第52話 榊木家の動乱
あのアリナの顔が頭にこびりついた。アリナの異変はあの瞬間だけだった。今はいつもと変わらぬ表情の乏しい彼女に戻っているが見間違いではなかった。
女子3人に電車の座席を譲り、俺はつり革を掴んで突っ立っている。
駅を出て徒歩5分の距離に位置する我が家。立地的には最高だがこの短距離が緊張を煽った。心の準備が十分に出来ていないのにもう目前だ。
たまに妹が友だちを連れてくるから他人を入れること自体に抵抗があるわけではないが、同級生の異性を家に連れ込むのは別問題だ。しかも2人も。1人の方がまずいかもしれないがもうこの際変わらん。
そんなわけで榊木家に到着した。お願いだから両親とも不在でありますように。
「ただいまー。帰ったよー」
宇銀が一番乗りで家に入った。
「おかえりなさい。ちゃんと初詣行ってきた? あれ……?」
母が降臨し、俺の死が確定した。賽銭の時にもう少し金額を増やせばよかったと今になって後悔した。
「兄ちゃんの同級生! 鶴さんとアリナさん! どこもお店が混雑してたからうちに呼んだんだー」
「2人共可愛くてびっくり。彗ったらいつの間に……」
続きを読者の想像におまかせする手法はやめてくれ。激怒する女が1名いるんです。
「お邪魔します。はじめまして、二渡鶴と申します。彗くんとは同じクラスメイトです。お正月に突然申し訳ありません」
ぺこりと腰を折って自己紹介する鶴。それを見た母は慌ててお辞儀を返した。息子と娘がしっかりとした礼儀をわきまえている人間ではないから、この作法に驚いているのだろう。
「わ、私は日羽アリナと申します。あの……榊木くんとは、えと、何でしょう?」
なぜ緊張している。いつものキャラはどうした。
『日羽アリナ。こいつとは主人と奴隷の関係かしら?』
みたいな辛辣極まりない台詞を社交辞令のように吐き捨てるところだろ。どうしてモジモジしているのだ。それに「榊木くん」って何だよ。人名を使うなんてどうした。ちょっとドキッとしたわ。
「こいつとは委員会が同じなんだ」
口篭るアリナを見かねて俺は助け舟を出した。委員会には入っていないがごまかしとしては妥当だろう。
「そうなの。いつも彗がお世話になってます。うちの息子はこんなだから迷惑かけてばっかりだと思うけど仲良くしてやってください」
こんなだとはなんだ、こんなとは。
宇銀、何か母上に言い返してやれ。
「早くあがろーよ。リビング使ってもいい?」
「どうぞ。お茶とお菓子用意するからあがってて」
ダメだこりゃ。
宇銀は2人をリビングへと誘導した。しかし俺はリビングには行かず、父の部屋に向かった。
「入るよ」
「はい」
寡黙な父はよく自室にいる。父の部屋に来たのは警告するためだ。
「父さん。今リビングがヤバイ」
「なんで」
「異世界状態だから。とにかく今は部屋から出ない方がいい」
「……よくわかんないな」
「無理もない。わかってほしいのは今リビングがヤバイってことだけだから。なるべく来ない方がいい」
「……気をつける」
よし、注意喚起はオッケーだ。寡黙な父でも鶴とアリナを見たら腰を抜かすだろう。さらに宇銀の友達ではなく、俺の同級生とまで知ってしまったら目玉を落っことしてしまうだろう。
自室へと戻り、コートを脱いでラフな格好に戻る。部屋を出る前に一旦ざっと見回した。やつらが侵入してきても、指摘されてドギマギするモノが無いか確認した。よし、何も無い。健全だ。
リビングは本当に異世界だった。
母、宇銀、アリナ、鶴の4人がコタツを囲んで談笑している。銭湯の女湯に足を踏み入れた時の血の気が引く感覚と似ていた。入ったことないけど。
この円には加わりたくない。何事も無かったように俺は回れ右した。
「あ、兄ちゃんやっときた」
「ゆっくりしてってください、お嬢さん方。じゃ」
「逃げちゃダメ」
「逃げてもいい時もある。今がその時だ」
「ねえお母さん。今日からトマトジュース買うのやめようよ」
「はいはいはい。ここにいることにします」
宇銀は残酷な発言をさらっと投下するから油断ならない。今回の脅しは命に関わるものだ。彼女は分かっているのだろうか。トマトジュース禁止は人間たちでいう酸素と水分の摂取禁止と同義だ。
コタツには入れないためソファーに寝転がった。この空間における俺の居場所はソファーしかなかった。
「兄ちゃん。だらしないよ」
「家くらいだらしなくさせてくれ」
「こら、彗。鶴ちゃんとアリナちゃんの前で恥ずかしいでしょ」
「大丈夫大丈夫。俺がこういう人間だって知ってるから」
「お兄ちゃんじゃなくてお母さんが恥ずかしいの。ごめんね、こんな息子で」
「あはは。いえいえ〜知ってますから〜」
鶴がヘラヘラ笑う。
俺に味方はいなかった。孤独だった。
「うちの息子は学校でどうしてるの? 変なことしてない?」
「彗くんはですねー。うーん、どう思う?」
悪意ある目で鶴はアリナにふった。
「えっ、榊木くんは、その……目立ってる、と思います」
「へえ。どんな風に目立ってるの?」
「お、面白いことをよく話す人……みたいな感じです」
「そうなの。どうなの、お兄ちゃん」
「いや、そいつよりは目立っていない」
「黙って」
素のアリナに突然切り替わる。ビビってソファーから地球の底まで落ちるかと思ったわ。
「アリナちゃんは将来女優さんになりそうね。男の子からモテるでしょ? モテモテじゃない?」
母上やめてくれ。俺は40代の母の恋バナとか聞きたくない。息子の前ではやめてください。肉親の恋愛トークとか本当に嫌だ。
「いっ、いえ! 私なんかモテないです」
「うっそ〜! ここだけの話だからオバサンに教えてよ〜」
母上、あなたの青春は30年前に終わっているんですよ。
「アリナ〜? なんで嘘つくの〜?」
「何のことかしら」
「告白されない週はないでしょ? アリナはアイドルだからね!」
「そ、そんなんじゃないわ!」
「えー? そうかなぁ?」
「そ、そうよ!」
俺はいい気味だと思いながらアリナの様子を観察した。どうやら彼女は俺の家にいると弱腰になって学校での強気な態度は取れなくなるようだ。
「じゃあ、もしかしてうちの息子もアリナちゃんに告白……」
耳元でヒソヒソとアリナに問いかける母上。
これはすっごーくめんどうなことになるよぉ。
「どうでしょうね?」
意味有り気な笑みを添えてアリナは母に答えた。
「えっ!? 本当に告っちゃったの!? 兄ちゃんどうなの!?」
宇銀がぐりんと首を回して俺に問いただした。
「してません。お母様、落ち着いてください。カフェインの過剰摂取に身に覚えは?」
「あら、本当に断言出来るのかしら?」
ドヤ顔はやめろ、アリナ。俺の話はやめろ。
「兄ちゃん馬鹿じゃないの!? アリナさんと付き合えるとでも思ってんの!? 可能性あると思ったなら100万回死んだほうがいいよ!? この身の程知らずの変質者! バカ! キモイ! トマト中毒! ゲボ!」
オーバーキルだからやめて。
「私はお似合いだと思うなぁ。ねぇアリナ?」
「ちょっと何言ってんのよ! こ、こんなやつと!」
「息子のお嫁さんに来てくれたら老後の心配も吹き飛ぶわぁ」
「うぅ……そうでしょうか……?」
「やめて母さん。榊木家がバカの集まりだと思われるから」
「バカは兄ちゃんだけだよ」
「最近バカに磨きがかかってきているお前に言われたくない」
母親が餅を焼きにリビングを出ていった。
俺は絶望した。この空間において唯一まともに近い人格である母がいなくなった。つまり鎖が外されたようなものである。動物園のすべての檻が解放されたのだ。
「彗とお母さん全然似てなくて驚いた。宇銀ちゃんがお母さん似なのかな?」
「そうですねぇ。お父さんかお母さんっていわれたらお母さん似ですね!」
「てっきりお母さんの方も彗みたいにイッちゃってるかと思ってた」
「お母さんとお父さんと私は常識人ですよ。兄ちゃんが異常なだけです。突然変異ってやつですね」
「うん。すっごく同意」
俺は目を閉じて、世界をシャットアウトした。ツッコミを入れたら負け、ツッコミを入れたら負け、と念じながら意識を夢の中に溶かす。辛い現実とはおさらばだ。来世は深海魚になりたいな。人間は近づいてこないからな。
微睡んできた。弛緩してゆく身体が最後の峠を越えて眠りに入る寸前で、リビングの音が全く聞こえなくなったことに違和感を覚えて目を開けた。
視界を開くと俺を3人が見下ろしていた。
「うおっ! なんだこのサイコホラー!」
「あはははは! 本気でビビってる!」
「あんたの寝顔はアメーバみたいね」
身の危険を感じた俺は逃亡を図った。
「おしっこ」
トイレに行く体で立ち上がった時、廊下に父上が現れた。
父はビクンッと震えて数秒硬直した。俺にはわかる。相当驚いている。
「……どうも」
ぼそっと呟き、そのまま廊下を進んでいった。
「えっ、今の彗のお父さん……?」
「そうだが」
鶴とアリナは顔を見合わせて首をかしげた。
「……あんたって突然変異?」
「あいにく蜘蛛の糸も爪も出せない」
「お父様の方があんた似だと思ってたものだから……」
「俺もわからん」
「と、とりあえずご挨拶しなきゃいけないわよね」
「お前うちに来てから緊張しすぎだろ。バグった人工知能みたいになってんぞ」
「う、うっさいばか! あんたうるさいのよ!」
「おめえの方が声デカくて鼓膜破れちまいそうだよ」
アリナは強がってみせているが説得力はなかった。まるでひよこだ。恐れる要素が一つもない。
「アリナさん、兄ちゃんの部屋行ってみます?」
「は? 何言ってんだ?」
宇銀の不意打ちに反射的に返した。
お兄ちゃんはここ1年で一番驚きました。大腸と小腸がお口から飛び出るかと思いました。
「えっ、でも……」
アリナは俺と宇銀をちらりと見る。行きたいオーラ出すな。そして鶴くんは爆笑するな。
「だって兄ちゃん、さっきから部屋に戻りたそうだからぁー」
「戻りたくない。死んでも戻りたくないからリビングで昔話でもしましょうよ、お嬢さん方」
「何か見せたくないものでもあるの?」
「ない。いっつもノックせずに無断で侵入してくるお前が一番分かってるだろ」
「ええ〜? そうかなあ?」
完全にハッタリだ。紳士の俺に隠すものは何も無い。興味をそそらせるためのドデカイ罠だ。引っかかるんじゃねえぞ、ギャルと問題児
「……行こうぜ?」
「なんだそのノリは」
鶴はウインクにサムズアップを添えてそういった。
アリナはというとモジモジと淑女の振る舞いを続けている。もしや彼女は男の子の家に入るのが初めてなのでは。だからさっきから腹立つくらいピュアな初々しさを醸し出しているのだろうか。
「あ、お父さん」
宇銀の一声に俺は振り返る。台所から自室へと戻る途中だろう。両手にワインボトルとグラスを持っている。
「……ごゆっくり」
一礼してぼそっと呟き、去っていった。
「ねぇ……やっぱ彗って突然変異でしょ」
「悔しいが親戚にもよく言われる……」
静まるリビング。
もじもじするアリナ。
難問に挑むような顔つきで俺を見つめる鶴。
俺の袖を引っ張って案内しようとする宇銀。
榊木家の平穏は今日破壊されたらしい。
「お餅焼けましたよー」
母上の陽気な声で一同童に返ってコタツへと戻った。
危機的状況はこうして回避された。
あくまで一時的だが。
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