最終話 ヒーロー=エクスマキナ

 ろうそくの光が不安定に揺れ、石造りの内壁を照らし出す。魔族共同戦線最大の拠点、その最奥の大広間。凍てつくような空気が肌を刺し、腐肉じみた悪臭が鼻をつく。足元を汚す緑色の血液を踏みつけ、俺はヒトに近い形の魔族にずかずかと歩み寄った。巨大な翼が生えた背中を蹴りつけると、ソレは力なく血だまりを転がる。ふくらはぎの辺りで、ごぼりと音を立てて血が泡立った。

「なぁ、これで終わりか? もうちょっと楽しませてくれてもよかったんだぞ、魔神の大将軍サマ? 邪神の王サマも寝てんじゃねえよ、さっきみたいに再生して殴りかかったりできねーの?」

「……」

「まぁ……聞くだけ無駄か。俺に勝てる奴なんていねぇよな、ハハッ! ……な、そうだろ? ギヴァ」

 後方に控える襤褸ぼろ布姿に、俺は笑いを含んだ声で問いかける。不遜に広げた両腕の血が嫌な音を立てて泡立つ。ろうそくの明かりを受け、細長い影が四方に伸びていた。音質の悪いCDみたいな雑音の中でも、称えるような拍手の音は明瞭に耳に届く。……機械音声じみた平坦な声は、雑音に混じって上手く聞こえないのに。

「ええ、その通りでございます……お見事でした、真良しんらさま」

「ハハッ、そうだろ? 俺に勝るやつなんてこの世に居ねぇ。どこぞの勇者もチート主人公も、メアリー・スーもカミサマだって! 誰一人として、俺には勝てねえ! 俺は英雄だ……誰よりも偉いんだ!!」

 溢れんばかりの哄笑が広間に響き渡り、ろうそくが英雄の姿を照らし出す。どうせなら、もう少し豪華なスポットライトがよかった。耳元を冒すノイズすらも、祝福のファンファーレに変わってしまう。魔族の首魁の顔面を何度も踏みつけながら、酔いが回ったように声高に笑った。

「ああ――俺は今、この世の誰よりも幸せだ!!」

「それは何より。……さて、そろそろですかね」


 ――声を認識した瞬間、渦巻く光が頬を掠めた。気付くと純白の光が周囲を塗り潰していて。背筋に氷を押し当てられるような感覚に、喉が情けない音を立てる。酔いが覚めたように目を見開き、反射的にギヴァの方に視線を投げた。

 乱気流の中にいるように、白い襤褸ぼろ布が音を立ててはためく。整った顔立ちの中で、薄い唇が歪んだ弧を描いていた。くすんで見えるフードの下から、鈍色の瞳が俺を穿つ。機械的な無感情ばかりだったそれは……今はどこか、嘲笑じみた光を宿しているような気がして。

「……ギヴァ……?」

「ふ……ふふっ。あなた様の物語はこれにて終幕です。はなむけとして、私から『事実』を差し上げましょう」

 堪えきれないとばかりに震える声が純白の空間に響き渡った。歯車に囲まれた片手が、くすんだ襤褸ぼろ布の縁に伸びる。鳥肌が立つと同時に、全身の血流がごぼりと泡立った。ダイヤルをゆっくりと回すように、耳鳴りが罵声のような音に切り替わっていく。

 払われた白布が、暴風に流されて消えてゆく。その下から現れたのは、カラスの羽を思わせる黒髪だった。ひどく不吉な印象の笑顔が目に焼きついて、俺の喉が情けなく縮こまる。真っ黒な姿が大きくぶれ、幻聴の不協和音が俺を責め立てる。

「あなた様は貪欲に……いえ、強欲に力を欲しました。私はそれに応え、望むままの力をもたらした……それが何故だか、考えたことはおありですか?」

「……お前一人じゃ何もできないから……じゃないのか?」

 呼吸を拒む喉から、無理やりに言葉を吐き出した。一瞬、電波異常のようなノイズが視界を埋め尽くす。それが晴れた先で、ギヴァは呆けたように俺を見下ろし……堪えきれないように吹き出した。セメントのような濃い灰色に空間が染まる中で、弧を描く唇が目に焼き付く。処刑場に群がる民衆のような声が、糾弾するように耳を冒す。

「……本当に、あなた様という人は……ふふっ。お忘れですか? 私が神より遣わされた存在であることを」

「……それがなんだよ。どうせユニークアイテムとかそういう括り――」

「どれほど笑わせると気がすむので? 私があなた様に協力しているのは、それが神々のご意志であるから。真良しんらさまご自身のことなどどうでもいいのですよ。そうでなければ、ここまでやりたい放題にさせるはずがないでしょう?」

 鈍色の瞳が愉快そうに細められる。紙幣の束を無造作に放り捨てるように。嘲笑うような耳鳴りがうるさい……こいつの言っていることが全く理解できない。どうしてこいつはこんなに楽しそうに笑うんだ? どうしてこいつは……?


 鈍色の瞳が嘲るように俺を覗き込んだ。出刃包丁のような視線に突き刺されて、喉がひくついて息ができなくて。片手を握りこみ、やかましく耳を冒す雑音に縋る。そうでもしなきゃ……息ができないんだ。目の前のこいつが、漆黒の髪をはためかせるこいつが、急に誰なのかわからなくなって。

「最初に申しあげたとおり、あなた様は世界を救うために召喚されました。その類稀なるを見初められて、ね。先程までのような戦乱の世であれば、ただ戦って勝てばよかった。あなた様ほど強欲な方でしたら、愚直に力を求め続けるでしょうから。しかし戦いが終わってしまえば、強すぎる武力は要らぬ災いとなりうる。どういうことかはおわかりですよねぇ?」

 不協和音じみた耳鳴りの中でも、こいつの声ははっきりと耳に届く。だけど何を言っているのか理解できない。ぶちまけられたパズルのピースみたいな言葉の欠片だけが転がっていて……視界を冒すノイズが意味不明さに拍車をかける。全身の血が蠢いて、喉が呼吸を拒むように引きつる。壊れかけの液晶のようなノイズの中で、ギヴァらしき誰かは首を絞めるように言い放った。

「――この世界の誰も皆、もう、あなた様に用はないのですよ」


 耳障りな金属音を立てて、歯車が逆方向に回り出す。伸ばしたワイヤーを巻き取っていくように。嘘みたいに耳鳴りが消え、視界を冒すノイズが潮騒のように引いてゆく。強張っていた全身から力が抜けたと思うと……貧血を起こしたように、身体が傾いだ。

 全身が冷たい床に叩きつけられ、焼けるように痛む。思わずみっともない声を上げ、俎上の魚のように醜くのたうち回った。本当ならこの程度、七転八倒するほどの痛みではなかったはずなのに。なんとか起き上がろうと試みても、腕に力が入らない。さっきまで戦っていたのが嘘みたいだ。

「……どう、なってる……ッ!」

「能力をあまりに受け取りすぎると、存在が耐えきれず、いずれ自己崩壊を起こす……以前から訴えていらっしゃった体の不調は、その前兆です。あれほど際限なく力を受け入れれば、少し考えればこうなるとわかるでしょう?」

「は……っ!? そんなこと、聞いてねえ! なんで言わなかったんだよ……!」

「それが神々の御意向でしたゆえ。わざわざ伝えてやる義理もありませんでしたし」 

 ……脳裏がハエの羽音のような雑音に支配されていく。耳鳴りはとうに消えたはずなのに。心臓が爆発しそうなほど脈動し、冷徹なカウントダウンに似た幻聴が脳を貫く。やめろ、返せ、助けてくれ――そう絶叫しようとしても、喉がひりついて声が出ない。今にも血を吐きそうで、心臓が壊れてしまいそうで。歪に笑う黒髪のヒトガタが慇懃いんぎんに跪く。歯車をけたたましく回し、世界を漆黒に塗り替えながら、静かに微笑みかける。

「戦いが終わった世界では、要らぬ武力は災禍のもと。ならば武力の持ち主に自己崩壊させれば、世界は後腐れなく平和になるでしょう。そしてそのようなことに世界の人的資源を使うわけにはいかなかった。故に欲深い異世界人が選ばれたのです。……ほんの少し自制ができたなら、結末は違ったかもしれないのに、ね」

「……っ、そんなッ、やめ、たすけ……!」

「あぁ、どうか暴れないで。あなた様には最後にもう一つだけ、していただくことがあります。これは曲がりなりにも英雄譚。フィナーレを飾ってもらわなければ、締まるものも締まらないでしょう?」

 ……息を呑む。世界が静止するような錯覚。耳障りな歯車の金属音も、冗談のように消えてなくなって。我に返ったように目を見開き、死に物狂いで首を横に振る。だけど、心臓は破裂しそうなほど膨張し続けて。ただただ見開かれた俺の瞳孔を誰かの視線が穿つ。鈍色の瞳の奥に何があるのか、俺にはもうわからない……いや、最初から知ろうとすらしてこなかった。今更助けを求めたって、許してくれと叫んだって、もう――。


「英雄譚はこれにて閉幕です。お疲れ様でした」

 ――あなたは十分、世界のお役に立てましたよ。それだけは誇ってよいのです。


 空気を詰め込みすぎた風船のように、音を立てて心臓が破裂する錯覚。眼前で白い火花が散り、視界が虹色の光で埋め尽くされた。血液の代わりのように噴き出すそれは、塔となって天へ伸びていく。輝きが脈動すると同時に、意識が急速に暗転していって……全身の血を抜かれるかのように、痛みすら遠ざかっていく。

 悲鳴をあげることもできない。喉が締めつけられて何も声にならない。指先すら動かせなくなった俺を、鈍色の瞳が愉快そうに鑑賞していた。朧げな意識の中、かつて見た光が絵の具のように滲む。回り出す歯車から溢れる虹色。それさえあれば、俺はなんだってできたのに……。眼前の黒い影に、俺はいつかの襤褸ぼろ布姿を重ねた。声すら出せないまま、問いかけるように唇を動かす。


 ――なぁ、ギヴァ。最後に教えてくれ。

 どうしてこうなったんだ? 俺はただ、ラノベの主人公みたいに……。


 そんな思考が、虹色と共に爆散する。

 ギヴァとよく似た誰かの笑顔が、消えゆく意識に焼きついていた。


 ◇◇◇


 その日、麓の村人は爆発音を聞いた。

 虹色の光の塔が天へ伸びていくのを、呆然と見つめていた。


 村の有志が様子を見に行くと、拠点には魔族の一匹も居らず……最奥の広間に、一人の少年が倒れているだけだった。

 見たところ、手足を動かすことができず、目も見えず、耳も聞こえない様子。

 時折、思い出したように呻き声を上げるのみだったという。


 村人は少年を放置し、来た道を引き返したそうだ。

 助けを求めるような声に、気味が悪いと吐き捨てながら。

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ヒーロー・エクスマキナ 東美桜 @Aspel-Girl

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