記憶 -Ⅱ
人は誰だって、忘れたいことの一つや二つはある。
私は特に失敗や、物事をうまくやれなかった時の自分を恥じては、立ち止まってしまうから。
(最近はだいぶ、ましになったけど)
これでも少しは、強くなったつもりなのだ。男子と喧嘩して、めちゃくちゃに泣いたりもするけれど。
前を向く力は、新淵さんがくれた。
新淵さんが私にくれたもの。
優しさや言葉。美しいもの、未知の世界。
ときめきにはやる鼓動、湧き上がる熱。
人には忘れたくないことだって、たくさんある。
覚えていたいこと、大切に想うことの一つ一つを思い浮かべながらの帰り道。いつものとおりに、香坂くんの家の前を通りかかった。
(そういえば、香坂くんは)
綺麗なお庭のおうちを横目に、素通りしようとしたのに。考えてしまった、いまだ仲直りできない彼の抱えるもののことを。
がちゃん、と金属の硬い音がした。香坂くんのおうちの玄関先が、明るくなる。
「はいはい、おもちちゃん。行きますよお散歩ですよおもちちゃん」
玄関照明より家の中の方が明るくて、おうちから出てきたのが誰だか一瞬解らなかった。
だって声、というか話し方が、なんだか妙だったし。
玄関先の影は胸のあたりで、白い塊を抱えている。その塊が、キャンと高い鳴き声をひとつ上げた。多分私に向かって、吠えたのだ。
「……中野?」
胸に白い小型犬を抱えた香坂くんが、私に気が付く。
「こんばんは……」
とりあえず、挨拶。香坂くんも驚いているようだけど、私だってびっくりしていた。知り合う前からも知り合ってからも、よく香坂くんの家の前は通っていたけど。中から住人が出てくるところにかち合うなんて、初めてだ。
「なんでいるの」
前にも聞かれた質問だった。答えようとして、先に香坂くんが口を開いた。
「聞くまでもないか」
眼鏡屋の帰りね、とどこか呆れるような口調で香坂くんは言った。呆れられる筋合いはないとは思いつつ、あまりに頻繁だと言うことならそれは確かなので、黙っておく。
大体、もう喧嘩はしたくない。
「香坂くんは、犬のお散歩?」
香坂くんの腕の中には、小さなわんちゃんが抱かれていた。真っ白でふわふわで、綿あめみたいな子だ。ちっちゃな紺色のベストみたいなお洋服を着ていて、とてもかわいい。
「そうだけど」
にこにこ笑っているようなわんちゃんにたいして、香坂くんは仏頂面を極めている。それはそうかもしれない。
だって私と香坂くんは、あれからまだ、何にも、話ができていなくて。
「あの」
何か、一言でいいから。世間話ではなくて、この間の言い合いのことを。
「悪かったわ」
話そうとしたその時に、香坂くんが言った。
「この前は悪かった、怒鳴ったりして」
香坂くんが、謝った。
簡潔に、だけどきちんと私の方を見て。言葉が簡単だからって、適当だとは思わなかった。
「えっと、ううん。私の方こそ、何も知らないのに、色々と」
「うん。だから中野から見たら、俺、勝手にイラついて、キレ出したようなもんだよな。ただの八つ当たりだったわ、ごめん」
香坂くんの事情を知らなかったことに、罪はない。察しろというのだって、無理があった。冷静に喧嘩の原因を突き詰めれば、私は確かにそこまでは悪くないのかも知れない。
「でも、私も頭に血が上っちゃった、から。馬鹿とか最低とかも、やっぱりその、言ったらよくないと思う、ので。それは」
「いいよ、それくらいは。俺の態度がさんざんだったんだし」
「……うん。香坂くん、怖かった」
「ごめんて」
「いいよ、もう。それに私も香坂くんの事情は、少し、聞いたので。そこは今後、気を付けるように、します」
深呼吸よりは浅く、少し長めに香坂くんは息を吐く。胸の中、わんちゃんのぽわぽわした毛がちょっと揺れた。
「じゃあ、もういいな」
「うん」
罪の自覚とか許しとか、そんな大げさなものではなく。話し合いとも少し違った気がする。だけどそう、お互い少しは、歩み寄って。仲直りが、できたのだと思う。
「東希、あんたまだ玄関でグダグダやってんの?」
突然、勢いのある声が割って入った。香坂くんの後ろ、明るい室内にひょこりと現れる人影。
「あら、あらあらまあ。お客さんが来てたの」
くたびれた、いかにも部屋着といった風情の格好に、ふかふかしたスリッパを引っ掛けて。出てきたのは、見るからに香坂くんのお母さんだった。
「こんばんはー」
気さくに挨拶をしてきたその人に、私は小さく頭を下げる。
「こんばんは」
「なに、お友達?」
「同級生だよ。たまたま通りかかっただけ。出て来なくていいから」
サンダルに履き替えようとするお母さんに、香坂くんはそっけなく言った。
部屋の中からは、テレビか何かの音が聞こえてきた。綺麗に飾ったお庭のあるお家の中には、普通の家庭の日常がある。
「ああそう、そうなの。いつもうちの子がお世話になってー」
「あ、えっと。いえ、こちらこそ」
お世話をしたことはないし、何なら言い合いになって、ついさっきようやく仲直りしたところです。
とは、言う必要はないし、おそらく向こうも定型の挨拶なんだろうなとは思うけれど。
「なあに、おんなじクラスなの」
「いえ。クラスは違うんですけど」
「そうなのー。女の子の友達なんて珍しいわねえ」
多分私のお母さんも、こんな反応をしそうだなと思う。男の子なんて珍しいと言いながら、あらぬ邪推をしそうな。それはとても困る。
「いいから、家入って。中野も帰るところだから」
「中野さん? これからもうちのと仲良くしてやってねー。この子、友達作るの下手くそだから」
「一体いつの話してんだ! いいから帰れ!」
明るく言い放たれた、おそらく香坂くんにとって都合の悪いこと。香坂くんは慌てふためいて、お母さんを極めて邪険に扱った。
「お母さん、もう自分の家に帰ってますー」
それはそうだ。お母さんは最初から家の中にいる。自分の母親を前に調子が狂っている香坂くんは、ちょっと面白い。
「おもちの散歩行ってくる! ついでに中野、送ってくるから。じゃあな早よ家入れ!」
わんちゃんを下ろして、香坂くんは門柱を抜けた。香坂くんに先んじて、私の足元にやってきたわんちゃんが見上げてくる。可愛い。
いやそれより。
「送ってくって言った?」
「もう暗いだろ。散歩のついでだし」
日没が早くなってからも、一人で帰るのはいつものことなのだけれど。とりあえず犬の散歩のついでというなら、無下に断ることもできず。香坂くんのお母さんが『行ってらっしゃい』と言うのを背に、私たちは歩き出した。
てちてちと、少し先を白い毛玉が歩いている。
「可愛いね、わんちゃん。スピッツ?」
「いや、ポメラニアン。スピッツは中型犬だろ」
「そっか、白ポメちゃんか。名前はなんて言うの」
「おもち」
「おもち、ちゃん」
独特のセンスの名前を口にしたら、おもちちゃんがちょっと振り向いた。かわい過ぎる。
「……お洋服着てるのって、可愛い」
「着てないけど」
「え、だって紺のやつ」
「それはハーネス。リードと繋がってるだろ」
「あ、ほんとだ」
リードを揺らして、おもちちゃんは歩く。小さな歩幅でも、私たちと歩くペースはあまり変わらない。だからすぐに市役所通りに出ると思うけれど、おもちちゃんの話題が尽きたら、話すことが無くなってしまった。私は黙ったまま、おもちちゃんの綿毛みたいなしっぽが揺れるのを眺めていた。
「にしても、なんだって中野はしょっちゅう、うちの前で突っ立ってんだか」
「え?」
香坂くんも、視線はおもちちゃんのことを見据えたままで言った。
「よく前を通るのは、わかるけど。大体うちの前で立ち止まってないか」
「だって、見ごたえのあるお庭だし……」
「今日なんか、暗かっただろ」
「それは、ちょっと思うことが」
あって。と言い切ろうとして、『思うこと』を口にしたら、嫌な思いをさせないだろうかと逡巡する。
香坂くんは思ったよりもいい人、なんだろう。
だけどあれだけの言い合いになったのだから、慎重にもなった。
「なに」
問い詰めるような口調ではないけれど、聞かれたら答えてしまったほうがいい気もして。
「香坂くん、事故のこと、忘れたいって思ってる?」
香坂くんが、おもちちゃんのリードを引っ張った。私の問いに緊張したのかと思ったけど、単におもちちゃんが、よその家の敷地に入りそうになっていただけだった。
「小さい頃に遭った交通事故のこと? 前に話した、魔眼が目覚めちゃったって時の」
「うん」
人が亡くなるほどの事故だったと、新淵さんは言っていた。
「記憶を消しても、魔眼まではなくならないんだろうなって思うけど。魔眼が発動しても、つらい出来事と一緒に思い出さないだけ、楽になるのかなって」
「それ、店主さんが言ってた?」
私は視線をおもちちゃんから、香坂くんへと移した。
「香坂くん、新淵さんが記憶を消せるって知ってたんだ」
「え、むしろ中野は知らなかったのか」
「知らなかった、です」
隠していたわけではないとは、思う。ただ、そのことについて話す機会がなかっただけで。
「そうか。俺は実際、提案されたことがあるからな」
「そうなの?」
それは考えていなかった。香坂くんは私よりもずっと前に新淵さんと出逢っていたけど、深入りしている様子もなかったから。
「小学校の半ばに、どうしても眼鏡が合わなくなって行った時。まあ、色々その後の状況とか、花の件も含め事故の時のショックとかも話して。んで、もし事故の記憶がつらいんだったら、消してあげるよって」
「消してもらわなかったの?」
「なんか、忘れちゃいけない気がして」
それは文彦さんも、言っていた。
記憶を消して救われた一方で、それでよかったのだろうかと、わずかな後悔を抱えていた。
「忘れればそれでよしってのは、安直すぎないかなあって。子どもながらに思ったんだよな、俺は」
――そんなに背負うことないよ。
新淵さんは、そう言っていた。
心が壊れてしまうくらいなら、忘れてしまうのだってありだ。自分を守るのは、悪いことじゃないんだから。
「事故の後、親とか病院の先生とか、めちゃくちゃ頑張ってサポートしてくれたからさ。だから事故と向き合わなきゃって、思ってたのかも」
「……考えてるんだね。香坂くんは」
素直に感心する。やっぱりちゃんと話せて、良かった。
「魔眼のことは、ほんと厄介だけどさ。アレと付き合わなきゃなんないんだったら、事故の記憶ももうセットだわ」
「そっかあ……」
「だから俺、店主さんのこと信用できなくなったの。無責任なこと提案されたって、思っちゃったから」
「それは親切だと、思うけどな」
反論はしたけど、強く言い返す気にはならなかった。香坂くんなりに、真剣なのだとわかったから。
「まあ、そうなんだろうな。多少成長して、俺も頑固なんだろうなと今は思うようになった。でも最初の印象が、なかなか覆らないもんで」
それは私が新淵さんに出逢った時から、ずっと優しい人だと思い続けているのと同じことなのかもしれない。
「中野の前で店主さんを悪く言ったのは、意地悪だったと思います」
市役所通りに出て、香坂くんはおもちちゃんを抱きあげた。人が多いから、小さなわんちゃんを歩かせるのは危ない。
「もう人通りの多い場所だし、ここでいいよ。おもちちゃんのお散歩も、全然足りないでしょう」
「役所までは、いいよ。役所の裏の公園で歩かせるから」
市役所のそばは防災公園で、災害時に大勢の人を避難させるために遊具等はなく、とても広い。だから犬を遊ばせるにはもってこいのはずだ。
「ん、わかった。ありがとう」
明るい場所に出たら、香坂くんが着古したジャージを履いているのがわかった。上は防寒で上着を着ているけど、その下はやっぱり部屋着みたいなものかもしれない。
「ごめんね。結構楽な格好してるのに、こんなところまで付き合わせて」
「俺にとっては近所だから、良いんだよ」
洋服にはおもちちゃんの毛が、たくさんついてしまっている。ふわふわだもんね、と香坂くんの腕の中のおもちちゃんを眺めた。
「ねえ、香坂くん。おもちちゃん、撫でていい?」
私はとうとう、もふもふと愛らしい姿に耐えられなくなる。
「ああ。それくらい、どうぞ」
拳で匂いをかがせてから、そっと首の周りを撫でる。ふわふわもふもふ、柔らかい手触り、愛らしい笑顔。
「はああ、可愛い。もっふもふしてる」
「もう結構、おじいちゃんなんだよ。これで毛もだいぶ、薄くなってきたしな」
「そうなの? 私、犬とか動物とか飼ったことないから」
小さなお鼻は、ちょっと色が薄い。明るいところで見たら、目の中も少し白かった。動物も老いるのだと、当たり前のことを思った。
「じゃあ香坂くんが小さい頃から、一緒にいるんだね」
「俺、事故に遭っただろ。ひと月近く入院して、さらにひと月、自宅療養してたの。入学してすぐ、学校にふた月くらい行けなくて。友達と遊べなくてさ」
香坂くんのお母さんの言葉を思い出す。友達を作るのが、下手だったって。
私も友達が、なかなかできなかった。事情が全然違うのに失礼かもしれないけど、私たちはちょっと、似ていたんだ。
「寂しい時も、あったけど。おもちがいたから、だいぶ救われた」
おもちちゃんの存在が、きっと香坂くんを孤独から救った。
「香坂くん、おもちちゃんのこと本当に可愛がってるんだね。玄関出た時、なんだかあやすみたいに話しかけてたもんね」
ちょっと高い、小さな子に話しかけるみたいな声。赤ちゃん言葉ではなかったけれど。
「今すぐ忘れてくれそれは」
「いいじゃない。大事にしてるんだから」
「……まあな。我が家ではおもちを愛情と責任をもって、一生、全力で愛しぬくことを誓ってるからな」
開き直ったように語る香坂くんの腕の中で、おもちちゃんはにこにこ。
「そうかそうか。おもちちゃんは幸せ者だねえ」
愛されることは、幸せだ。そしておもちちゃんを愛する香坂くんもご家族も、きっと幸せだ。
幸せの塊みたいな、真っ白い綿毛を撫ぜながら。そんなことを、思うのだった。
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