眼鏡屋の物想い -Ⅰ
店の外へ出ると、もう月が昇っていた。
「ずいぶん日が短くなったなあ。今日はずいぶん引き留めちゃったしね」
傍らの少女に声を掛ければ、スマートフォンを操作しているところだった。遅くなったから、家に連絡でも入れたのかもしれない。
「いいえ。長居しちゃって、すみません」
スマートフォンの画面から目を離して、少女はぱっと顔を上げる。
少女と出逢ったのは春のこと。それから季節は移り変わって、秋が訪れようとしていた。昼と夜の長さだって、変わるだろう。
「こんなに暗くなっちゃって、大丈夫かな」
時間としては、学生が歩いていてもおかしくない時分だ。けれど大人として、駅まででも送ろうかなどと考える。
「大丈夫ですよ。家に帰ってくる人が結構歩いてますし、市役所通りに出るまでの道は十分明るいですから」
確かに最近の街灯はとても眩い。夜を白く染めるほどに。
魔法も神秘も入り込む隙がないような、明るく整った世界を嘆かわしいとは思わない。安全で生きやすい世の中なのは良いことだ。
「今日は月も、明るいですしね」
なんて言いながら、もはや月明かりよりも地上の明かりの方が、はるかに頼りになることも。生まれながらに少女は知っていて、特別ありがたがることもないのだろう。
「今日は満月かな」
丸く膨らんだ、空に浮かぶ月。そういえば随分と久しぶりに、月なんて見上げた気がする。
「綺麗ですね」
並んで月を眺める少女が笑った。
つい先ほどまで泣いていた少女が細めた目は、まだ腫れが引かないけれど。それでもどこか幸福そうに笑うのだった。
「月が好き?」
「好きです」
視線がぶつかって、少女の重たくなった瞼は惑うように瞬いた。気まずそうに顔をそらしてしまう。
この自己主張の苦手な女の子はどうも照れ屋らしく、交流を温めてもいまだ戸惑うような仕草が多い。そのまだ幼さの残る横顔や、それでもまっすぐ前を向こうとしている一生懸命さは、微笑ましくもあるし、可愛らしい。
けれどその素直さをまともに受け止めるには、老いすぎたと思う。肉体ではなく、心の方が。
隣で少女が、小さく息を吸った。
「……初めて逢った時。新淵さんって、月みたいだなあって思ったんですよ」
目は合わせずに、その瞳は月を捉えながら少女は言った。
「うん? どのへんが」
「眼鏡が、満月みたいに綺麗な丸をしているじゃないですか。銀色なのも、月の色にぴったりで」
「なんだ、眼鏡の形と色ね」
「それだけって、わけじゃないんですけど……」
何か言葉を探すように口ごもる。少女が思案している横で、もう一度夜空を見上げた。
「星みたいって言われたことは、あるけど。誰だったかな」
もう覚えていない、どこかの誰かが言ったこと。星がよく見えるくらい地上が暗かった、遠い昔に言われたのか。
「星ですか」
「うん。星みたいに、いつの間にか流れて消えそうだって」
街中にあるこの場所に、届いてくる星明かりは少ない。数えるほどだ。流れ星だってまず見つからないけれど、今夜も消える光があるのかもしれない。
「言いえて妙だよね。流れ星って、何白年とか、何千年とか、下手したら何万年も前の光が燃え尽きてるんだから。星は誰も知らない時間の中で、生まれた時とは全然違う時代の中で、消えていくんだろうね」
宇宙に人間の尺度を当てはめても、どうしようもないけれど。普通の人間と同じ時の流れの中で、魔法使いの生きる時間を語るのだって難しいのだから。それを星に当てはめたのなら、よくできた例えだと思う。
「そんな、こと」
揺らぐような声に視線を下げれば、少女は不安そうに眉を寄せていた。
ちょっと感傷的な物言いだっただろうか。少女は繊細で、他人が悪く言われたことにも、心を痛めるような子だから。燃え尽きるとか消えるだとかの儚い言葉に、動揺してしまったのかもしれない。
「ごめんごめん、変なこと言って。僕に星みたいって言った人も、そこまで深く考えてないと思うよ。それにいくら魔法使いだって、星の寿命と並ぶほど生きるなんてことは、さすがにありえないから」
自分が生きる永い時よりはるかに膨大な時間、月や星は空にあり続けるのだろう。さすがに、そこまでは。
「月も星も、明るくて綺麗。それだけでいいもんね」
月は丸くて、銀色に光る。かけている眼鏡みたいに。それだけの、例えるならそれくらい単純な事柄でいい。
「……月が、明るくて、綺麗で」
言葉の一つ一つを探すように、少女が言う。
「空に浮かんでるのを見つけると、ちょっと、嬉しいじゃないですか。慰められたり、励まされたりするんです」
少女はこうして時折、懸命に心の内を伝えようとする。
青臭いとも眩しいとも思わない。胸を打たれはするけれども、それは重い衝撃ではなく。
「月の光は、優しくて。新淵さんみたいだなって、思うんですよ」
もっと温かく、やわらかに触れてくる。
「詩人だね、スウちゃんは」
大して気の利いていない感想を口にすると、少女は恥じらうようにうつむいてしまった。
「ああ、ごめんね。茶化したわけじゃないんだよ。ただちょっと、照れくさいかなって」
気まずさをごまかすように、右手で仰ぐような仕草をした。照れたのは確かであったし。
「……言ってて私も、だいぶ、恥ずかしいですけど」
それでも想いの丈をぶつけてくれたのだ。後ろ向きなことを言った、老魔法使いのために。
「ありがとうね」
宙を仰いだ右手で、再び少女の頭を撫ぜようとしたら。
(気を持たすようなことは、やめた方がいい、だっけ?)
見上げてきた、どことなく熱っぽいような瞳に、唐突にそんな言葉が頭をよぎって。
「……それじゃあ。気を付けて、帰ってね」
彷徨った右手を、挨拶とともに振るにとどめた。
「はい。お邪魔しました」
少女もその小さな手を、軽く持ち上げて振り返してくれる。月よりも明るい街灯が照らす帰路へつくその姿が、角を曲がって見えなくなるまで見送った。
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