どうしてだ。男は星の数ほどいるだろう」

「さっき、私見たんです。彼が人助けをするところ。車にひかれそうになった男の人を助けていたんです……。私、知らなかった。彼がそんなことするなんて」

「それだけか。たった一回の行動でいとも簡単に考えを変えたって言うのか。またアンタは騙されてるかもしれないんだぞ」

「騙されてなんかいません」

 中川は最初こそ静かな口調だったが、だんだんと熱を帯びて早口になっていく。

「車で思い出したんです。駐車場で近所の子供が遊んでいたときのことでした。持っていたボールが駐車していた車にぶつかったんです。目撃していたのは私と彼の二人だけ。注意することもできた。でも、彼はしなかった。自分たちの車は別のところに止めているから関係ないって。だから、私は彼が事なかれ主義だと思っていました」

「余計なことに首を突っ込まない……俺でもそうしただろう」

「はい。なのに彼は首を突っ込んだ。自分の身を挺して、男の人を助けたんです。私は彼のことを何も知りませんでした」

「だから、契約を破りたいと?」

「はい。あの人以外代わりはいないんです」

 その言葉を聞いて、俺は一瞬気圧された。しかし、こっちだって立場がある。譲れなかった。

「事情は分かった。だが、無理だ」

「そんな……」

「契約は変えられない。諦めるんだな」

 電話の向こうでまだ何か言っていたようだが、俺は電話を切った。それ以上話していると飲み込まれてしまうかもしれない。女の言葉はまだ残響していた。

 代わりはいない――。そんなことあり得るだろうか。この世に代わりのいない人間など存在するのだろうか。

 中川の彼氏は麻衣に対して「別れたくない」と依頼してきた。中川は「別れたい」と依頼してきたが、今になって依頼を取りやめるという。

 普通の仕事だったら、クライアントの意を汲んで依頼を中止するだろう。連鎖的に麻衣側の依頼も達成できるのだからめでたしめでたしである。けれど、この依頼は俺一人で成り立っているわけではない。スタッフを雇って成立している仕事だ。依頼をキャンセルするということは、雇用を一方的に解除するということだ。

 不誠実だと思った。やっていることは、前職の社長と同じになってしまう。だから、絶対に依頼を中止するわけにはいかなかった。

 煙草を吸っていると、再び電話がかかってきた。どうせ、無視してもかかってくるだろう。嫌々ながらも、俺は電話に出た。

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