Ⅴ
注文した料理が並べられても、互いにニコリともしなかった。
楽しくない食事だった。いつもだったら対面にいる彼と、中身のない、けれどある意味充実した色々な話をして笑い合っていたのに今日はそんな気分になれない。いや、今日どころか今後そういう機会は永遠に訪れないのだろう。
私の気持ちが彼に伝わったのか、彼もまったく笑っていなかった。ただ、機械的に口に料理を運んでいる感じで、味わっているようには見えなかった。
私は今日、彼に写真を突きつけなきゃいけない。私が出せずにいる写真には、久良木が雇った役者の女と彼が写っている。女は彼に、まるで道案内をされているようで、どう見てもデートには見えなかった。
お粗末な仕事だと思う。でも、別れを切り出すには充分な証拠と言えた。
――別れたくないのに。
そう考えると涙が出てきた。こんなことなら最初から依頼なんかするんじゃなかった。もう少しよく考えてみればよかった。
どうして、私は誤ったのだろう。
いつもそうだ。私は物事をよく考えずに、雰囲気に流されてしまうきらいがある。友達が良いと言ったら良いと思うし、悪いと言ったら悪いと思う。最初はそんな風に考えていなくても、周りが言うなら――と考えが矯正されていくのだ。
そうやって自分の性質を理解しているつもりなのに、いつも失敗する。
「どうしたの。……大丈夫?」
彼が穏やかに言って、私の手を握った。
――ああ、なんて優しいの。
でも、今更断ることはできないのだ。私は彼の手を自然に解いた。
久良木は仕事をやり遂げた。多分、自分が想像するよりずっと大変な積み重ねが水面下であったのだと思う。SNSで聞いた評判は伊達じゃなかった。
でも、まさかキャンセルできないとは思わなかった。たとえ小さな会社でも依頼人の意向は最大限汲むべきなのではないだろうか。
久良木は完璧主義だった。莫大な違約金を楯に、私にも依頼の完遂を求めた。その口調に脅迫めいた響きを感じて、私はそれ以上強く反論できなかったし、反論しようにも電話が切られてしまった。
諦めるしかなかった。私は契約書を交わしている。それもこれも、彼の優しさに気づくのが遅かった自分のせいだ。
私はそのときを待った。久良木の依頼がキャンセルできなかったことは不本意だったが、自分が彼を信じていなかったことに対しては、自分の責任だ。だから、自分に罰を与えたかった。待っていれば、別れさせるためのトラブルがやって来るはずだった。
しかし、そのときは来なかった。待てども事態は動かない。確かに入店時よりかは騒々しさがあった。隣の席やキッチンの方でトラブルがあったようだ。でも、私たちにはまったく被害がなくて、視線を巡らせると目は合うけれど、それ以上の接触はなかった。誰もが、私たちをそっとしていると感じるのは気のせいだろうか。
そんなふうに考えていると、あることを思いついた。事態が動かないのだから、私は動こうと思った。この機会を最大限に利用しよう。
「私、実は大紀に話さなきゃいけないことがあって」
「……」
彼は沈黙して、周囲にも緊張が走った気がした。
「どうしたの」
「私、別れようと思ってたの」
「えっ」
彼は短く声を上げた。
「ちょっと前、私たち喧嘩したでしょ」
「ああ、かなり言い争った」
彼は苦々しく言った。
「うん。大紀は些細なことだと思っているかもしれないけど、私結構傷ついたんだよ」
「ごめん」
「ううん、謝るのは私の方だよ」
そこで私は躊躇った。この先を言ったら、もう引き返せない。久良木を裏切ることになる。でも、私は言わざるを得なかった。彼の目は私の言葉を待っていた。
「――私、別れるためにそういうところに依頼したの」
「そういうところって」
彼はまだ分かっていないようだった。
「別れさせ屋みたいなところ。実際は、人に合った色んなトラブルを引き起こすトラブル専門会社みたいだけど、私もよく分かってないの」
「そんな……」
彼は絶句した。目の焦点が私の頭の後ろにあるようだった。
「酷いことだと思った。でも、そのときの私にはこれしか考えられなかったの。謝っても許してくれないかもしれないけれど、ごめんなさい……」
私は必死で謝った。誰かが慌ただしく動く気配がしたけれど、振り返る気にはならなかった。今は彼だけに集中したい。今までずっと向き合っていなかったのだから。
私は彼の言葉を待って、唇の動きを見ていた。
「実は僕も謝らないといけないことがある」
彼の意外な言葉に、今度は私が驚いた。
「なんとなく君の気持ちが離れている気がして、僕も似たようなことをしたんだ」
「似たようなことって」
「復縁屋とでもいうのかな。どんなトラブルでも解決する何でも屋。僕は君の気持ちをつなぎ止めるために、そこに行って助力を仰いだ。言いなりになって、麦のためにいっぱい努力した。こんなのって情けないよな」
彼は苦しげに言った。罪の意識に苛まれているようだった。
「もしかして、あの自動車の事故も?」
私は恐る恐る聞いた。彼の言い分を信じるなら、自動車事故も演出かもしれなかった。
「いや、あれは本当の偶然だよ。たまたま家の近くを歩いていた人を助けただけだ。体が勝手に動いたっていうのかな。とにかく、助けなきゃって思ったんだ」
彼は恥ずかしそうに言った。
私はなんだかホッとした。彼は別れないための仕事を依頼していた。そして、アドバイス通り自分で様々な努力をしたという。でも、そのどれも私には響かなくて気づけなかった。唯一自分の意志で動いた自動車事故の件で、私の心を動かしたのだ。なんという皮肉だろう。
でも、私だって他人事じゃない。自分の意志で、トラブル解決社に背いたのだから。こんな展開、予想してなかっただろう。
私は思わず笑った。彼からも笑みが零れた。
「もう一度やり直さないか」
彼は言った。言葉に暖かさを感じた。
私はその言葉を待っていた。
「はい。こちらこそ、お願いします」
私は頷くだけだった。
俺と麻衣はレストランの外で、二人の顛末を窺っていた。麻衣が一瞬も見逃さないように集中しているのに対して、俺は後ろを向いて外壁に寄りかかっていた。
「これで無事解決ね」
隣にいる麻衣がほっと息を吐いた。どうやら一段落ついたようだった。
返事をしないでいると麻衣が顔を覗き込んできた。
「浮かない顔ね」
「ああ。これでよかったのかと思って」
「よかったに決まってるじゃない。二人の顔を見て。あんなに楽しそう」
俺は言われた通り渋々なかを覗いた。中川と彼氏は笑いながら、会話に花を咲かせている。二人はすっかりよりを戻したようだった。
「そうだな。幸せそうだ」
言って、俺は再び背を向ける。
複雑な気持ちだった。二人の望みは叶えられたが、自分の仕事を完遂できなかったのは消化不良だった。
「藤森君にはボーナス弾まないでいいの?」
「いいんだ。あいつには守秘義務を破ったっていう貸しがある」
「厳しいのね」
「ま、ちょっとくらいは出してやるつもりだけどな」
俺が言うと、麻衣は笑った。
藤森は大活躍だった。麻衣が事務所に来て問題を知らせてくれたときは、どう対応すべきか分からなかった。だからと言って、何もしないわけにはいかず藤森には依頼人の彼氏の偵察を任せていた。習慣や行動を観察し、浮気でっち上げに活かす材料を集めるよう指示していたのだ。
藤森は夢中で任務に取りかかった。変装や追跡は藤森の得意とするところだった。使命感に燃えた藤森は、だから、車が走ってくることに気づかなかった。ひかれる、と思ったときには遅かった。藤森はこのとき、死を覚悟したという。しかし、体に車がぶつかった衝撃は感じられなかった。
藤森はゆっくりと目を開けた。震えてはいるが手足は無事。血も流れていない。
歩行者が自分を見ている。すると、大丈夫ですか、と声を掛けられた。振り返ると、中川の彼氏がいた。
どうやら咄嗟の判断で自分を押し飛ばしてくれたらしかった。中川からの説明を真に受けていた藤森は、まさか人のために命をかける男だとは思っていなかったようだ。
藤森は心変わりした。男は命の恩人だった。
その光景をたまたま買い物帰りの中川が目撃した。中川は彼氏の勇敢さを見て、心底驚いた。
後は知っての通り。中川は依頼を撤回するために、俺に電話をよこしたのだ。
その時点では中川の口から藤森の名は出なかった。なぜなら中川は変装した藤森に気づいていないだけでなく、気が動転していたからだ。俺はわがままな中川の心変わりをどうにか止めようと必死だった。けれど中川からの電話を切った直後、藤森から電話がかかってきた。
そうして、経緯を知ったのだ。
「まさか、かかってきた電話が藤森君だなんてね」
「ああ。しつこく中川がかけ直してきたのかと思った。まさか藤森が事故に遭いそうだったとは……危ないところだった」
「きっと、純が言い過ぎたから頑張ったのよ」
麻衣の口調には非難が混ざっていた。
「反省しているよ」
「あら、珍しい。あなたが人の心配をするなんて」
「俺にだって人の心はあるさ」
俺の反省の弁を驚いた様子で麻衣は見つめた。
「でもよかった。藤森君、怪我はなかったんでしょ」
「まったく。それどころか依頼を中止してくれって、すっかり中川に同情しちまったみたいで……」
藤森は真剣だった。それは普段事務所で見せるようなおちゃらけた姿ではなくて、本当に俺を説得する気のようだった。いつもこのくらい真面目なら、と俺は驚いたものだ。
しかし、俺は藤森に賛成する気にはなれなかった。いくら依頼人の利益を思って善意で言っていても、藤森は全体が見えていない。お金が発生している以上、役者をキャンセルすることはできなかったし、かといって、タダで役者に金をやるつもりはなかった。
なのに、藤森ときたら俺の理屈なんてそっちのけで、感情で語ってくる。少年漫画並の情熱を持って俺に熱弁を振るうのだった。
「あの人にとっては代わりはいないんです、だっけ?」
麻衣が言った。
「あいつ、強情で。もう何言っても聞かなかったんだ」
「それで折れたわけね」
「まあな」
俺は、その瞬間、二人を別れさせないことを決めた。とはいえ藤森の熱意というより、そこは中川の切実な声がふと頭によぎったからという理由にしておきたい。振り払おうとしても、厄介なもので頭にこびりついてしまっていたのだ。
「ただ、ここで問題があった」
「どんな?」
麻衣は分かっているはずなのに、そう言った。
「こっちが依頼をキャンセルしたら麻衣に迷惑がかかる。だから、連絡したんだ」
「私の状況を慮ってくれたのね。優しい人」
俺が依頼をキャンセルすると、麻衣側に損失が出るのは必然だった。
仕事が動き出す前ならまだよかった。俺が依頼をキャンセルして、麻衣もキャンセルして、終わり。でもあの時点ではまだ中川麦の依頼は生きていた。中川は、別れたいと明確な意思表示をしていた。依頼人の利益と会社の利益を守るために、麻衣からの要望には応えられなかった。
それが……あろうことか状況が変わってしまった。
俺はキャンセルすることを決断した。しかし、仕事が動き出した今、損失は避けられなかった。麻衣は俺の性格を見抜いていた。俺が仕事にとりかかることを理解しているから、対抗策としてあらかじめスタッフを動員していたのだ。俺が浮気でっち上げ工作を進めている一方で、離縁決行当日に備え麻衣のスタッフは日に日に増えていった。
仮にここで俺が依頼をキャンセルすると、何が起こるか。麻衣のスタッフは仕事がなくなってしまう。それは大いに問題だ。会社が依頼に応じて給料を与えるシステムなのはよく知っていた。
それに、大勢の人間が動いているところで急に依頼が中止したとなれば、その事情を追求されるだろうし、仮にそれを躱せても人件費の無駄遣いだと非難は避けられない。
いくら麻衣が一人で済みそうだ、と主張しても信じる人はいないだろう。破局寸前のカップルを別れさせないという大仕事なのにたった一人でできるわけがなかった。たとえそれができたとしても、自分の会社のスタッフを利用しないということになると、依頼そのものが嘘で実績造りのマッチポンプ的行為として会社にあらぬ疑いをかけられてしまうことだって考えられる。あの社長ならそう思うだろう。
ことはそう単純ではない。俺だけの問題じゃないのだ。
そういうわけで、俺は麻衣のためにどちらの依頼も成立させる必要があった。なおかつ、別れさせないという矛盾を成し遂げなければならなかった。
「藤森には今度こそ代案を出せって、言ったんだ」
「なるほどね。それで私のところへ連絡が来たわけね」
俺はすぐさま麻衣に電話して、藤森と三人で話し合いの場を設けた。長時間の話し合いの後、藤森の意見が使われることになった。
どちらの依頼もキャンセルしないで済む方法。つまり、俺がトラブルを起こして、麻衣が解決するというものだ。これならば、俺側の役者は演技できるし、麻衣側のスタッフも仕事ができる。俺たちは台本を作成した。ただし、起きるトラブルの内容は当然解決できる範囲にとどめた。そうしないと、麻衣側のスタッフが対処できない恐れがある。
浮気でっち上げのために雇っていた契約期間の残っている役者たちは、トラブル発生装置を演じてもらうためにレストランに回した。解決される前提のトラブルを演ずるのに最初は戸惑ったようだが、金銭が支払われるならば、と納得してくれた。
麻衣側のスタッフは何も知らずにやってきた。席に座り、麻衣の指示の下トラブルに備えた。席の半分が俺側の役者だとは幸いにも悟られていなかった。
二人にとって初めて来たレストラン。こんなところに急に誘った彼氏の真意は何だろう。きっと改まった話に決まっている。どうやらここで別れ話がされるらしい――。
麻衣側のスタッフが考えていることはそんなところだろうか。依頼人である彼氏の魅力をアップする方法は上手くいかず、ついに別れの場に持ち込まれてしまった。それでも絶対に別れさせないために、なんとしても別れ話をさせないように思っていたのだろう。
麻衣はもちろん真相を知っているが、当然伝えることはできないし、むしろバレる方の心配で神経をすり減らした。
綱渡りだった。しかし、目論見は上手くいった。トラブルは発生し、ただちに解決した。麻衣側の社員にしてみれば、二人の別離を阻止するつもりだったのに、なぜか別れ話は一向にされず、店のトラブル解決に終始することになった。彼らにしてみれば、少しでも別れに繋がりそうなトラブルの芽は摘んでおきたいのである。
捨て身で水を浴びるスタッフ。咄嗟に身代わりになった。ムードを壊さないために、首を捻りながらも、意味のないトラブルを解決し続けた。
そんななか――。
「あんなトラブル起きるなんて聞いてないけど?」
「俺だって予期してなかった。まさか、中川がカミングアウトするなんて」
予想外の展開だった。
せっかくここまで上手くいったのに、なんてことをしてくれたんだろう。
中川には彼氏からの依頼があったことは伏せておきたかったし、麻衣側も同様だった。混乱を避けるためあえて伏せていたことが、裏目に出てしまった。
俺は飛び出しそうになった。まだ間に合うだろうか。と、麻衣が静止した。
大丈夫。その根拠は分からなかったけど、俺もそれを信じることにした。
その通りだった。実際、二人は俺の苦労などつゆほど知らず休日のティータイムを楽しんでいる。一昔前の俺だったら、人の気も知らないでと毒づいていただろう。でも、今はそんな気が起きない。不思議な気分だった。
「どうこれで分かった? かけがえのないものはあるのよ」
「どうだか。俺は今でも代わりのきかない人間なんていないと思ってるぜ」
「頑固な人」
そうは言ったものの、俺はとっくに気づいていた。
本当はこれがあるべき姿だったんだ。トラブルなんて必要なかった。
俺は歩き出した。結末は見届けた。もう用はなかった。
「待って」
麻衣が呼び止める。
「まだ何かあるのか」
「ねぇ、私たちもやり直さない?」
その顔は穏やかに笑っていた。
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