Ⅵ
「社長、よかったっすね。これで一件落着です」
書類整理をしていると、藤森が後ろから話しかけてきた。振り返ると、藤森の引きつった笑顔。藤森は平静を装っているが、長い付き合いだから分かる。俺がなかなか切り出せないせいで、藤森はずっとそわそわしている。
藤森には大事な話があると言って呼び出していた。
「で、今日はどうされたんですか」
少しだけ緊張をはらんだ声で、藤森は言った。
「お礼を言いたかったんだ」
「はっ……、お礼?」藤森は拍子抜けした顔で、「お礼ならラインでも全然よかったですよ。社長も暇じゃないですし」
「いや、直接言わなきゃいけないと思ってな」
俺は書類整理の手を止めて、藤森をソファーに座らせた。
「藤森……」
「はい……って何ですか社長、急に」
藤森は身構えた。
「ありがとう」
俺は呆気に取られている藤森の前に、封筒を滑らせた。封筒には十万円を入れていた。藤森のこれまでの貢献としては安いくらいだ。でも、これから行うことを考えたらギリギリ出せる金額だった。
「はっ?? これってお金ですか。こんなに受け取れませんよ」
藤森は狼狽えたように言った。とりあえず受け取ったものの、どうすべきか悩んでいた。
「これまでのお礼だ」
「でも……」藤森は俺と封筒を交互に見る。「僕、何もしてないです」
「いいから取っとけ。それともう一つ言わなきゃならないことがある。――藤森、お前はクビだ」
「ど、どうしてですか。僕、頑張りましたよ。やっぱり守秘義務のことで」
「違う。閉めることにしたんだ」
「閉めるって何を」
「この事務所だよ。今回の一件で考えたんだ」
俺が言うと、藤森は押し黙った。俺は書類整理に戻り、中川麦の契約書を引き出す。
「中川さんのことですか……?」
藤森は俯きながら聞いた。
「僕が変なことを言ったから、社長に――」
「ああ。でも、それで感謝してるんだ」
俺は窓の外を見た。この景色ももう見納めだった。
「藤森、お前言っただろう。代わりはいないんです――って」
「中川さんを別れさせたくなくて。……僕、どうかしてたんです」
「だが、それは本心だろ」
「そうですけど……」藤森は言い淀む。「そのせいで社長は変わってしまったんですね。僕が代わりなんていないって言ったから」
「違う。俺はまだ考えを変えてない。今でも、どんな人間だって代わりはいると思ってる」
藤森は驚いた様子で、顔を上げた。
「じゃあ、何で……それならどうして事務所を閉めるんです?」
「代わりはいる。その言葉に偽りはないと思っている。けど、俺は物事の一面しか捉えられていなかったんだ」
「どういうことですか」
「藤森、俺がどうしてこの言葉にこだわるか前に話したよな」
「はい。社長が前の会社で上司の方に言われたんですよね」
「ずっと重しになっていたんだ……。俺が辞めても代わりがいる。誰にだって代わりがいるってことが呪いみたいに心で響いてた。実際、俺が辞めても前の会社はびくともしなかったしな。あれだけたくさんの仕事をしていたのに、平然と仕事は回っていた。だから、結局代わりはいるんだ」
「でも、それは会社だからですよね」
「会社じゃなくてもいい。ノーベル賞級のもっとすごい不世出の天才だったとしても、そいつじゃなかったら別の人間が歴史に名前を残すんだよ、きっと」
「それなら……僕もですか。僕の代わりもいるってことだ」
「ああ、残念だが」
「そうですか……」
藤森は沈痛な面持ちで言った。
「だが、それはスタッフとしての代わりだ」
「えっ」
藤森は短い声を発した。
「いいか、藤森。どんな仕事も代わりの人間はいるんだ。そもそも、たった一人欠けて回らないような会社は潰れた方がいい。だがな、それは社会的な必要性に限った話だ。会社は新しく人を雇えばいいし、偉人は後世になって出てくるだろう。けど、家族や恋人、その人にとっての代わりというのはいない。世の中には壊してはいけない関係がある。こんな当たり前のことに気づかせてくれたのが中川麦と、お前だよ――藤森」
「えっ、僕ですか」
藤森はきょとんとした顔で、自分を指さした。
「俺にとってお前は友人だ。仕事仲間じゃない。そういうわけだ、藤森。こんな役に立たない仕事なんか辞めて、新しい仕事を探すんだな」
そう言ってから、俺は中川麦の契約書をシュレッダーにかけた。たった一枚の紙なのに、シュレッダーはかなり大きな音を立てて裁断していく。
「あ、ちょっと、社長!」
藤森が慌ててシュレッダーを止めようとするが、すでに契約書は紙の破片となってしまっていた。
これで二十万円の契約はなかったことになる。あとは事務所を畳んで残った金を、中川の彼氏が麻衣に対して行った依頼に補填すればいい。そうすれば、あの二人にお金を払わせずに済む。
「これでいいんだ」
俺は独りごちた。
誰も損しない結果だ。見方によっては俺一人だけ損な役回りかもしれないが、俺はそうは思わない。代わりのきかない関係を壊さずに済んでよかったし、そのことを学ぶ機会を得られたのだ。
藤森はどうしていいか分からないといった表情をしていた。事務所が閉まるという現実をまだ受け容れられていないように見えた。
「藤森」
「はい……」
俺が呼びかけると、藤森は意気消沈したまま呟いた。
「飲みに行くか」
「えっ」藤森は狼狽えた。「どうして急に」
「さあな。理由なんてねぇよ。行きたいからに決まってる」
「でもまだ明るいですよ」
「そんなの探せばやってるだろ。いいから付き合え」
「うわっ」
俺が強引に背中を押すと、藤森はよろめいた。抵抗することもできたのに、藤森はそうしなかった。
「社長のおごりですからね」
「ああ、もちろんだ」
俺が言うと、藤森は鼻を掻いた。
藤森には悪いと思っている。アルバイトを辞めさせられるとは予期していなかっただろう。だから、今日は俺のおごりだ。それでせめてもの償いにさせて欲しい。
でも、藤森にとって良いことだとも思っていた。青年の貴重な時間をこんな仕事に費やしていいわけあるまい。
電気を消し、事務所のドアを外に開いた。梅雨が明けてないにもかかわらず、外は晴れていた。
まるで俺たちの門出を祝っているように感じるのは体のよい勘違いだろうか――。
俺はドアの内側にかかった札をひっくり返す。
CLOSEの表示を確認し、俺は藤森と共に街に出た。
《了》
ダーティーワーク ~その男、トラブルクリエイター~ 佐藤苦 @satohraku
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