記憶 -Ⅰ
今までも時々、顔を合わせていたのだろうかと思う。
香坂くんと喧嘩になった時から、ひと月近くが経とうとしていた。
季節はすっかり秋めいて、もうブレザーを着ないと寒い。冬の訪れももうすぐだろう。
このひと月の間、香坂くんとは廊下で何度かすれ違った。クラスが違うから教室の外で見かけるのだけど、話をしようと思った途端に、こうも顔を見るようになるものか。そう思ったけれど、見知らぬ顔だったから気づかなかっただけで。本当は今までだって、私たちはこうしてすれ違っていたのかもしれない。
けれど結局のところ、私と香坂くんは話ができないままだった。
廊下で顔を合わせてもお互い友達といたり、教室移動の際中だったりと、話をするタイミングはなかなか訪れない。
教室まで訪ねて行ったって、良いのだろうけれど。
すれ違うたびにお互い思わず目をそらしてしまうようでは、なかなか踏み込めそうにない。
その間にも、私は相変わらず銀の月眼鏡店へ足を運んだ。香坂くんと廊下で顔を合わせるのと、同じくらいの回数は。
だから香坂くんの家の前も通りかかるのだけど、さすがに通り道だからと言って玄関チャイムを鳴らすなんてできない。それは教室を訪ねていくよりもずっと踏み込んでいて、勇気のいることだから。
香坂くんのおうちの庭は十月も終わりに近づいた今、植木鉢の合間からかぼちゃが顔を出すようになった。本物の野菜じゃなくて、陶器か何かでできて、顔がついているやつ。ハロウィンの、ジャック・オ・ランタンだ。玄関扉には赤く色づいた葉と木の実を連ねたような、秋色のリースがかかっている。
シーズンになったら、クリスマスリースになるんだろうか。
かぼちゃはサンタさんに代わって、もみの木を飾ったりもするのかもしれない。
(クリスマスケーキを手作りするのは、難しいのかな)
香坂くんの家を後にして、眼鏡屋さんに向かって歩きながらそんなことを考える。
当日じゃなくてもいい。いつものお茶菓子を、一日だけクリスマスケーキにするんだったら、きっと大袈裟じゃない。
新淵さんがいつも胸につけているループタイ、ああいうのはお高いものなのだろうか。腕時計よりは安い、とは思うのだけれど。
完全にクリスマスを一緒に過ごす気分で計画を練り始めた自分に、落ち着くよう言い聞かせて、私はいつもの角を曲がった。
「こんにちはー」
アイアンの取っ手が付いた玄関扉を、中に押し込む。
お店には呼び鈴もドアノッカーもなくて最初のうちは戸惑ったが、新淵さんは大体来訪に気づいて扉を開けてくれた。ここに出入りする人間を新淵さんは選別できるので、こちらが曲がり角を曲がった段階で分かっているのだそうだ。どうせわかっているのならと、新淵さんが玄関まで出迎えに出て来られない時でも、私は声を掛けながら入店するようになった。
「あれ、白ちゃん」
扉を開けたら、床から白ちゃんがこちらを見上げていた。扉の可動範囲ギリギリのところで出迎えてくれる。
「珍しいですね、白ちゃんがお店の中にいるなんて」
店内の新淵さんに話しかけた、つもりだった。
「こんにちは」
新淵さんじゃない声だった。店内の椅子に座っている人。新淵さんや南波さんと同じくらいに見える、男の人だった。
「こん、にちは」
挨拶だけは返して、どなただろうかと考えた。
眼鏡をかけている。
丸みのある台形をひっくり返したような形の、大きめレンズ。レンズをすべて囲ってしっかりと支えるメタルフレームは、ブロンズのような色だった。
夏休みにお店を訪ねた時、新淵さんが魔法をかけていた眼鏡だ。
「中野澄花さん、かな?」
「あっ、はい。そうです」
突然名前を呼ばれたことに驚いて、声が上擦ってしまった。はじめまして、と続けて頭を下げたが、多分動きは硬かっただろう。
「はじめまして。お噂はかねがね」
「噂、ですか」
それでもどうにか、会話は続いた。話しやすいからというよりは、ほんの少しだけ、知っている情報がある相手だから。
確かこのブロンズ眼鏡の人は、やっぱり魔法使いで、新淵さんたちと同じく長寿の人だ。
「リュウさんとか、澪さんに色々話は聞いてるよ」
一瞬、誰の話をしているのかわからなかった。澪さんは、確か南波さんのお名前で。リュウさんは、じゃあ。
(新淵さんのことか)
そうだった、新淵さんは流生だ。流れる星じゃなくて、流れて生きるって書くリュウセイさん。
「私も、その。ちょうどその、かけていらっしゃる眼鏡がお店にある時に、いたので。少しお話を聞きました」
「ああ、本当?」
「紅茶も、たくさんいただきました。美味しかったです。ごちそうさまでした」
「律義だなあ。どういたしまして」
会話が途切れて、私は店内を見回した。新淵さんはいなくて、バックヤードかもしれない。来客中だったわけだけれど、私はここにいて、良いのだろうか。
「座ったら?」
「えっ。あ、はい。じゃあ」
「リュウさんは裏でお茶入れてる。すぐ戻るよ」
私はお客さんの隣の椅子に座った。単に、いつも座っている椅子だからだ。
新淵さんはお茶を淹れているだけなら、すぐ来るだろう。だけど知らない人と二人だと、緊張してしまう。
相手は手元の本に視線を落としていて、そのまま読書に没頭してくれると助かるなどと思ってしまった。
文庫本ぐらいのサイズで、厚さは国語辞典くらいある。ハードカバーで赤い布地が張らた、ずいぶんと重厚な本だった。
「お待たせー。スウちゃんも、いらっしゃい」
ティーセットを載せたトレイを手に、新淵さんがバックヤードから出てきた。カップの数は三つで、私の来訪もちゃんと数に入っているようだ。
ほっとして、思わず腰を浮かせる。
「あ、いいよ一人でも運べるから。座ってて」
言われて、私は再び腰を椅子に落ち着かせた。
確かに三人分の飲み物とお菓子は、いつもよりも重そうだ。だけど実は手伝おうとしたのではなくて、新淵さんの姿を見たら安心してしまって。思わず傍へ駆け寄ろうとしてしまったのだとは、とても言えない。
「リュウさんが、喫茶店の店員みたいなことになってる」
「お客さんをもてなすのは、飲食店じゃなくても主の務めでしょ」
いつもよりも大きなトレイに、重たそうなティーセットを載せても新淵さんは危なげなく運んでくる。袖を捲った筋張った腕と大きな手がトレイを支えているのが力強くて、思わずときめいてしまった。
「だって恰好がウェイターみたいですもん」
「そんな風に見えるもんかね。ねえ、スウちゃん」
「えっと。あー、そういう制服のお店、行ったことないですけど……。丈の長いエプロンとか付けたら、それっぽい、かな」
話を振られて、なんとなくイメージする。三つ揃えのスーツから、ジャケットを除いたスタイルぐらいに思っていたけれど。確かにシャツとベストの組み合わせは、接客向きのきちんとしたスタイルに見える。そもそも来客が限られているとはいえ、眼鏡屋さんも接客なのか。
「ただのベストだけどなあ」
それはそう、確かに。だけど、とても。
「かっこいいと、思います」
素直にそう言ったら、お客さんはなんだか微妙な表情をした。私の顔は、にやけてでもいたのだろうか。褒めただけだけど、恥ずかしいと言えば、恥ずかしいし。
「かっこいいだって。俺なんて、澪さんにボロクソ言われてますよ。センスがじじくさいって」
「普通だと思うけどね、
お客さん――ふみひこさん、というらしい――は紺色の長袖ポロシャツと、ベージュのチノパンというスタイルだった。年齢を選ばない、気はする。澪さんの言うところは、着こなしだとか組み合わせとかのことなのかもしれない。男の人のファッションなんて、何一つわからないけれど。
「南波が時代に敏感なだけだよ、あれは」
「まあ、リュウさんの格好も仕立てが新しいだけで、ループタイ外せば大正から変わってないようなもんですしね」
「君、その頃はまだ赤ん坊でしょ」
大正生まれなのか、と思いながら文彦さんを眺める。まだ昔話としては、わかりやすい時代。けれど、じゃあ現在、大正生まれの方がどのくらいいらっしゃるかというと、やっぱり遠い昔のお話だ。
「で、眼鏡の調子はどう。ちゃんと使えてる?」
新淵さんは椅子に掛けながら、文彦さんに尋ねた。
「良好ですよ。視力の方が落ちて眼鏡を変えることがなければ、しばらくは大丈夫そうです」
文彦さんの眼鏡のレンズは厚かった。私だって人のことは言えないけれど、ずいぶんと目が悪いらしい。
「眼鏡、度が入ってるんですね」
思わず口を挟んでしまって、二人に視線を向けられる。少し気後れしたけど、問いを重ねた。
「魔眼を再現する眼鏡ということだったので、視力矯正は必要ないのかな、と」
「ああ。俺は実際の視力も、悪いから。視力矯正用と魔眼用と使い分ける人もいるけど、俺はかなり目が悪いし。それに本の文字を追えないと、魔眼の意味がないから」
そう言って、文彦さんは手にしていた本を持ち上げた。開いて、適当にページを手繰る。色褪せたページに、古めかしい書体の活字が並ぶ。どうやら年季の入った本らしかった。
「普通の本に見えるでしょ」
「ずいぶんと古いんだな、とは思いますけど」
「実はこれ、魔術書なんだ」
その言葉に、私は改めて本を観察する。どう見ても何の変哲もない、とは思ったけれど、肝心なのは内容なのかもしれない。だったら私が読んだところで、何もわかりはしないし。というか、魔眼と何の関係があるんだろうか。
「この本にね、魔法で色々と仕掛けてあるんだよ。魔力を持った目で見た時しか、視認できない文字で書き込みがしてあるし。ページを開くと、写真どころか映像記録みたいのが飛び出してくることもあるしね」
「えっ、楽しそう」
小さい時に読んだ、仕掛け絵本みたい。紙の本と連動する、スマホアプリみたいな仕組みもありそうだ。
「もともと、誰でも簡単に読めないようになってるっていうか。魔法を秘匿するための仕掛けなんだろうけどね。魔眼持ちの者ばかりじゃないし、最近の魔法使いは、魔法のツールだってなかなか用意できないんだから。昔の人は、なかなか難儀なことをしてくれる」
「そういう本が、たくさんあるんですか」
「うん。家に伝わってるものがずっと、たくさんね。正直言うと、俺はずいぶん長い間、放置してきたんだけど」
文彦さんは、変色した本のページを撫でる。
「やっぱり、残していかなくちゃいけないものもあるかなって、思って。それでここ二十年くらいは魔術書を整理して、読み解いて、手入れするようにしてる」
「それで魔法の眼鏡が必要なんですね」
「そういうこと。ただ、視力の方がいつまでもつかなあ。人より若さが保てて長生きとはいえ、いきなり体にガタが来ることもあるし。それにこの目の悪さは本当にどうしようもない」
「そういえば新淵さんも、老眼鏡だって言ってましたもんね」
言ってから、余計なことを口にしたと思った。失礼だし、新淵さんの歪な老いを認識してしまう。
「俺のは老眼じゃないけどね」
ぱたんと音を立てて、文彦さんは本を閉じた。
「戦争の後遺症だから。ずいぶん長いお付き合いなの」
重い事実を口にして。文彦さんは息を吐く。
「失明しなかっただけ、ましなんだろうけど。手足とか、命も失った人もだいぶ、いたはずだし」
私の知らない時代の、知らない世界のお話。
新淵さんは徴兵がなかったということだけど、その時代を生きていたし。
文彦さんは、壮絶なものを見たのだろう。
「まあ俺、何にも覚えてないんだけど」
「……え」
覚えていない。
あまりに昔のことだから。それともつらい経験だから、蓋がされているのか。
「リュウさんに消してもらったからね」
「消し、て?」
「記憶」
記憶、を、消す。
意味がわからなくて、ただ聞いた言葉を頭の中で繰り返した。
「知らなかった?」
「言ってなかったっけ」
文彦さんと新淵さんが同時に口にした。私はただ頭を横に振る。
「僕の魔眼の効果は、人の記憶を消すこと」
私は新淵さんの瞳を見つめながら、ただ呆けた。
「魔法をかける相手の目を、見てね。見つめることで相手の記憶を消す魔法をかけるの」
自分の記憶を消すこともできるけど、と、新淵さんは軽く口にする。
「え、だって。新淵さんの魔眼の効果は、私と同じだって。人の記憶を見ることができるものだって、言ってたような」
「んー。それって記憶を消す魔法の、副次的な効果なんだよね、僕の場合。相手の記憶が見えなきゃ、どんな記憶を消せば良いのかわからないもの」
確かに、繋がっている事象のようではある。理解はできる。
「ちょっと嫌な感じがしちゃうかな、記憶を消す魔法なんて」
「そんな、ことはないです」
私は慌てて首を振った。
ただ、魔法使いが操る魔法の不思議さは、私にとってはあまりに未知で。だから、驚いてしまっただけで。
「文彦くんもちょっと、後悔してるもんね」
「まあ、少し。でも自分で頼んだことですし、リュウさんのことは恨んじゃいませんよ」
どこか遠くを見つめるようにして、文彦さんは言った。
「俺は戦争で随分、悲惨な思いをしたらしくて。終戦後、トラウマ……現代だとPTSDってのがふさわしいのかな。それに大分、苦しめられたらしくて」
聞くのが怖い。けれど誰かが、そう確か、実際につらい思いをした人が。語っていた。テレビの中とかで。
「支えてくれようとした家族にもかなり、ひどかったらしい……ので、従軍中の記憶をリュウさんに頼んで、全部消してもらったのね」
ひょこりと現れた白ちゃんが、テーブルに飛び乗る。文彦さんの顔をのぞき込むように、首を傾けた。
「おかげで心の方は、だいぶ落ち着いたよ。まあ奥さんには、結局逃げられちゃったけど」
文彦さんは自分の使い魔のつがいだった白ちゃんの頭を、指先でかりかりと撫でてやる。
「それなりに真っ当な人間の道に戻れたから、記憶を消してもらって良かったとは、本当に思ってるんですよ。ただ、ただね。みんな言うじゃないですか。風化させちゃいけない、忘れちゃいけないって」
そうテレビの中の人も言っていた。記憶は、残さなくてはならないと。
「まあ確かに、普通の人間は俺らみたいに長生きできないんで。ずっと生き証人にはなれないですしね」
「長生きな分、しんどいこともあるじゃない。そんなに背負うことないよ。文彦くんも、僕も、お互いに」
文彦さんは少しだけ苦い顔で、笑う。
「スウちゃん、大丈夫?」
なにを、どう、受け止めていいのかわからない私は、きっとひどい顔をしていた。
「ああ、悪いね。こんな暗い話して」
文彦さんが申し訳なさそうに言う。
本来なら、過去の過ちや苦しみのことを、若者にも知ってもらいたいと思う立場の人だろうに。
「スウちゃんは優しくて、いい子だもんね」
優しいだとかいい子だとか、新淵さんが言ってくれるのが嬉しいだなんて、こんな状況でも思ってしまった。
文彦さんがやっぱり微妙な顔つきでこちらを眺めていたから、また顔に出ていたのかもしれない。
「しんどいよね、こんな話は」
頭はさすがに、撫でられなかった。それでも同じくらい温かな眼差しを、私に注いでくれる。
記憶って、人にとってなんなのだろう。苦しめられもするのだろうけれど。
私は今、この時を、忘れたくなかった。
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