コーヒーを奢ってください
販売価格ちょうど千円。それが私のつけた値段。
ここから手数料と送料が引かれて、残るのは2百円。
この2百円のために私は丁寧にそれを袋に入れ、箱につめる。日曜日は近くの郵便局が使えないから街中の大きな郵便局まで自転車をこぐ。
往復で、所要1時間。
それはちょっと珍しいぬいぐるみ。
大昔に懸賞で当てた品で、もったいなくてずっと大事にしまっていた。電池を入れたら陽気なおしゃべりをするのを、売ろうと決めたあの日に初めて聞いた。
けなげな声に売るのが惜しくなったのが本音だった。だけど、あと半年もせずに遠くへ旅立つ私は、部屋の中を空っぽにしないといけなかった。
旅立つことが決まってから、たくさんのものを捨てたくさんのものを譲った。
その中で捨てるには惜しいけれど引き取り手のなかったものが写真に撮られ、顔の見えぬ相手に売られることになった。
商売の仕方を教えてくれたのは、その道にくわしい友人。
最初はおっかなびっくりだった私もすぐに慣れて、売れる工夫をしてみたり、これも売れるかなと商品を増やしたりして楽しむようになった。
なにより処分が第一目的だったから、価格設定は安め。私の商品はどんどん売れた。
けれど、そのぬいぐるみだけはなかなか売れなかった。たくさんの人がチェックしていたけれど、誰も購入ボタンを押してくれなかった。
きっと、珍しくても高いと感じていたのだろう。
――お値下げできますか?
時折、そう話しかけられた。だけど私は断った。
値切ってくるような相手にこのぬいぐるみは託せない、そう思っていた。
だけど、そうこうしているうちに売れるものはなくなっていって、ぬいぐるみだけが残りそうな雰囲気になっていた。
手数料と送料を引いて、手取り2百円。それを減らしさえすれば買ってくれる人がいるのだろう。
2百円。いつも買っている缶コーヒー1本とお釣り数十円分。
――不躾なお願いですが、お値下げできませんか?
ああ、不躾だと自覚しているのならやめればいいのに。不躾だと思っていないから、大層なことでないお願いをするのだ。
あなたは喉が乾いてもいないのに「不躾なお願いですがコーヒーを奢ってください」と言うのか?
――7百円で即決します。どうですか?
それは赤字だし、私には即決できない。
画面の向こうの素性も知らぬ人よ、あなたにとっての千円は私にとっての二百円なのだ。
どうか、コーヒー一杯だと思って、私に奢ってくれないか?
たくさんのものを安く売ってきた。5万円で買ったバッグは、1度しか使わなかったのに3千円だ。それだって「3千円にしてください、お願いします」と言われてそうした。
そして何度か交渉を経験した私はわかってきている。値下げを要求する人たちは「値下がること」に価値をいだき、明確な希望価格など持っていないのだということを。たとえ1円でもいいから値下げして欲しいのだということを。そしてできれば最大限の値下げをして欲しいのだということを。
そんな中、私はこのぬいぐるみの値下げにだけは応じられないでいる。たった十円でも下げると言えば買われるかもしれないのに。
収益が多い中の値引きなら応じられるのか? 思い入れがなければ応じられるのか?
わからない。ただ気分が乗らないのだ。
――購入したいです。いくらまでなら下げられますか?
お願いです、コーヒーを奢ってください。
ああ、だけど――誰かにコーヒーを奢ってやったと思って値下げしてみようか?
少し考えて私はメッセージを返す。
「これ以上、値下げする気持ちはありません」
いつもは断るときに「申し訳ありません」とつけていた。
だけど「申し訳ない」ってなんだろう? そう思ってやめた。
値下げできないことは、卑屈になって謝らないといけないことなのかわからなくなったのだ。ご期待に添えなくて申し訳ない? 期待されたら何にでも応じるのが正なのか?
ぬいぐるみは売れないかもしれない。
最後のひとつとして残ったのなら、いっそ連れていこう。そして道中で適当なかわいい子供を見つけて渡してやろう。あの陽気なおしゃべりを聞いたら、どんな子供だって目を輝かせるはずだ。
そう自分に言い聞かせたとき、ぬいぐるみが売れた。
買ったのは最後にメッセージをくれた人だった。
私はメッセージを返す。
「ご購入ありがとうございます」
安心と安堵と、達成感と喪失感と。ごちゃまぜになって心の中でつぶやく。
なーんだ、値下げしないでも買ってくれるんだ?
自転車のカゴで傷つかないよう、ぬいぐるみが入った箱をさらに厚手の布でくるんで、私はペダルを踏む。
街中の大きな郵便局まで往復で、所要1時間。
時給二百円。
帰りにいつもの缶コーヒーを買おう、私は胸の中でにやける。
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