第80話 聞きたかった言葉

 人生失敗した、という言葉がある。


 誰もが聞いたことのある言葉だ。取り返しのつかないことをした時に使うことがしばしばである。仕事に失敗したり、夢が夢で終わったり、人生計画が狂ったり。その人生においてもう二度と巡ってこない『何か』に藁にもすがる思いで我々はその言葉を呟く。

 俺たち17歳、18歳も例外ではない。

 大学受験に就職活動。その結果次第で俺たちもその絶望をぽつりと呟くことになる。

 俺もその失敗の当事者になりうるかと考えたことがある。受験に落ち、浪人という道を選んだとき俺は『人生失敗した』と吐露するだろうか。

 

 答えはノーだ。


 自分が人生で何を求めているかわからない。

 将来有名になるとか、医者になるとか、資産家になるとか、そういった人生における最大目標、最終地点がまだ想像できないでいた。だから失敗を思い描けなかった。だが死に際に思うかもしれない。何もない人生だった、と。それは嫌だな。

 何かを成さねばならないという使命感に駆られる。


「彗くんの進路は変わらず、大学受験ということでよろしいですか」


 先生が母に確認を取る。

 最後の進路希望調査。母を交えて三者面談をしている最中だ。


「はい、お願いします」


 母がそう答える。俺が決めたわけでも母が受験を強いているわけでもない。自然とそういう流れになった。両親が大卒なのもあってそういう雰囲気なのだ。

 俺も嫌なわけじゃない。名前とお金があれば受かる大学は除外して、ちゃんと評判のある大学に入れば、それだけで人間性にかかわらずこの社会では一定の評価がされるし、就職面では圧倒的に強みがある。より高度な学びの場で成長できる機会はそうそう巡ってくるものじゃない。両親に保護されているからこそ享受できる今だけのチャンスだ。

 しかしそれしかわからない。というのも求めているものが俺にはないから、そういった薄っぺらいメリットしか思いつかないのだ。


 三者面談が終わり、母は「勉強頑張ってね」と一言残して帰っていった。居残り勉強をしようと思って母には先に帰ってもらったのだ。

 物寂しくなった教室に戻り、机についた。


「あなた」

「その『あなた』ってやめんか。俺はお前の夫か」

「ごめんなさい。あなたの名前を言い慣れてないから、つい」

「以前もそうだったから気にせんでいい。俺の名前は数回ぐらいしかお前の口から聞いてない」


 アリナも放課後に残って勉強していた。彼女はイヤホンを耳から外してペンを置いた。


「あと半月で夏休みね」

「そうだな。受験生の時間の流れは早すぎる。ちょっと前まで体育祭だったのにな」

「夏休みは予定あるの?」

「勉強」

「意外と真面目なのね。てっきり遊び惚けるのかと思っていたわ」

「そういうお前は何かあるのか? 海に行ってファンサービスかね?」

「私の水着姿で興奮する人なんていないわ」

「興奮を通り過ぎて拝むかもしれんな」


 最後の夏なのだから遊ぶのもいいが、そこまでアクティブじゃない俺は例年通り、のほほんと勉強と休憩と腐敗を繰り返す毎日を送ることだろう。

 

「私もあなたと同じかしらね。勉強して、時々外出して、時々あなたのことを思い出そうとして」

「最後のは要らん」

「そうでもしないとあなたの記憶を取り戻せないもの。言ったでしょう? あなたが帰宅部を辞めてもらったのもそのためなんだから」

「まぁそうだが……」

「つまらない夏になりそうだわ」

「しょうがない。受験生だもんな」


 彼女はため息をついて机に伏せた。俺はよじっていた身体を前に戻して勉強する準備を始める。


「つまらなくなりそうだわ」


 またアリナが不満げに呟く。はいはい無視無視、サインコサインタンジェント。

 

「寂しいわ」

「薔薇が寂しがるな。薔薇は1人になるために棘を生やすんだぞ」


 その日の放課後はアリナの一言一言で集中できずに終わった。







「つまらないわ!」

 

 自販機に小銭を投入しているときにアリナは現れた。

 この平和な昼休み時間になぜ俺を探し出して退屈の不満をぶつけに来たのだろうか。あれか、日羽アリナの憂鬱か。


「何がつまらないんだ。最近おかしいぞ」

「つまらないのっ!」


 次はぷんぷん怒り始めた。

 とりあえずトマトジュースを買わなければ話が始まらない。小銭を投入し、ボタンを押す。


「あっ、おい返せ」


 アリナにトマトジュースを取り上げられた。

 眉間にしわを寄せて睨む表情を見て、毒舌薔薇を連想した。そういえば彼女はこういった顔をよくするのだった。


「何が不満なんだ。余裕が無いように見えるな」

「そうかしら」

「そうだろ。返してくれ」

「やだ」

「お兄ちゃん武力行使しちゃうぞー!」


 そう言って指を波に揺れるイソギンチャクのように動かして威嚇すると気味悪がって返してくれた。やはりこういう時は気持ち悪いことをするに限る。


「……わからないけれど」

「ん?」

「わからないけれど……私、焦ってるのよ」

「受験か?」

「それもそうね。でも大きなところは違くて……多分あなたのことよ」

「俺?」

「あなたのこと……思い出せないんじゃないかと思ってすごく焦ってるの。もう1年ないのよ、私たち」


 彼女は俯いてスカートを握りしめた。なぜにそこまで焦っているのだろうか。彼女もわかっているだろうが一生思い出せない可能性の方が高い。思い出すにしても何年もかかるだろうし、焦っても意味がないことはわかっているはずだ。


「高校時代で思い出せるなんて俺ははなから期待していない。思い出すタイミングは高校じゃなくてもいいだろ。死ぬわけでもあるまいし。俺のことは何十年後かにふと思い出す程度でいい」

「でも……もっと違うことで私は焦ってるのよ、きっと」

「焦りってことは時間との勝負ってことか? 何と戦ってんだよ。火星人とか?」

「わからないわ。でもとても大事なことだから焦ってるのだと思う。女の勘よ」


 これが荒唐無稽ってやつだ。

 こういう時は優しくするのが一番だ。同調して気持ちよくなってもらおう。


「わかるぞ、わかるわかる。すごくわかる」

「わかっていないわ」


 どうしようもないから彼女のことを意思疎通不可能な地球外知的生命体として認識を改め、教室へと誘導しながら話を適当に合わせた。

 

「もういいわ。私の気のせいってことでこの話は終わりにしましょう」


 話が終わるのならそれでいい。

 後ろの席の真琴が「夫婦喧嘩やめろよー」とからかってきたため「帰宅部に負けたバド部の真琴くんは一生鳥の羽でもむしってろ」と全国のバドミントン愛好家の皆々様を敵に回す台詞を彼に送った。


「夫婦……?」


 アリナが背筋を伸ばして真琴を見る。真琴は恐怖で震えた。グッバイ真琴。葬式はちゃんと参加してやるぜ。

 しかし真琴は殺害されなかった。アリナは口角を上げて微笑んだ。


「えっ、どういう笑顔それ。怖い!」


 女神降臨で挙動不審になる真琴。

 アリナはにっこり笑って俺に向き直った。悪い予感しかしない。


「彗。ずっと思ってたことがあるの」

「なんだよ」

「私はあなたのことが好き。私と……付き合ってください」


 自分の耳を疑う。ムードもクソもなかったが、それはまぎれもなく『告白』だった。

 だがこうも簡単にアリナが告白するものだろうか。だからこれはフェイクだと思った。何かを誤魔化すためだと。でも、もしかしたら本当かもしれない。現にアリナは頬を紅潮させて、胸に手を当てている。

 俺が考えすぎなのかもしれないし、ひねくれているからかもしれない。

 宇銀の言っていたように、愛は理論を超越するのか? 


「……は?」


 俺はそんな反応しかできない。

 嬉しいというより疑問の方が大きい。どういうことだ?


「ぎょあああ!!」


 真琴の悲鳴が響いた。

 クラスの女子もきゃーきゃーひゅーひゅーとか言って騒いだ。

 アリナを見つめる。彼女はまっすぐ俺の目を見て回答を待っているらしい。どういうことだ、何が起こっている。なぜ当然の帰結だと言わんばかりにクラスメイトは騒ぐのだ。そしてなぜ、俺はさほど嬉しくないのだ。

 

「……ちょっと待ってくれないか」


 絞りだしてやっと言えたのがそれだった。

 

「えぇ。待ってるわ」


 アリナは目を細めて微笑んだ。

 畜生、何が起こってる。

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