第81話 あなたを待っている

 人間の同一性は何で左右されるのだろう。

 名前か、遺伝子か、心か、はたまた人体構造か。

 

 一般人でも見分けられる方法を模索した時、やっぱり頼りになるのは会話だ。何を知って、何を経験してきたかを探る。後天的な──つまりは記憶だ。記憶は合言葉みたいなもので、アリナが何者であるかを見分ける唯一の判断材料だった。

 

 彼女の告白を聞いた時、純粋に喜べなかったのは記憶が原因だ。

 クラスメイトたちの視点からすれば、必然というか来たるべき時がきたといった感じだっただろう。俺はアリナと仲が良かったし、異性の友人にしては踏み込んだ距離感だった。いずれ交際すると思われても仕方がなかった。


 俺がアリナを受け入れた光景を想像する。

 遠くであの毒舌薔薇が悲しそうな顔をしてこちらを見つめている。勝手だが、俺に想像に影響を与えるには十分だった。

 もちろん、今の彼女が毒舌薔薇で基本人格で、あの日、図書室で出会った日羽アリナであることは承知している。ただ榊木彗に関する記憶が無いだけ。ただそれだけが欠落したアリナだ。人格が同じとわかっていても、どうしてここまで俺は苦しめられるのだ。記憶と人格は別問題だろう? どうして俺のことを忘れただけで彼女を別人扱いしてしまうのだろう。

 

 俺だけが困惑しているわけじゃなかった。鶴も笑ってはいなかった。きっと彼女なりに俺の心境を察したのだろう。

 



 それに俺は独身貴族を豪語している身だ。

 動揺などする必要がそもそもないだろう。


「聞いたよ! 聞いた聞いた!」

 

 授業合間のトイレ休憩。教室に居づらくなった俺は廊下の掲示板を凝視して考え事をしていた。その最中、白奈が話しかけてきた。


「やっとだね!」

「何がだ」

「もう! 今更なんで迷ってるの!? アリナさんだってずっと伝えたかったことだと思うよ!」

「そっちにまで話が流れてるのか……」


 話が広まるのが早すぎる。

 白奈はアリナの事情を知らない。だから俺のはっきりしない態度が気に入らないのだろう。


「突然のことだったからな。びっくりしちまって頭が真っ白になったんだ。白奈のお肌のように」

「変に口説かないの!」

「いやぁ、本当に参った……」

「なんで深刻そうな顔してるの? 嬉しくないの?」

「まぁ嬉しいよ。でもなぁ、やっぱりなぁ」


 自分の優柔不断な性格に腹が立つ。そこまで理詰めじゃなくてもいいじゃないか、と考える自分もいるがどうしても煮え切らない。

 

「アリナさんのこと……好きじゃないの?」

「究極の質問だな」

「究極っていうあたり、素直じゃないよね。好きか嫌いかなんてすごく簡単だよ」

「そうだよな。簡単なはずなんだがな……」


 チャイムが鳴った。教室に戻らなければならない。


「しっかりしなよ、彗。逃げちゃだめだよ」

「逃げちゃだめだ、逃げちゃだめだ……」


 



 決心はつかず、放課後が来てしまった。

 白奈に誓ったように逃げるつもりはない。きっとアリナはあの場所にくる。彼女を1人待たせるわけにもいかなかった。それに訊き出したいこともある。

 掃除を済ませると誰よりも先に荷物をまとめ、離脱準備を始めた。

 アリナの視線を感じるが無視して教室を出た。ひどい態度だがどうか許してほしい。


 来ると信じて、俺は椅子に座って時計を見た。薔薇園の時計は3時間ズレていた。1分ごとに時を刻み、カチッと音を鳴らす。この時計は3時間の遅れを取り戻すつもりがあるのだろうか。なぜ3時間も遅れたのだろう。俺とアリナがいた頃は正確な時間を指していたのにどうしたものか。

 

 コンコン。


 ドアがノックされる。

 曇りガラスに覚えのある輪郭がぼんやりと浮かんでいる。


「はい」


 ドアに向かって返事する。

 ゆっくりとドアがスライドし、アリナが顔半分を出して確認する。


「やっぱりいた」


 アリナはほっと安堵したように息を吐いて肩を下げた。その反応も初々しくて俺は直視できなかった。

 彼女はいつも通り正しい姿勢で、美しく靴音を鳴らしながら近寄ってきた。椅子に座ると若干視線を下げて俺と向き合った。

 

 沈黙。

 

 何から切り出せばいいかとても迷う。お互いそんな心理状態だ。

 制服のこすれる音にすら過敏になってしまうほどの静寂。一瞬、アリナと目が合ったがすぐに逸らされた。そしてまた恐る恐る視線を合わせようとする。

 

「なぜ、あのとき言おうと思ったんだ」

「嫌……だった?」


 叱られる子供みたいにアリナは小さな声でそういった。


「嫌じゃない。でも、アリナは様子がおかしかっただろ。つまらないとか焦ってるとか言ってさ。その後に突然、その、言われると……」

「ごめんなさい。私も落ち着いていなくて、その……私らしくなかったわ」

「謝ることはないが、冗談じゃないのか……?」


 アリナは俯いて前髪で目を隠す。


「……はい」


 耳を澄ませないと聞こえないくらい小さな返事だった。

 

「アリナ、よく考えろ。俺みたいな人間より魅力のある男は腐るほどいる」

「そんなことはないわ」

「そんなことあるんだ」

「どうしてそうやって自分を卑下するのよ。私はあなたを誰とも比較する気はないわ。意味がないもの」

「そう……だな」


 アリナは眉をひそめて悲しい表情を浮かべた。


「私、あなたを初めて見た時に思ったの。『この人のこと知りたい』って。とても不思議だった。あなたのこと何も知らないのにどんどん惹かれていった。そしてあなたの記憶を失う前の私は、あなたに恋してたことを知った。想像じゃないわ。ノートに書いてあったの。『どうしようもないこの気持ち』って。だから運命だと思った。記憶を失ってもまたあなたと出会って、またあなたに恋をした」


 目頭が熱くなるのを感じた。


「きっとあなたは、あなたを知る私から聞きたかったんだと思う。あなたの立場だったらそう思うもの。でもね、あなたを失った代わりにすべて思い出した瞬間、見える世界が変わった。今まで通りの私だけど、考えも見え方も変わったの。記憶喪失ってそういう感じ。だからこそあなたに伝えたかった。私があなたの記憶を取り戻す前に、今の私で伝えたかった。好きって。だって……あなたの記憶を取り戻したら、今の私じゃなくなってしまうかもしれないから。本当にごめんなさい。どうしようもないのよ、本当に」


 俺は声が震えないよう気を付けて口を開いた。


「ごめんな、アリナ」

「どうして?」

「本当はずっと辛かったんだ。アリナとの思い出を話したくて、話したくて……でもわかるだろ、無駄なことなんだ。だからいっそ出会わなければよかったって思ったこともある」


 ひどいことを言っていると自覚していたが話すしかなかった。


「毎日顔を見る度に期待した。戻ってるかなって」

「ごめんなさい。私……あなたのことをまだ思い出せないけど、でもあなたのことが好きなのは本当よ。あなたから離れたくない」


 アリナは俺の手に触れようと手を伸ばした。

 しかし俺が喋ったことで触れる寸前に止まった。


「夏休みが終わる頃に返事をする。約束だ」

「……本当に?」

「あぁ。絶対に伝える。今回ばかりは冗談じゃない」

「ありがとう。ずっと待っているわ」


 手を引っ込め、アリナは鞄を肩にかけた。

 もう自分が何に執着しているのかわからなくなってきた。記憶、記憶、記憶って、俺はそれに縛られすぎだ。

 でもアリナと約束したからには決着させる。最後の夏は長くなりそうだった。

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