愛と依存症のカルマ

白宮安海

愛と依存症のカルマ

「失恋につける薬は無い」アルコールで焦げた喉から、説得力のない声色で多部真たべまことは言った。細身の、紺色の上質なスーツに、左手には銀のベルトのロレックスが光る。しかしこれらは全て安価で手に入れたものだという事は誰にも言わない。

 目の前の男はビールの泡で口ひげを作りながら笑った。多部と比べ、少し恰幅のいいこの男は高校の頃の同級生の島根という男で、昔からひょうきん者で性格は現在も健在。今は別の会社に務めているがこうやってたまに会っては、中身のない会話をしている。

 大人になるとそういったもんが大事だ。中身のない会話。頭をバカにする会話。

  「何だお前、振られたのか。元気出せよ。今日は俺が奢るから」

 しかしこの茶化した口調が、多部は今や気にいらないご様子で目も合わせずにジョッキを口に運んだ。

  「今回のは違うんだ」

 そう泣き言を発した。多部にとって、二十八にしてこれが初めての失恋であった。何故ならいつも、多部は振る側の世界にいる人間だった。そんな男が何故、敷居を跨いで振られる側になってしまったのか。島根はほとんど疑問だった。最初のうち、自分は痛いほど経験する失恋の痛手なために、多部のそれも特に大事に考えてはいなかったものの、ひょんな事を目の前にして見解がまるで変わった。

  多部の右手首に確かに、今まで見たことのない傷跡が数本入っている。この傷跡は間違いなく、自傷の跡だった。島根は前に、自分の娘が思春期の時にこの傷をつけていたのを見た事があった。だからそれは間違いなく、失恋のための自傷であった。

 そこまで死を考えるほど惚れてた女とは、よっぽどいい女なんだな。島根はそう思ったが、実際話を聞いてみるとどうも違う。はっきりとした物言いをすればビッチ。何故そんな女に惚れこんでしまったのか。

「彼女を本当に愛していたんだ」

 とうとう多部は、テーブルに額がくっつくほどに背中を丸めて肩を震わせてしまった。目の前の男は変わってしまった。悪魔に生気でも奪われてしまったかのように、前までの煌々と生き生きとしていた男はどこへやら。

「失恋につける薬は一つだけあるぞ」

「何だ、気休めを言うんじゃない。俺はもうあの子しか無理なんだ。俺は最低のクズだった。しかし、あの子がそんな俺を変えてくれたんだ。なのに、なのに」

 多部は喉を震わせていた。

 多部いわく。その子と別れてからというものの、自分以外の人間はまるっきり何を言っているのか分からず、通行人や、テレビの中の人間、全員が宇宙語を喋っているように聞こえるらしい。もしくは犬語。わんわんと鳴いていてまるで日本語が通じやしない。

 アルコールを飲めば少しはマシになるが、夜一人になると頭の中でごちゃごちゃと声が騒ぎ出し、耐えられず、思わず自分の首を絞めたり、パソコンのコードを引き抜いて何と首吊り自殺まで図った。

  馬鹿な真似をした。それからも首を吊ろうとしたり、家庭用の風呂洗剤を口にしたりしてどうにか死のうと試みたが、元々の臆病風は死への切符を渡してはくれなかった。

 どっかの学者は、失恋はある種、麻薬を絶った時の脳に近いのだと言っていた。

 それは即ち、犯罪者が人を殺すとき、パンケーキを焼いているのと、それと同じ類の脳内エラーなのだ。

「失恋をしたのなら、他人に話すことだ。俺に聞かせてみろ。どんな女だった?」

  多部はほろ苦い唾を飲み込み、話し始めた。


 最高の女だった。だが我儘で、下品で。馬鹿で。器量が狭く、世間知らずだった。だが、そこが究極に愛しかった。俺がいないとダメだと思わせる女だった。おまけに床上手ときた。その子と出会って二週間目で俺の部屋で同棲を始めたんだが、まあ寝てる間に咥えてくるわ、跨って腰振ってくるわで天国だったよ。男の好きなことをよく知っていた。ベッドの上では媚びて、征服欲をとことん満たしてくれる。

  顔は中の上くらいで愛嬌がよく、いつも堂々と笑う子だったな。年齢は三十になったばかりだったが、あれは二十代でもまだ通用するだろう。だけどいつも俺がいなくても平気って面をしてて、そこがまた男の本能をくすぐるというか、分かるだろ?

  俺は今までそれはもう、退屈な女達と付き合ってきたと思う。いや、その時は大事に思っていたさ。俺は誰一人だって粗末に扱った事なんてない。記念日だってきちんと覚えるし、デートだって月に二回はした。連絡は毎日とってたし、愛の言葉だって惜し気もなく与えた。まあ確かに、同時進行で付き合うこともあったさ。でも一度たりとも気持ちを分散させた事なんてない。一人一人、実に全員に誠実だった。

  俺は相手が何を望んでいる事を察していた。何となく、女の空気っていうのが分かるんだよ。大事にされたい空気。優しくされたい空気。だが、その子は違った。まるっきり俺には何も望んでいないくせに、俺は全て与えたい気になって、でも俺の与えるものはその子の合格点に満たさなくては要らないと一蹴される。

  衝撃だった。その子は初めて俺を否定してきた女だった。俺の生き方を説教するし、だがその説教というのが、悔しいほど的を得ているんだ。

 その子から見た俺はどうやら、自己愛の塊で、自信家に見せているけど本当は弱くて情けない男。

  ある日その子は俺に言った事がある。

「あなたなんか嫌い」

 さっきも言った通り、俺は付き合った女の子には全員魂を捧げるレベルで向き合ってきたから、そんな事を言われた事がなかった。

 おまけに気分屋で、同棲とは名ばかり、その子は気まぐれに家を出たり入ったりで、実際のところ、溜まった欲を発散するだけで次にはハイさよならと猫のように消えてしまう。俺は指輪も渡したし、彼女の為に真剣に贈り物を選んだ。サボテンの名前だって真剣に一緒に考えた。


  島根は串かつを食べながら耳を傾けていた。

「そんな女のどこに惚れたんだ。お前、振り回されてただけなんじゃないのか」

 多部は言った。

「嫌いだった。大嫌いだった。何度別れようと思ったことか。けど、彼女は何というか、上手かったんだろうな。天然な小悪魔とでも言おうか。女と母親の二極性を持って、俺の本性を見透かしていた気がする。それに突拍子もないことをして俺を驚かせる」

「例えば?」

「かいわれの種を買ってきて育て始めたり、小さいサボテンを育てて名前をつけたり。とにかく馬鹿で可愛い女だったよ」

「そうか。分かったぞ。お前にとって特別だったんだなその子は」

「特別か、確かに。いや、あるいは依存していたのかもしれない」

「依存か。で、何で終わっちまったんだ」

「俺から言った。彼女の前だと自信がなくなるんだ。どうしようもなく自分も、向こうも嫌いになる。因果応報なのかもな」

「お前が因果応報になるんなら、恋愛してる奴は皆そういう事になるぞ。もう一杯飲め」

「その子が不倫をしてた事を教えて貰ったんだよ。三人でどうかと誘われて、俺だけ真剣だったのかと」

 多部は大きな溜息を吐いて、ジョッキの底に残ったビールを喉に流し込んだ。

「俺はこれから大真面目に生きるぞ!誠実に、誰のことも裏切らない男に」

「おいおい、お前一人だけ誠実になるなよ。今夜はいい女がいる店に行くぞ。今嫁は実家にいるんだ。俺と一緒にカルマを増やそうじゃないか」

 店の外でパトカーが鳴り響き、多部は口を走らせた。

「俺達は罪人だ!どうか捕まえてくれ」

 多部は今日初めての笑い声を上げた。

 それから頭をバカにする会話は、深夜二時近くまで続いた。

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