第4話 うわさ話

「でもさ、そんなに難しい棒針編みのセーターを編める副社長は、すっごいよね!!」

 スマホのディスプレイから目を上げた茉祐の目がキラキラしている。私はどきっとした。

「ま、まあ確かに……」

「副社長ってさ、オートクチュールが大好きなんだって。それで、自分でお気に入りのニットを編むって、やっぱり才能がある人はすごいわ~」

 私は下を向いて黙々とオーダーを受けた「商品」であるかぎ針編みのニットタイを編み始めたが、茉祐は全く気に留めないで、ニット好き、そして英国通で有名な結瀬(ゆせ)副社長について語りだす。

「副社長のニット、着てみたいよね。遠くから見ただけで、手触りがよさそうな毛糸で、模様もとてもきれいで……。結もとっても編み物うまいけれど、その結が難しいっていう棒針編みをあんなにこなしちゃう副社長、素敵……。そして、あんなにイギリス好きで、英語ペラペラで、法学部出身で元官僚だったのを蹴ってうちの会社の副社長になったなんて、すごすぎるよね。才能って、ある人のところには固まってあるものなのね。副社長は二物どころか何物も持ってるわ。しかもチェロがうまくて……セレブリティってこのことよね。落ちては……いないのが残念」

 茉祐は、まだ「彼氏が落ちていないか拾得物係へ」という私の冗談を引きずっているようだ。

 私は編みながら手汗を感じていた。久しぶりの太めのかぎ針が滑り、秋冬コレクション新作の毛糸がちょっぴりチクチクする。その感覚が、私の心の中の副社長へのあこがれをかきたてて、針のように刺激する。


 そう、だれにも言えないことなのだけれど、結瀬副社長は私のあこがれだ。最初は、突然若くして副社長のいすに座ったエリートとして、あこがれというよりは尊敬のまなざしで見つめていた。それが、副社長の写真が載った社報を見て、彼が着ていたお手製だというニットに目を奪われてから、自分ができない棒針編みをも巧みにこなす彼にひかれはじめた。

 でも、彼はほんもののセレブリティ、お嬢様でもなく、一般事務で入社した平凡なOLの私にとっては高嶺の花だ。それで、私はじっと思いを温め続けてきた。寒い冬の日に、編んだばかりのカラフルな編み込み手袋にぬくもりを感じるような、そんな淡い想い。誰も知らない、私だけの宝物のような恋……。私は、もう自分の恋人にしたかのように副社長の美点を話し続ける茉祐の声も、だんだんと耳に入らなくなってきた。そして、このオーダーのために連日酷使した目を少し休めようと、ふっと上を見上げた。

 手の中に納まる毛糸のぬくもり。オリジナルでアラン風に編んでいるニットタイを、早くお客様に届けなくては。これは私が受注した初めてのオーダーだ。特に丁寧に仕上げて届けたい。……いつか、副社長のために編んでみたいな。私のことなんて、あなたは知らないけれど、私は静かにあなたを見つめている。恋心を、さやかな秋の月のようなあこがれを、ひとりで編み続けている。


 夏の終わりの太陽は、少しずつ光の美しさを秋の月に譲っている。私は、昼下がりの青空の向こうに、まだ見えない中秋の満月の影を探していた。

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