(単話)魔都の影にて

蓬葉 yomoginoha

魔都の影にて

 姉はわたしにとって憧れの人だった。

 

 六歳上ということもあって、「姉ちゃん」と口では言いつつ、実際は両親と変わらないくらいのおとなだと思って接していた。


 面倒見のいい姉は、わたしや下の妹の世話に時間をくこともいとわなかった。

 そのかたわらで、有名な高校に通い、都会の頭のいい大学にも受かり、両親にとってもほこりにできる娘だっただろう。



 わたしにとって、姉は憧れの人だった。

 頭のいいところ。優しいところ。器用なところ。運動ができるところ。容貌ようぼう。性格……。全てが完璧な姉が、わたしは大好きだった。嫉妬しっとなど思いもよらなかった。


 けれど、姉のようになれという周りの声や圧力は、本当に嫌いだった。

 その一瞬だけ、姉がいなかったなら、あるいはあんな完璧人間でなかったなら。そう思ったりもした。



 そして、姉は就職のため、ついに東京に旅立った。

 もちろん、浮かんだ感情は安堵などではなく、悲哀ひあいの感情だけだった。決して遠い距離ではないけれど、家に帰れば姉がいて、おやつを出してくれたり、漫画を貸してくれたり、勉強を教えてくれたりすることがなくなるのは悲しかった。


「あの子がいないと静かね」と母が愚痴ぐちのように言ったのを、今でも覚えている。

 




 しかし


 東京という、隔絶かくぜつされた、容赦ようしゃのない世界で生きる姉は、


 羽をがれた鳥のように、少しずつ摩耗まもうしていった、

 

 らしい。




 らしい、というのは、わたしは「結果」しか知らないから。そうなっていく過程は目の当たりに出来なかったからだ。


 あるとき、姉の部屋を、わたしはひそかに訪ねた。「密かに」というのは、姉にはもう関わるなという雰囲気が、私の周りでただよい始めていたからだった。

 同じ苗字みょうじの表札。小さなアパートの角部屋。隣の部屋は空き家だ。

 庭先に生えた、花を落とした桜の、後悔の影が玄関扉に落ちている。明るい姉とは対照的な、暗い住処すみかだった。


 ごくり、つばをのんで呼び鈴を押す。しかし、返答はない。学校に行っているのかと思ったが、自転車が置いてあったから、いないはずはない。


「姉ちゃん」


 ドアに顔を近づけてわたしは言った。そして気付く。鍵が、かかっていないと。

「え……」


 恐る恐る扉を開けると、鼻をおおってしまうくらいの臭気しゅうきが襲ってきた。

 強いアルコールの香りに、何かまた別の嫌なにおいが混ざった、甘ったるい匂い。 

 

 吐き気がこみあげてくるのを何とかこらえながら靴を脱ぐ。

 靴置き場には、姉が出発するときに撮った写真が飾られている。薄く化粧をつけた姉はスーツ姿でこちらに微笑ほほえんでいる。

 その時からまだ一、二年しか経っていないのに、もっと長い時間が過ぎてしまったような気がする。

 


 居間に入ると、姉は、いた。周りに服やごみが散乱している。特に目立つのはビールの缶だ。


「お酒なんて、あんなものなにがおいしいんだろね」


 そう言っていた姉はどこへ行ってしまったのだろう。いまは、その缶を片手に持ってひざを抱いて座っていた。

「姉ちゃん……!」

 伸び放題の、パサついた髪。土気つちけ色の皮膚ひふ胡乱うろんな瞳。そのすべてが、一緒に住んでいたころの姉とは異なっていた。けれど。


「リコ」


 わたしの名前を呼んで、優しく笑った姉のその顔だけは、全く変わっていなかったように、一瞬、



 勘違いした。



「姉ちゃん」

「よく来たね。……あれ、なんで。ううっ、うああっ、あああっ……」


 嗚咽おえつ、微笑みが消えると同時に、姉の瞳に涙が浮かんだ。そしてわたしは、随分やせてしまった、憧れの姉に抱きしめられた。


 何があったのか。詳しいことを、わたしは知らない。

 おとなとして、社会で生きるということは、わたしが想像するほどはるかに厳しいことなのだろう。

 きっと姉は、それに耐えられなかった。都会の片隅かたすみの一室の、そのまた片隅でうずくまる姉を、誰も助けはしなかったのだ。そして多分、姉自身も誰かの手にすがることが出来なかったんだ。


 あれほど「姉みたいになれ」と言っていた両親や大人は、今では逆のことを言うようになっていた。

「ああなっちゃだめだ」

「将来のことはちゃんと考えなさい」


 そのげんが正しいのかもしれない。

 しかし、いくら何でも、それはあんまりじゃないか。

 勝手に期待して、手の平を返すように勝手に失望して。そもそも、あなたたちの娘だろう。家族だろう。仮に酒が入ったぼやきだったとしても、どうしてそんな言葉が口をくんだ。

 


 必死におとなになろうしていた姉は、わたしの胸の中で声を上げて泣きながら、力なく項垂うなだれていた。

「ごめんね……。情けない、姿見せて……。ほんとに……」

 顔を上げず、姉は言った。か細い声に、わたしは絶句ぜっくするよりほかなかった。


「色々、頑張ったんだよ。頑張ったんだけど、駄目だったの」

 からんと、缶が畳の床を転がっていく。

 机の上には請求書が何枚も並べられている。

 部屋の隅には袋にめられたごみが山積みになっていた。



「もう、生きてない方が、いいのかなって、そう思うんだよ」

 ぞっとする。今気づいた。天井からぶら下がっているのは、ロープだ。

 輪が崩れているのは、恐らく未遂みすいの跡だ。



「姉ちゃん……、だめだよそれは。そうなるくらいなら、帰ってきなよ……」

「無理に決まっているでしょ!」


 拳を握って姉が窓をたたく。ドスンとにぶい音が響いた。わたしは唖然あぜんとする。

「私はもう、ただの負け犬なんだよ。自慢じまんの娘でも、憧れの姉でもなんでもないの。だから帰る場所なんて、ないんだよ」

 姉の瞳は、激しい感情を帯びていた。それでいて、すっかり諦めきっている、そんな様子でもあった。


「リコも、帰りな。どうせ、近寄るなって言われてるんでしょ」

「……」

「帰ってよ……。もう……」


 ダメだ、と心の中から声が飛びあがる。

 直後、ほぼほぼ無意識に、わたしは姉の手を引っ張っていた。随分軽くなった彼女の身体がふわりと浮かぶ。


「えっ……?」

「あ、遊びいこう!」

「は?」

「せっかく、と、東京に来たんだもん。お姉ちゃん案内してよ。いっぱいあるでしょ? 楽しいとこ」


 姉の目は、周章しゅうしょう狼狽ろうばいさとるに十分すぎるくらい右往左往うおうさおうしていた。

 対するわたしも、意識や言葉が先行して次に言う言葉もわかっていなかった。



 ただ、姉はこの手を振り払わなかった。まったく拒絶きょぜつされているわけではないのだ。


 わたしも同じ。


 姉はこの都会に拒絶されてしまったかもしれないけれど、少なくともわたしはこの人を拒絶したりしない。そんな意識もないし、権利もないだろう。姉は何があっても姉だから。

 恩返しだ、これは。小さなころから母親と同じくらいにわたしの側に居てくれた姉への。


「リコは、軽蔑けいべつしないんだね……」


 長い髪の隙間から、うるみを帯びた瞳が見える。姉はまた泣いていた。もうしばらく他人と話していなかったのかもしれない。

 わたしは大きく頭を振った。


「姉ちゃんは負けたんじゃない。疲れちゃっただけだよ。わたしだってテスト明けとか疲れるもん。誰だってそうなるんだから軽蔑なんてするわけない」

 邪魔な姉の前髪をかき分け、しっかり視線を合わせてわたしは言った。赤面なしでは言えないセリフだなあと思いながら、それでも目はらさないように。


「リコ……」


 ここに来てから、きっと初めて姉は、あの頃と同じように笑ってくれた。涙がたまったままだったけれど、相変わらず綺麗な顔だった。

「姉ちゃん」

 再び声をかけると、姉は涙とはなぬぐってわたしの手を握り返し、立ち上がった。


「ごはん食べいこう」


 そして、あの頃と同じ微笑みを重ねて言ったのだった。

 握った手に、姉の伸びたつめが食い込む。その痛みが、やけに強く感じたのはなぜだろう。

 瞬間、姉の笑顔にうまく笑い返せていない自分がうまれていたのに、気づいてしまった。


 

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