ネイルと女子会 -Ⅰ
アスファルトの歩道を照らすLED照明は、夜を追いやるほどに明るい。とても心強いけれど、地上まで月の光が届かなくなってしまうな、なんて思う。
夜空は街の明かりにうっすら白むけれど、闇を濃くしている上空高くまで見上げれば、まあるい月がぽっかりと浮かんでいる。
月を見つければ、嬉しい。
嘘じゃない。詩人になったつもりだってない。
好きなものを見つけたら、幸せだ。
――月が好き?
問われてはっきりと返した『好きです』という言葉に、自分で戸惑ってしまったけれど。
それだって、嘘じゃない。
「うー……」
とはいえ自分の気持ちに堂々と胸を張れるほど、強くもないので。こんな道端で足を止めて、思わず唸ってしまうのだった。とりあえず周囲に人がいなくてよかったけれど、人通りの多いところに出るまでに気を落ち着かせなければ。
(今日は、大変だったな)
冷静になろうと頭の中を整理し始めたら、目まぐるしかった一日のことが巡っていった。
人と言い合いになってしまった。争ってしまった。
感情を乱されたし、嫌な思いもしたけれど。それは多分、自分だけじゃないから。少し頭を冷やしたら、もう一度、香坂くんのことをちゃんと考えてみよう。
そんなことを思いながら駅に向かっていたら、まさしく香坂くんの家の前を通りがかった。いつもの通り道にあるんだから、当たり前だ。
明るい玄関先。玄関照明は街灯の白い光と違って、オレンジ色の明かりが暖かい。これもお母さんの趣味なんだろうか、クラシックなガス燈風デザインの照明器具がぴったりだった。
花たちは夜を迎えて眠っているみたいに、揺れもせず大人しくしていた。
花に囲まれたおうち。
香坂くんは、どんな想いで花を眺めるんだろう。
人の命が、儚い花の姿に見えてしまう彼は。
香坂くんの切ない事情に想いを馳せて、けれど同時に険悪な雰囲気になってしまったことも思い出してしまう。
向き合ってみようとは思うけれど。それでも気持ちの持ちようがわからなくなってしまって、足早にその場から離れた。
市役所通りへと出ると、月は見えなくなってしまった。人工の光が明るいからではなくて、単に建物の影に入ってしまったからだけど。だから上を見上げるのはやめて、人や障害物にぶつかったりしないように真っすぐ前を見て歩く。
市役所通りは繁華街ではないから落ち着いてはいるけれど、それでも人の出入りが限られる住宅街よりは心細さを感じずに済む。まだお店だって開いているし、市役所は閉庁している時間だけど、図書館は開館中で明るかった。
歩道ぎりぎりまで迫った車道を走る車が、赤いテールランプの尾を引いて去って行く。
(香坂くんは事故がきっかけで魔眼が目覚めたって、言ってたっけ)
やっぱり歩道にガードレールがないのは危ないと思う。うちの高校の生徒だって、つい広がって歩いてしまっているし。
役所の入り口からちょうど、小さな女の子が出てきた。一緒にいた母親らしき人の、注意する声。それこそもし、歩道に車が乗り上げでもしたら。
「……った」
突然、頭の片隅が痛んだ。不吉な想像をしてしまったせいで、神経に障ったのだろうか。
それに今日は、頭痛に悩まされていた頃みたいな不安な気持ちになったし、ちょっと泣きすぎたかもしれない。
それでも最近は、薬を飲んだり横になったりしなくても、落ち着くようになったから。目をつぶって、痛みが遠のくのを待つ。安らぎをもたらしてくれる胸元のレンズを探って、服の上からぎゅっとつかんだ。
「澄花ちゃん?」
市役所の入り口の方に身を寄せて立ち止まっていたら、いきなり名前を呼ばれた。閉じていた目を開いて、瞬きしながらぼやける視界のピントを合わせる。
「やっぱり澄花ちゃんだ。久しぶりだね」
「南波さん」
薬指に指輪が光る左手をひらりと振って、南波さんは駆け寄ってきた。
銀の月眼鏡店で出逢った、魔女さん。
新淵さんと同じく永い時を生きる人。
今日は一人なのか、使い魔のトコちゃんを連れたキャリーバッグらしきものは持っていなかった。
「こんな時間まで学校? 大変だね」
「いえ、新淵さんのところにお邪魔した帰りで」
「あらま。やあね、あいつ。こんな暗くなるまで、女の子引き留めちゃって」
南波さんはすっかり暗くなった空を、睨むような目つきで見上げた。
「私が長居しちゃっただけで」
「……あれ、澄花ちゃん。なんかちょっと、目が腫れてない?」
私と目を合わせるように、南波さんは上体を傾けた。南波さんはヒールの高いパンプスを履いているので、私より目線が高い。
「それにちょっと、涙ぐんでるし。なに、どうしたの。何かあったの」
ストレートに尋ねてくる南波さんは、遠慮がないと言えばないし、頼もしいと言えば頼もしい。新淵さんとは気遣いが、また違う。
それにしても、私の目元はそんなにひどいことになっているのだろうか。確かに瞼は重いけれど。涙ぐんでいるのは、今ちょっと頭痛をこらえていたからで。
「……澄花ちゃん、それ」
顔をこわばらせて、南波さんは視線を下げた。南波さんに誘導されるように、私も自分の胸元を見下ろす。
「あれ、リボン外れかかっちゃってる」
制服リボンの留め具が外れて、かろうじて胸元にとどまっている状態になっていた。よく見れば、シャツのボタンも糸が千切れかかっている。
さっきといい、今日は不安になるたびに、リボンの下あたりに滑り込んでいるレンズを握っていたから。きっとリボンとシャツに、ずいぶん力を加えてしまったんだろう。
「え、ちょっと。澄花ちゃん、大丈夫? あのバカになんか変なことされてない?」
「ふえ?」
迫真の表情で、ちょっと意味の解らないことを聞かれるものだから、妙な声が出てしまった。あのバカって、なんのことだろう。変なこと、とは。
「妙なことされそうになったら、ちゃんと拒否するんだよ。殴ってもいいし、ほんとに危なかったら逃げて。通報したっていいんだからね」
「あの、南波さん。言ってることが、よく」
「好きとか嫌われたくないとかじゃないよ! もっとこう、自分を大切に」
「南波さん」
「よし澄花ちゃん、おばちゃん今から殴り込みに行ってくるわ」
「南波さん!」
なんだかよくわからないけれど、南波さんが今にも、誰かに拳をふるいに行きそうな勢いだったので。私は大声で、南波さんを制止する羽目になったのだった。
「よっし。限定のシーズナルドリンク、まだ売り切れてなかったー」
南波さんは、ホイップクリームが山盛りになったドリンクを片手に席に着く。
なぜかいきり立ってしまった南波さんをなだめるために、駅の中にあるコーヒーチェーンへとやってきた。
私はとにかく落ち着いてほしいと繰り返して、そうしたら南波さんが、何か飲みたいと言い出したのだった。座って落ち着いて、話をしましょうということらしい。
店内はどことなく、夜の空気に満ちている気がした。まだ夕飯の時間帯くらいで、そんなに夜が深まっているわけでもないのに。間接照明のせいか、彩度を抑えた内装のせいだろうか。学校に仕事に、家事に買い物に、一日の締めくくりに訪れている人が多いからかもしれない。
私と南波さんは、向かい合って席に着く。
「遠慮しないで、澄花ちゃんもこっちにすればよかったのに」
自分で買うからいいと言ったのに、南波さんは私の分のお会計も一緒に済ませてくれた。確かに高い飲み物を買うことに抵抗もあったけれど、それ以前に。クリームにキャラメルソースとクランブルの降り注いだ、見るからに甘そうなドリンク、そのボリューム。すでにカフェオレとお菓子を頂いた後では、入りそうもない。ごくごく普通の、アールグレイの紅茶を選んだ。
「ちょっと写真だけ取らせてね」
そう言いながら南波さんはスマホのカメラを起動して、ドリンクに向かって構える。
新淵さんも宅配便とか、ある程度は現代のツールを活用しているようだけれど、南波さんはずっと自然にそれらを使いこなしていそうだ。
鏡面仕上げのブルーのスマホカバーが、店内の照明を弾く。南波さんに一瞬の緊張が走ったのち、スマホがパシャリとシャッター音を響かせた。
「よし、良い感じ。あとでアップしよ」
「南波さん、SNSとかやるんですか」
「やるよー。あとでアカウント教えてあげる。まあ写真上げまくってるだけだけど」
そのまま南波さんが見せてくれたカメラロールは、八割がトコちゃんの写真で埋まっていた。時々スイーツとかお料理とか美味しそうなもの、洋服とかコスメとかおしゃれなものの写真が混ざっている。
「魔法使いがSNSなんて、なんだか意外ですね」
「別に魔法について発信してるわけじゃないけどね。それに私がやってるやつは、アカウント作るのに身分証明いらないから、特別な根回しとか策とか講じなくていいし」
南波さんは悪戯っぽく笑う。
「『十八歳以上ですか?』の質問なんて、余裕でクリアよ」
ちょっとしたブラックジョークみたいな言葉。それでも私は、南波さんの明るい雰囲気に引っ張られて笑った。
「南波さんは、もしかして新淵さんのところに行くんだったんですか」
ドリンクを飲んで一息つく。
私が泣いていたことについて話した方がいいのだろうけれど、会話の切り口がつかめないでいた。黙っているのも、かといって南波さんから切り込まれてもうまく話せるかわからなくて、別の話題を続ける。
「ううん。今日はね、美容院に行ってきたの」
南波さんは綺麗に巻いた髪の毛先に触れた。セットしたばかりであろうつやつやの髪は、南波さんの指先で小さく弾む。
「え、あ、気づかなかったです」
気まずくなって、思わず早口になる。南波さんは眼前で、仰ぐように手を振った。
「毎日会ってるとかじゃないんだから、気づかないって。旦那はすぐ気づいてくれる人だったから、髪とか服とか気合の入れがいがあったけどねー」
南波さんはとても綺麗な人だ。
大袈裟に身を飾ったりはしていない。けれど隙なく自然に施されたメイクも、すっきりとしたラインのパンツスタイルも、つんとしたつま先のパンプスも、どれも素敵だった。無理もしていないし、綺麗にしているのが好きなんだろうなと感じる。
「ずっと通ってたお店、家族でやってるところなんだけどね。最近、よそで修行してた娘さんがスタッフに入って。それで、この機会にお店を変えようかなって」
「ああ、スタッフさんが変わって、技術が落ちてしまったとかですか」
「ううん。娘さんはね、良い腕してるみたいよ。私を担当していたお母さんの方、オーナーもね、まだまだ現役だし」
南波さんはホイップクリームを、一口掬い取る。こぼれないかな、と心配になって、私はそわそわと南波さんの手元を眺めていた。
「娘さんね、私がお店に通い始めた頃は、まだお腹の中にいたのよ」
スプーンでつつかれたクリームが、キャラメルラテの中に沈んでいく。言葉を返せないまま、私は南波さんの顔を見上げた。
「もうそんなに長い間、通ってたかなあって。オーナー、若々しいからねえ。でも老けたよね、やっぱり。私はほら、老け始めたとはいえ二十年以上ほとんど変わりがないから。そろそろ引き時かなって」
引き時。
きっと周囲が、魔法使いの奇妙さに気づき始める頃のことだろう。素性を明かせない魔法使いの、世の渡り方。
黙ることしかできない私に、南波さんは変わらず笑顔を向ける。
「それで、色々良さそうな美容院探しててさ。で、最近、眼鏡屋にたまに遊びに行くじゃない。そのついでにこの辺散策してて、良い感じのお店を見つけたから、今日は行ってみたの」
「ああ、それで」
「そこの美容院ね、ネイルやっててね。見てみて、良い感じでしょ」
南波さんはテーブルを覆うような手つきで、両手の指を広げる。綺麗な形に整えられた爪は、つやつやと光るマニュキアに美しく彩られていた。
「わ、綺麗」
「でしょでしょ」
ブラウングレーの、秋らしいカラーが大人っぽい。両手とも人差し指の一本ずつ、爪先にゴールドのラインストーンが控えめに光っている。
「好きなのよねえ」
自分の目の高さに指先を持ち上げて、南波さんは言った。
「魔法って、指先で使うものなんだよね。魔眼みたいのもあるし、ケースバイケースだけど、基本は指先に魔力を込めるものなの」
魔法を操る、綺麗な指先を思い出す。
レンズの上を滑る、私に触れる。
私に光のような、熱、みたいなものをくれる、長い指。
「だから爪が綺麗だと、テンション上がるんだよね」
今はあんまり魔法使う機会ないけど、と笑う南波さんの指の隙間に、新淵さんの姿が見えた気がした。
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