第二話 佐野書店

 いつ頃からだろう。

 ストーリーのおもしろさよりも、言葉の美しさにかれるようになったのは。


 子供の頃はひたすらエンタメ小説を読んでいた。本の中の登場人物とともに、あっちこっちストーリーの波に翻弄されることの楽しさ。現実ではありえないほど飛び抜けたキャラクター達、魔法も夢も何でもありの世界、連発する波瀾万丈はらんばんじょうな出来事の数々。


 物語を読み終わったとき、刺激的な世界から現実へと連れ戻され、さっきまで一緒に旅したキャラクターたちにおいて行かれてしまったようなさみしさを覚えて、どうして私はその世界に生まれなかったんだろうと、落ち込むこともあった。


 別に、きっかけがあったわけではない。無理に意識して変えたわけでもない。母の本棚から適当に本を選んで読んでいくうちに、しだいに自分の好みが変化したというだけ。


 世の中にはいろんな考えの人がいて、いろんな感情を抱いていて、私たちはそれを言葉で表現することができる。小説は、まさにその集大成だ。言葉だけで、その人の感情を体験できるのだから。


 今でも覚えている。

 本を読んでいて、たった一文に、しばらく呼吸を忘れるほどの感動を覚えたときのことを。あの瞬間から、私は言葉の魅力にとりつかれてしまったのだ。


「いらっしゃいませ」


 笑顔を作るのは昔から得意だ。客が持ってきた文庫本からスリップを抜き取り、バーコードをスキャナーに通す。


「ブックカバーは必要ですか?」


 必要だというので、私は「佐野書店」オリジナルのブックカバーを引き出しから取り出した。よどみのない動きでブックカバーを取り付けることができて、自分も様になってきたのかもしれないと実感する。


「ありがとうございました」


 おつりを渡して、頭を下げた。


「お疲れさま」


 佐野さんが私の肩をポンとたたいた。眼鏡をかけ、きれいな白髪を後ろで結んでいる。


「お疲れなんじゃない。最近、あんまり元気がないような気がするけれど」

「そうですか?」


 父のことが頭に浮かんだ。

 そんなつもりはなかったけれど、やっぱり思い詰めているのだろうか。


「疲れてても、ここ来たら落ち着きます。やっぱり、本屋ってええですよね」

「ありがとう。私も、文嘉ちゃんが手伝ってくれるって聞いて、本当に嬉しかったのよ」


 佐野さんが笑った。

 佐野さんは昔、大学の教授をしていたのだけれど、今では町の小さな本屋を継いで店主をしている。


「いやいや、こちらこそお世話になってるんですから。レジ打ちくらいいつでもやらせてください」


 私がそう言ったら、佐野さんが柔らかく笑った。目尻の皺が深く刻まれ、彫刻のような美しさを感じた。

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