第三話 父の帰宅
幼少期から、父と一緒に暮らした記憶がない。
別に父から育児放棄を受けていたとか、父のことが嫌いだから記憶から消したとかいうわけではない。
父は本当に家にいなかったのだ。
父はいわゆる転勤族だった。私が物心ついたときには父はすでに単身赴任をしていて、関西の実家では父以外の家族――母と妹の
けれど、私はさみしいと感じたことはなかった。
妹たちと一緒にいるだけで賑やかだからというのもあるし、父ともよく電話で話をしていたからだ。
父は聞き上手で、私は父に学校での出来事を話すのが好きだった。母との関係もよく、私たち三姉妹のことをさみしがらせないように二人で連絡を取り合っていたのだと、後に母から聞いた。
だから、私にとって父は、半年に一度会える面白くて楽しいおじさん、という認識だった。
私たち三姉妹が父と一緒に暮らし始めたのは、母が亡くなった2年前のことだ。
あれだけ転勤続きの父だったけれど、会社も家庭のことを配慮してくれるようになったのか、一緒に住むようになってから一度も引っ越しはしていない。
今住んでいる社宅も、年季は入っているものの立地は悪くなく、私は嫌いではなかった。
「ただいまー!」
父が帰ってきたのは、午後7時すぎだった。私が台所でご飯を茶碗に盛っていると、玄関から父の呼ぶ声が聞こえた。
「文嘉、タオル持ってきて!」
「おかえり。タオル?」
「雨や。雨。もうずぶ濡れや」
脱衣所からバスタオルを一枚持って、私は玄関へと向かった。
確かに、玄関にいた父はずぶ濡れだった。髪から滴がたれ、メガネは白く曇っている。スーツのジャケットを脱ぐと、カッターシャツまで浸水していた。ハンカチで鞄を拭いていたが、すでに絞れるほど水を含んでいる。
「ほい。タオル」
「すまんな、ありがとう」
はー、とため息を吐き、父は顔をバスタオルで拭った。
「俺が職場出た瞬間、見てたかのように雨降ってきてん。しかも土砂降り。俺が何をしたっていうんや」
「日頃の行いちゃう」
「ええやろ。日頃の行いええ方やろ、俺。むしろ帰る直前で雨上がるくらいしてくれんと割に合わん。風呂沸いてる?」
「今、
「佳奈か。あいつ風呂長いからな」
「もう1時間くらい入ってるから、そろそろでてくると思うで」
「あ、そう。——見て。靴の中までびっしょりや」
父が玄関の段差に座り、靴と靴下を脱いだ。
私は父からジャケットを受け取り、ハンガーにかけながら、父の背中を見つめた。
——反対なさらないと思うのなら、すぐに伝えたらいいじゃない。
今ここで伝えたら、きっと父は「あ、そうなん。がんばりや」とさらりと受け入れてくれると思う。
それはきっと間違っていない。
間違っていないが、少し緊張してしまう。少しだけ深呼吸して、父の背中に向かって声をかけた。
「なあ、父ちゃん。うちさ、」
「うわ、なにその格好」
次女の
「川遊びでもしてたん?」
「ちゃうわ。帰り際に突然雨が降ってきてん。寒いから風呂入らせて」
「日頃の行いが悪いからや」
「文嘉と同じことゆうとる。俺は娘たちからどんなふうに見られてんねん。——ん、文嘉、なんか言うた?」
「え? いや、なんでもない。はよ風呂入りや。風邪ひくで」
いったん引っ込んでしまった言葉は、もう2度と私の口から出てこなかった。
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