Ⅳ 世界の外
さて、そうした彼の様子を、ダイニングの大きな姿見を通して密かに覗う者達がいた……じつはその姿見、マジックミラーになっているのだ。
そして、そのマジックミラーを挟んだ壁の向こう側には、この家の住人である彼もその存在をまったく知らない、家中の部屋を映す無数の監視モニターと、各種必要機材の並んだ秘密の空間が広がっている。
その隠された謎の空間で彼を興味深く見守るのは、白衣を纏った数名の男達と、そして、あの長く麗しい黒髪を持った美人カウンセラーだった。
「投薬でなんとか持ち直せるかと思ったけど、やっぱりダメだったみたいね。堅牢な堤も蟻の一穴から崩れ去る……少しでも疑問が芽生えれば、無理な暗示は瞬く間に解けてしまうってことね」
呆然と座り込んで動かない彼をミラー越しに見つめ、カウンセラーは少し残念そうにそんな
「この不測の事態、如何いたしましょう?」
彼女のとなりに少し年下ぐらいの若い男が、困ったというような顔でそう尋ねる。
「仕方ないわ。本実験は現時点をもって終了。被験体には精神障害が残らないよう、投薬と催眠療法を併用したケアをすぐに始めて。ま、ここまででも貴重なデータがとれたってことで、今回は良しとしましょう」
その問いに、彼女はてきぱきと指示を飛ばしながら、自分自身も納得させようとするかのようにそう答えた。
「いや、なかなか興味深い実験だったよ。本来の学術的な意味合いとは少々異なるが、その語源に即していうならば、むしろこちらの方が
彼女の指示に若いスタッフ達が忙しなく動き出す中、初老の男性が彼女のもとへ近づいて来て、その結果を褒め讃えるような口ぶりでそう述べる。
「暗示をかけられただけで、なんの変哲もないただのマネキン人形をこんなにも長時間、本物の家族だと思わせることができるとは……まさに彼はギリシャ神話の
重ねて老人が口にしたその〝ピグマリオン〟というのは、ギリシア神話に登場する王様の名前だ。
その物語によれば、キプロスの王ピグマリオン(※またはピュグマリオーン)は、現実の女性に失望し、ある時、自ら象牙を彫刻すると、理想の女性ガラテア(※またはガラテイア)の等身大の像を製作した。
そして、最初は裸体であったその像に衣服を彫り入れるなど愛情を注いでいる内に、いつしか彼はその彫像に本気で恋心を抱くようになってしまった。
さらに彫像のために食事を用意したり、親しく話しかけたり……ついには彼女が本物の人間になることを願い、その彫像から一時も離れられなくなると、彼は次第に衰弱していった。
すると、その様子を見かねた美の女神アフロディーテが、彼の願いをかなえて彫像に生命を与え、ピグマリオンは晴れてガラテアを妻に迎え入れたのだという……。
この逸話から名前をとり、教育の場では「教師が期待を持って教育すれば、その生徒は期待されなかった場合に比べて成績が伸びる」という現象のことを〝ピグマリオン効果〟と呼んでいるが、彼女――スクールカウンセラーに扮している美人心理学者は、まさに「人形を人間として認知してしまう」という、よりいっそうこの神話通りの心理的作用についての人体実験を、彼を被験体にして行っていたのである。
「いいだろう。予算委員会には私の方から推薦しておくんで研究費については心配いらん。引き続きこの実験都市を使えるよう学会にもかけあっておこう」
どうやら心理学会の重鎮らしいその老人は、満足げな表情を浮かべて彼女にそう告げる。
「ありがとうございます。ご期待は裏切りません。今度はもっと長時間、より強力に人形が人間に変わる
その後ろ盾になってくれるという嬉しい重鎮の言葉に、彼女は自信に満ちた声でそう答えると、愉快げに、だが冷たい笑みをそのギリシア彫刻の女神のような顔に浮かべた。
(ピグマリオンの家族 了)
ピグマリオンの家族 平中なごん @HiranakaNagon
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