第三章 サンリオンへの旅路

1 時計塔屋敷の朝



 暗い…。

 目を開いているのか、閉じているのか、分からないほどの暗闇。それに体の感覚もない。


 ……俺、死んだのか?


 …遠くでメリアルドが泣いてる。

 泣くな…、お前にはティーダがいるじゃないか。


 俺なんかが居なくたって、お前は…。




「…さん、……ティードさん」

 誰かの呼ぶ声、聞いた事ある声だ、柔らかいのに芯のあるはっきりとした声…。


 誰だったか…。


「ティードさん!」

 強い語調で呼ばれて俺の意識は唐突に覚醒した。

 目の前にティエラさんの不安そうな顔がある。

「…あ、…ん? …ティエラ…さん?」

 自分の置かれている状況が把握出来ずに、俺は戸惑いがちに彼女に答えた。それにティエラさんは安堵したように一息つくと、微笑みを浮かべる。

「大丈夫のようですね、痛みはありますか?」

「……いや、ない。…大丈夫だと…思う」

 どれくらい寝ていたのか、重い体を起こしながら彼女に答えると、ティエラさんは体を起こすのを手伝ってくれた。

 彼女の髪から不意に香る懐かしい匂い、どこかで嗅いだ気がして心臓が跳ねた。どこでその匂いに触れたのか思い出せないが、なぜか安心する。


 例えるなら、包み込むような甘い香りだ…。


「…どうかしました?」

 体を起こしてぼんやりしてる俺に、ティエラさんは怪訝な顔でこちらの様子を窺っている。それに「…いや、何でもない」と答えて、自分の状況を確認する。


 体に痛みはない、おそらく、昨夜の戦闘の後、ティーダが魔法か【ヒーリング・ポーション】で治してくれたんだろう。寝間着のシャツを捲ってみると、アザービーストに噛まれた筈の脇腹には噛まれた後はあるものの、ちゃんと塞がってるし、歯形のあとも目立たないくらいのものだ。


「……お食事は? 食べられそう?」

 取り敢えず、戸惑ったまま自分の状況確認をしている俺を横目に、ティエラさんは部屋の隅に据えられたテーブルの上から、パンとスープ皿を乗せた足付きの盆を持って来て、ベッドのサイドテーブルの上に置いた。

 何かのポタージュなのか、とても良い香りがして、その匂いに食欲が刺激されて、俺は思わず「食うよ、腹減った!」と喰い気味に返してしまった。

「ふふっ、食欲があるなら大丈夫ね」

「ああ、ありがとう」

 俺の反応に苦笑いしながらティエラさんは足付きの盆を、俺の太腿を跨ぐように置いて、俺はスープを一口飲んだ。

 適度な塩気に、芋かトウモロコシをすりつぶしたのか、少しざらつきの残る食感だが、それが喉越し良くて、とても旨いポタージュだ。


 ……染みる…。


 空腹と言う事もあるが、体全体に染み渡るような気がして、心底、安心して、思わず深いため息が洩れた。

「……お口に合ったみたいね、良かった」

「あぁ、アンタの作る飯は旨いよ」

「ふふっ、ありがとう」

「…そういや、俺…どうやってここに?」

 自分でも思いもしない勢いで食事を平らげて、周りを良く見れば見覚えのある部屋だ。

 清潔な寝具に、明るい室内。目の前には二段ベッド。一昨日、休憩させて貰った時計塔屋敷の五号室だった。

「昨夜、ティーダさんに担がれて来られた時には驚いたけど、ギルド上の宿屋じゃティードさんがゆっくり休めないから、と仰って、昨夜からここの住人ですよ」

「え、…じゃぁ、この部屋?」

「ええ、取りあえず、一ヶ月の契約ですけど」

 笑顔で答えたティエラさんは『冒険者の住人』が増えて嬉しいようだ。


 冒険者用アパートメントなんて謳っているが、実際に住んでるのは冒険者じゃない連中らしいから、体裁が保てて管理人としては嬉しいんだろう。


「…ティーダは? あいつはどこへ行ったんだ?」

 姿が見えない兄貴の行方を問いかけると、ティエラさんがニコッと笑って、「ティーダさんなら…」と、俺に答えようとした時、部屋の扉が勢い良く開いて、ティーダと見覚えのない少年が入って来た。

「ティエラ姉ちゃん、ただいま〜」

「お帰りなさい、ピーター君、ティーダさん」

「…只今、戻りました」

 両腕に大きな袋を抱えて帰って来たティーダは、買い物袋をテーブルの上に置いてこちらを見ると、起き上がり食事を終えた俺を見て、安堵したように笑った。

「……目が覚めたんだな、よかった」

「…あぁ、…心配かけた」

 ティーダの放った言葉が妙に静かで落ち着き払ってるのに、その声音は微妙な揺れがあって、それがヤツの感情の『揺れ』だと分かった。心底、俺の心配をしてくれている。と同時に、俺を守り切れなかった、と自責の念が滲んでいるのが分かった。

 ヤツの耳が少し垂れて、頭を小さく振ると「いや、オレがもっとしっかりしてれば…」と、自分を責めるような事を言い出すから、その言葉に俺は苛ついて素っ気なく答える。

「…お前の責任じゃねぇよ、俺が未熟なだけだ」

「しかし…」

「うるせぇよ、俺の事で自分を責めんな、…もう、子供じゃねぇよ」

「……そうだな、うん。…すまん」

 突き放すように返した俺の言葉に、ティーダはハッとしたように顔を上げて、俺を見返し少し寂しそうに笑った。

 ヤツにとっては、俺は未だに『手のかかる弟』なんだろう。妹のメリアルドと同じ、なんだ。

 親父から託された『弟』だから。


 分かってた事だが、それが悔しいし、納得出来ねぇ。

 俺は、一人で立てるのに。


 ……いい加減、子供扱いはやめてくれ。


「おまえがティーダの弟?」

 沈みきった場の空気を和ませるわけでもなく、ティーダと一緒に部屋に入って来た少年がベッドに上がって来て、俺の足下に座り、顔を覗き込んで来た。

 無遠慮なその態度に、俺はそいつを睨み返したんだが、怯まない。

 頭に小さなツノが生えてるナイトメアの俺が睨めば、大抵の子供は怖がって泣き出すか、大人の影に隠れて様子を窺うんだが、目の前の坊主は睨む俺の目を真っ直ぐ見詰め返してくる。


 …なんだ、この妙に肝の座ったガキは。


「……そうだが?」

「へぇ〜、にてないなぁ〜。かみの色がぜんぜんちがうし、目が赤い!」

 不躾なガキに俺は露骨に不愉快を表情に乗せた。目の前の坊主はそんな事など構わず、俺の濃紺の髪を引っ張る。

 痛くはないが、鬱陶しいからガキに答えながら、小さな手を払う。

「…血の繋がりは無いねぇからな、……で? お前はなんなんだ?」

「おれ? おれはティーダのだぞ!」

「は? ……なんだそれ」

 小馬鹿にしたように笑って答えると、ガキの表情が瞬間的に曇った。拗ねた不機嫌なそれだ。その様子を見ていたティエラさんが横から口を挟んでくる。

「ふふっ、ピーター君は昨夜ティーダさんとお友達になったのよね?」

「そうだよ! おれのにしてやったんだ、な!」

 助け舟とでも思ったのか、ティエラさんの言葉に機嫌良く答えて、ティーダの方を見て得意げに笑うと、ティーダはピーターの言葉を肯定した。


 基本的に、女子供には優しいヤツなんだ。


「ああ、そうだな」

「おれ、ピーター! おまえは?」

「……お前呼ばわりされる覚えはねぇな」

「おい、ティーダ。おまえの弟はあいさつもできないのか?」

 呆れたようにティーダを顧みてそんな事を言いやがるから、俺は反射的に言い返してしまった。

「はぁッ!? 挨拶ぐらい出来るわ!」

「じゃぁ、名のれよ! おれは名のったぞ!!」

 至極、真っ当な事を言い返されて、俺はぐうの音も出ない。

 俺とピーターのやり取りをティーダとティエラさんはニコニコと笑いながら見守っている。ティーダに至っては昔の俺を思い出しているのか、頬をだらしなく緩めてやがる。


 いつまでも保護者目線で俺を見やがって…。


 反論の余地もない正論に俺は渋々と答えた。

「……ティード」

 答えた俺に目の前のガキは勝ち誇ったようにニヤリと笑う。


 ……チッ、こまっしゃくれたガキだな。


「よし! ティードも今日からおれのこぶんだからな!」

 そう言ってピーターは得意げと満足げが入り交じった会心の笑顔を浮かべて、ベッドから飛び降りるとティーダの足下に駆け寄って、ヤツの脚に抱きついた。

 それに答えてティーダはニコニコ顔でピーターの頭をわしゃわしゃと撫で回す。親分のくせに子供扱いされるのは良いんだな、ピーターは満足そうに笑ってやがる。

 ティーダの方は父性がだだ漏れだ。…そうだ、こいつは元々が強いんだった。


 随分と懐かれたみたいだな、ぱっと見は完全に親子だぞ……。


「さぁさぁ、ピーター君そろそろお部屋に戻って。ティーダさん達はお出掛けしなくちゃいけないんだから」

「え〜……」

 ティエラさんに促されると、ピーターは思いっきり不満を表してティーダの脚にしがみついた。離れたくない、と意思表示するピーターの肩を諭すようにティエラさんが撫でると、ティーダも脚を離すように、と、ピーターの頭を軽く撫でた。

 優しくはあるんだが、どこか反論を許さないティーダの微笑みに、ピーターは泣きそうな表情を浮かべて、堪らず俯いた。


 日常的に淋しい思いをしてるんだろうか…。

 頑ななピーターの姿が昔の俺に重なって、こっちまで淋しいような…、気がした。


 黙り込んだピーターは、口を尖らせ、寂しさと不満とが混ざった表情をしていて、久々に帰ってきた父親と離れることを拒んでる子供のように見える。そんな様子を見て、たったの一晩で何をしたらあんなにも懐かれるんだろう…、と、俺は思った。

 大好きな二人に促されて、ピーターは渋々と従う、絞り出した言葉が寂しそうだ。

「……わかったよ」

 そんなピーターに対して、ティーダはしゃがんで目線をあいつに合わせると、拗ねる子供を優しく諭す父親のように問いかけた。

「暫くはここに住むいるから、また、遊んでくれよ?」

「うん! 気をつけて、行ってこいよ!」

 ティーダの問いかけに満面の笑みで答えたピーターは『次』の約束が貰えて嬉しそうだ。そうして、ティエラさんに手を引かれて部屋を出て行った。


 五号室に残された俺とティーダは、何となく気まずい空気感のままだった。お互い…というよりは、ヤツの方が俺をどう扱っていいのか戸惑ってるようだった。

 俺が仕向けた事だが、今まで『弟』だと思ってたヤツが『対等に扱え』って無言の圧をかけたのだから、まぁ、戸惑うのも無理ないか。

 重苦しい空気に耐えきれず、俺の方から口火を切った。

「……随分と懐かれてたな」

「え? …あぁ、昨夜ここに来た時に、ちょっとな」

「?……」

 言葉を濁したティーダに俺は疑問符を面に浮かべる。それを見取ってティーダが昨夜の顛末を話し出した。


 要約すると、血塗れの俺を担ぎ込んだティーダを最初は怖がったらしいんだが、ティエラさんと一緒に俺を介抱する姿に、どうやら『父親』の姿を見たらしく、また、その時にピーターの苦手な鼠が部屋に入り込んで来て、その鼠を優しく追い払った姿に『カッコいい冒険者ヒーロー』の印象も乗っかって、懐かれたと言う訳らしい。

 ピーターは娼婦をやってる母親と二人暮らしで、父親は居ないらしい。母親の仕事柄、夜はティエラさんと過ごすことが多いようだ。


 …なるほどな、『父親の存在』というものに飢えてるのか。その割りに、ティーダは『子分扱い』なんだな……。


「これ、ティエラさんが直してくれたぞ」

 そう言って、ティーダが俺のジャケットを投げ渡して来た。ベッドに座ったままそれを受け取る。昨日のアザービーストに噛まれて空いた穴を修繕してくれたらしい。


 裁縫はあまり得意じゃないみたいだが、とても丁寧に直してくれた事は分かった。後で礼を言っておかないとな。


 受け取ったジャケットを見ている俺を見下ろして、矢継ぎ早にティーダが買って来たばかりの衣服を投げ寄越す。

「…それから、これはお前の着替えな、昨日履いてたのは血で汚れて履けなくなったから」

「……あぁ、…悪い」

 受け取ったジャケットの上にバサバサと新しいズボンとシャツ、それに下着が何枚か放り込まれて、それらを見ると、俺の趣味にあったチョイスで、思わず俺は笑ってしまった。


 ほんと、こういう細かいとこ、敵わねぇよ。……兄貴こいつには。


「…今日は休んでいてもいいんだぞ? 船乗り協会へはオレだけで行ってもいいし」

 買って来た日用品を袋から出しながら、手際良く所定の位置へ配置して行く。

 それを見ながら、俺はシングルベッドをティーダに明け渡すべく立ち上がると、受け取った衣服類を二段ベッドの下の段に放り込んで、ティーダに「いや、大丈夫だ。出掛けられる」と答えて洗面と風呂のある小部屋の扉を開ける。


 この街の上下水道は他に比べて整ってるらしい、目の前の洗面台には『蛇口』がついてる。水栓を捻って水が出る、なんてのは魔動機文明時代の『遺産』の復元が進んでる地域くらいだから。

 俺達の街ヴェルズリュートでは限られた施設でしか見られない。

 覗いた小部屋の洗面と風呂場は薄いカーテンで仕切られていて、風呂場と言っても、タイルが敷き詰められてあって、一応の排水溝はあるが、湯浴み程度にしか使えない広さと仕様だ。

 そんな粗末な風呂場を見て、俺は住んでた街の風呂屋を思い出し、兄妹三人でよく入りに行ったなぁ…。なんて事をぼんやり考えた。


 たった数日前までの日常が、遠い昔の様に感じて、不思議な感覚だった。


 洗面の蛇口の栓を捻ると水が勢い良く流れ出て来る、その水流を眺めて、両手で受け止める。ひんやりとした感触が手の平に広がって、それが気持ち良い。

 一息いて、俺はそのまま顔を洗う。


「……無理するなよ、って言ったら怒るんだろうな?」

「あ? …別に、怒りはしねぇよ、ちょっと苛つくだけだ」

 そう言いながらティーダが差し出したタオルを引っ掴んで、乱暴に顔を拭う。拭いた後のタオルを投げ返すと、ヤツは苦笑いを浮かべていた。そして、どこか諦めを含んではいるが納得したように目を伏せて、答えながら俺の目を見据える。

「…分かった。これからは、極力、子供扱いはしないようにする。…それで良いか?」

「子供扱いしてた自覚はあるんだな」

 悪態のように素っ気なく答えた俺に、ティーダはニヤリと笑う。

「……そりゃ、だからな」

 と、そう言って俺の頭をわしゃわしゃっとやって、少し寂しそうに笑って溜め息を吐いた。


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