第32話 日羽アリナ
私はいつもノートを持ち歩いている。
でも人には絶対見せられない。
このノートは私の証明であり、私の道しるべとなるとても大切なノートで、これをなくしたら私は耳を塞いでしゃがみこんでしまう。
始まりは色の爆発だった。
星雲のような色の爆発が私の目の中で起きた。
爆発以前の世界を知らないから私にとってそれは産声みたいなものだった。
自分がどこにいるのか、誰なのかもわからない。真夏の陽光で汗を垂らす女子高生が道路で立ち尽くしていた。登校中のようだった。
肩に提げていたバッグを恐る恐る開けて中身を確認しても私物には思えない。まるで万引きでもしてきたかのような気分になる。
スマホの顔認証が通って初めてこれが自分のものなんだと知った。私はまず自分を知ることから始めた。
名前、日羽アリナ。
住所は通販サイトのアカウント情報に記載されてあった。連絡先を覗いても名前から顔を思い浮かべられる人は誰もいなかった。お母さん、という大事な人の顔さえ。父の連絡先は見当たらなかった。
耐えがたい孤独感に私は押しつぶされ、逃げるように公園に入り、ベンチに座った。学校に行くなんて無理だ。
私は中学3年生で――日羽アリナ。
自宅を前にするとここが私の家だと感じた。
家の中の構造もなんとなくわかった。自室にもすんなり行けた。不思議でならなかった。まるで自分の身体が導いているようだった。
机の上にはノートがあった。「日羽アリナ」と表紙に綺麗な字体で書かれていた。勉強道具かと思って軽い気持ちで開いた。
表紙の裏にはまずこう書かれていた。
〈このノートに書き覚えがないのなら久しぶり。次のページから始まるのはあなたの歴史〉
はぁ、嫌だ。
こんなノートを書くのは男子だけだと思っていたから自分に失望した。恥ずかしくなる前に私は読むのをやめた。
お母さんはまだ帰って来ていなかった。仕事に出ているのだろう。
素顔は飾られていた写真でわかった。でも写真だけでどんな人か推し量るには厳しかった。それに私はどんな口調でお母さんに話しかけ、どんな態度を取るのか知らない。会っても訝しげな顔をされてしまう。
なるべく秘密にしたかった。
私の本能が母を心配させてはいけないと叫んでいる。
スマホの撮影した写真や動画を参照して『私』を見つけようとしたけれど私はいなかった。痺れを切らして私はあのノートをまた開いた。
数ページ読んで気分が悪くなった。
事細かに日羽アリナについて記されていたのだ。
身長、体重、視力、血液型、口調、声色、表情、立ち振る舞い、性格、人間関係、お気に入りの喫茶店、趣味。
私のステータスが洗いざらい記録されている。毎日何があったかも書かれていた。一日たりともサボっていない。 ノートは合計で10冊あり、約3年分だ。小学6年生後半から中学3年生の今日に至るまでの全記録がここに詰め込まれている。
私はまず近況の情報が載っている10冊目のノートに目を通した。中学2年生の夏から今日に至るまでが記されている。
時を忘れて私は自分の人生をなぞった。記録にはただ何が起こった、などの事象の詳細より、その時々の感情の方が細かく書かれていた。
私はとてもモテるそうだ。
一度洗面所で顔を洗いに行き、初めて自分の顔を見たときは「すごい美人」と言葉が漏れた。つい、まじまじと見つめてしまった。他人事のようだが紛れもなく私のことだ。
私に告白してきた人物の名前が並べられているページはおぞましかった。
経緯と結果と感想がご丁寧に添えてある。そして見事に全部断っている。そのきっぱりとしたスタンスは他人事のような感じだった。
そう、今の私のような感じだ。
これを書いたのは日羽アリナ自身ではあるが、私が書いたわけじゃない。第三者の視点で現にこの記録を読んでいる。
意外にも私は親近感がわいた。
世界でたった1人かと思っていたら私に似た境遇の子がこのノートの中にいたのだ。そして私だけのために存在している。
私はいじめられているとわかった。
原因は嫉妬だ。この件にさえ日羽アリナは客観的に書いている。動揺して字体がぶれていることもなく、つらつらと文字が走っていた。
日羽アリナは誰に対しても差別なく接する女の子だが、ある一線以上には踏み込まず踏み込ませない。
別にその立ち振る舞いが悪いわけではないが、その表面的な態度に腹を立てる輩がいたようだ。その輩がそう思ってしまうのはごく自然なことだからしょうがない。子どもは心の制御がうまくできないから。
日羽アリナはそういった人間臭い激情にのまれ、いじめの対象になったようだ。だが彼女が悲観しているような雰囲気はなかった。平静を装っているだけかもしれないがどこまでも客観的だった。
一通り目を通したところで我に返る。
そもそも私は何者なのだろう。
私は何もわからない。赤ん坊のようにゼロではないが繋がりがない。
でもこのノートは私宛だ。この日羽アリナは私の存在を知っている。でも私はつい数時間前に生まれたようなものなのに……なぜ?
私は彼女を知らないけど、彼女は私を知っている。
まるで記憶喪失の少女だ。
翌日、私は学校に通った。
お母さんとはノートに書かれているような振る舞いと口調を意識して接していたら特に不審がられるようなことはなかった。
とてもいい人だと思ったとともに、他人事のように考えてしまって自分を責めた。大切な血のつながった母親なのだからそんなことを言ってはいけない。
学校に通うということに恐怖がないわけではなかった。どれほど私は嫌われているのか、憎まれているのか。私は文字の上でしか知らない。文字の表現には限度がある。
1日を終え、陰口がひどいと判明した。
聞こえるか聞こえないか微妙な声量で私のそばで囁く。
「気取っちゃって」
それは私に言っているのではなく日羽アリナだというのは知っている。
気にしないと心に決めていたけれど腹が立った。正直、火山のごとく憤慨した。私の唯一の味方で、私が知るずっと前から私を支えようとしてきた日羽アリナを貶すような相手に対して、私は無感情は貫けなかった。
日羽アリナのために戦おうと思った。
私も日羽アリナだけど性格は真逆らしい。私は気が強くて口が悪い。ノートの日羽アリナは可愛げのある少女だが、そうは振る舞わない。彼女を守るために。
いつの日か私と交代する時のためにも私を貶めようとする人を徹底的に拒絶して、いざ人格が入れ替わった時、彼女が困らないようノートに書き記そう。
そう決めてから学校で私の評判はがらりと変わった。
ドSになったとか人が変わったとか。人が変わったのは本当だけど。
良い兆候だと思う。
あのままいじめられていたら彼女は自殺でもしていたと思う。あそこまで客観的に自分を見つめるのは異常だ。精神分離とか、そういう類の心理状態だと思う。だとしたらもう彼女は限界だったのだろう。現に私がいることがその証明になる。私たちは二重人格者なのだ。
それでもいじめ行為は散見された。女子のネットワークやコミュニティは恐ろしいもので、たちまち私への嫌がらせはヒートアップした。陰険としかいいようがないような地味なことばかりだ。机や靴の中に砂が入れられたり、上履きがなかったり。あとは無人扱い。
学校全員が敵というわけではなかった。男子からは熱烈なアイラブユーを貰うし、一定の女子は偏見なく接してくれた。コミュニティが違うんだと思う。
そうして数ヶ月が経過したある日、まる3日間、時間が飛んだ。タイムリープみたいだと思った。瞼を閉じ、次開いた時には景色が変わっていた。冷静に努めようとしても身体は震えがった。
私はすぐノートを開いた。予想通りもう1人の私が文章を残している。
〈もう死んでもいいかな〉
世界が崩壊するような恐怖に襲われた。
何があったのか私はすぐに調査した。時間はかからなかった。自分の弁当がぶん投げられたそうだ。そこまで過激なことは今までなかった。むしろ最近は沈静化していたのだ。私が強気になったから相手もつまらなくなったのだと思っていたのだが、どうやらあっちは我慢の限界に到達しただけだった。
立場をわきまえろとでも言いたいのだろうか。そう言いたいのならこう返そう。
「あなた、とても心が醜いわ」
そう私が堂々と言い放ったら主犯は呆気にとられていた。
私が今までずっと取り合っていなかったから直に話しかけられて動揺しているのだ。しかし相手も強気に出た。
「だからごめんって言ったじゃん。わざとぶつかったわけじゃないって」
私は思いっきり殴った。教室の時間が一瞬止まった。
離婚したお母さんは毎日私のために朝早く起きて弁当を作ってくれている。
一人娘のために、気弱な母は毎日必死に女手一つで働いている。娘の私を想って、疲れている時も微笑んで「いってらっしゃい」と私を見送る。
父親がいないことで私を不安にさせないよう常に気を使ってくれる優しいお母さんの弁当を、彼女はモノのように扱ったのだ。どれだけ悔しいか彼女にはわからないだろう。
リビングでうなだれるお母さん。
朝5時に欠伸をしながら支度をしているお母さん。
彼女は私のお母さんを知らない。無知は大罪だ。
中学校を卒業しても私の態度は依然として変わらない。
私を敵視していた輩はいなくなったけれど、人を信用することはできなくなっていた。世界で私の心を預けられるのはお母さんと日羽アリナだけだ。
高校に入学するとたちまち私の噂が囁かれた。中学時代のいじめの話ではなく、美人の1年生がいるという話題だった。
私は日羽アリナが続けてきたように告白されても振り、そしてキツイ台詞を言って追い払った。孤立することで気分が良くなるわけがない。けれど性格は治せない。もう――これが私なのだ。
くるべき日が来たというか、高校でもささやかないじめが訪れた。
私は一連の過去を、すべて他人事のようにしていることに気がついた。
中学時代で強烈な態度をとったのは、いじめの対象が私ではなく日羽アリナに向けたものだと思いこんでいたからだ。彼女を受け皿にしている自分の醜さに腹が立った。
同時に、日羽アリナも私を受け皿にしていたのではないかとも思うようにもなった。嫌なことをもう1人の私に押しつけたい、矛先を変えたい、という願いが私を創造したのだと。
しかし不思議と恨みはしなかった。
そういうことがあったから私がいる。そう思える。
でもいつかは丸くならないとダメだなぁという意志はあった。私は不要の存在にならないといけないと自覚していたから、せめて環境作りくらいはしないといけない。でも方法がなかった。また高校という箱の人間関係に閉じこめられたのだから。
悩んでいたところに予兆もなく赤草先生が現れた。
「アリナさん、いつから?」
人格が入れ替わっていた時の私を先生に見られていたらしい。
ある日、私は先生に本音を話した。
もう1人の私が出てくるようになるには私が変わらないといけない、だから手を貸してほしい、そうするにはどうすればいいのか、とか。
もう滅茶苦茶なことを言っていたと思う。なにせ私の秘密を話したのは赤草先生が初めてだったから、止まらず全部吐き出した。
榊木彗という男子生徒が現れた。
その日、私は酷く気分が悪かった。私のスカートが破られていたのだ。明らかに自然に破れたものではなく、繊維が一直線に切られていた。誰かは知らないけれど敵はまだまだ私に構ってくれようと必死らしい。
軽いフットワークで近づいてきたこの男を、私は「またノートの告白一覧に書くために本名を調べないといけないじゃない」と辟易したのだが、予想外なことを言った。
「お前を更生させるためなんだよ、毒舌薔薇」
更生。
正直なところ、私に転機が訪れたと思った。
何かがこれから変わる。そう確信した。
榊木彗は私に似て変わった人だった。
それでいて私に面白いものを見せてくれる新鮮で刺激的な人でもあった。
きっと彼なら日羽アリナも安らげる。
私はまた客観的にそう分析した。
〈わたしがいなくなるまで、あいつと過ごしてもいいのかな。どう思う?〉
私はそう記して、ノートを閉じた。
今日はやっと文化祭が開催される。お母さんのドレスを借りてファッションショーに出場するのだから優勝しないといけない。お母さんに見せてあげたかったけど写真で満足してもらおう。
あいつは本当に来ないのかな。
靴を履いて忘れ物がないかチェックする。
つま先を立て、履き心地を確かめて、トントンと地面を突き、さりげなくお母さんに家を出る合図を送る。お母さんのスリッパをこすらせる音がして、私はいつも心穏やかになる。とても好きな音だ。
お母さんが台所から出てきた。エプロンで手を拭きながらいつもの優しい微笑みで。
「いってらっしゃい、アリナ」
「うん、行ってきます」
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