秘密のバックヤード -Ⅱ

「わ……」

 目に飛び込んできたのは、柔らかな黄色。

 視界の一面に、明るい黄色の花が揺れていた。

 空は広く青くて、花畑の向こうまでを染めている。淡い色の花びらと、花を支える細い茎と葉の緑が織りなす絨毯は、優しい色。

「庭っていうより花畑だけど、まあいいか」

 あたりを見回して、新淵さんが言う。

「これは、魔法ですか」

「急ごしらえだから、あんまりもたないかもしれないけど」

 新淵さんの魔法や私の魔眼が見せる景色は、ものすごくリアルな幻覚のようなものの気がする。実際に空間を飛び越えていたりする、なんてことはないと思うのだけれど、よくはわからない。

「外で飲み食いするの、ちょっと楽しいじゃない」

 そう言って新淵さんは、その場で腰を下ろした。私の座っていた丸椅子は木製のガーデンチェアみたいなものに変わっている。雨ざらしになったような風合いさえ味のあるその椅子に座っていると、地べたに直接座った新淵さんを見下ろすようになってしまう。なので私も椅子の前、新淵さんの隣にそのまま座ることにした。

 レジャーシートじゃなくて、大きなブランケットみたいな、布製の敷物が敷いてある。濃い緑のタータンチェックのそれは柔らかくて、座ったらなんだかちょっと、落ち着いた。

「冷めないうちに、どうぞ」

 新淵さんは自分もマグカップに口をつけた。私のものと違ってブラックのままのコーヒー。

 私もマグカップを口に運んだ。ミルクと砂糖たっぷりの甘いカフェオレ。時間だとか空間だとか、いろんなものを飛び越えていそうなカフェオレは、確かにまだ温かい。

 ただ黙って、カフェオレをすすった。花畑が綺麗だったから、ただぼうっと眺めているだけで良かった。カフェオレを飲んだ体は温かくて、口の中は甘くて、隣には新淵さんがいて。もうそれで全部、良いじゃないかとさえ思いながら。

 少し、強い風が吹いた。一斉に揺れた黄色の花は、どうやらコスモスらしい。風に可愛らしく揺れる姿を、どこかで見たような。


「……香坂くん、の」

 もういいんじゃないか、と思ったのに。

 なかったことに、しようとしたわけじゃない。ただ今、この心地よい空間を壊したくはなくて。だけど、今ここでなら、少しずつ吐き出せそうな気もして。

「光る、ガラスの花みたいなの。どういう意味があるか、知ってますか」

「うん」

 はっきりと肯定した新淵さんの目は、どこか気遣うような眼差しだった。

「トウくんの見ている花はね。人の命とか、魂とか、そういうものを表してるらしい」

「いのち」

「うん。人の胸のあたりに咲いていて。人が生きている間は、綺麗に咲いているんだけど。でも死んでしまう時に、砕けてしまうんだって」

 花が砕ける光景。

 私も見た。香坂くんの記憶の中に。

 儚くて、きらきらして、美しい散り様だった。

「香坂くん、交通事故に遭った時に魔眼が目覚めたって」

「うん。死者も出る事故だったってね」

 ああ、だったら。それは、そういうことなのか。


「私、何にも知らないで」

 私の言葉は、きっと死者への冒涜のようだったのだろう。人の死を美しいと言ったのだ。死の瞬間を、見てしまった人に。

「知らないうちに、香坂くんを不愉快にさせるようなこと、たくさん」

 魔法に傷つけられた人に、魔法が素敵だと言った。

「でも、だって、知らないものそんなこと」

 察してあげられれば良かったんだろうか。人には人の事情があると、ちゃんと考えるべきだったのだろうか。香坂くんが態度を硬化させたときに、自分の振る舞いや言葉が、相手を不快にさせていると気づくべきだったんだろうか。

 私は友達の少ない人間だ。人づきあいが下手な人間だ。だからきっと、私は失敗をしてしまって。


「スウちゃんが悪いんじゃないよ」

 落ち着いた声が、波立つ心を凪いだ。

「人がどんなものを抱えているかなんて、わからないもの。しかも魔眼にまつわる事情なんて、察しようがない」

「何も知らないくせにって。香坂くん、すごい剣幕で」

「知らないのは、お互い様じゃないかな。スウちゃんもトウくんの事情を知らないで、怒らせたかもしれないけど。トウくんだって、あの調子じゃスウちゃんにずいぶん色々、言ったんでしょう。初対面で何も知らない相手にそれじゃあ、やっぱり良くない」

 ゆっくりと、丁寧に、新淵さんは言葉を紡ぐ。

「仲良くするもしないも、さっきの言い争いのことも、二人の間のことだから。とにかくこの先二人が同じ学校で過ごす中で、大きな問題を抱えることになるんじゃなければ、どうしたっていいんだろうけど」

 紡がれる一言一言を、自分の中に取り込みながら。

「少し事情を知ったところで、相手のことをもうちょっと考えてみようって思えたなら。歩み寄ってもいいかもしれないね」

 誠実な言葉をかけてくれる。その誠実さに応えたいと思うから、やっぱり私はもう一度、香坂くんと話をしたい。

「まあ、トウくんが歩み寄ってくれるかは、それも本人の自由なんだけどね」

「はい」

 それは多分、私にどうこうできることじゃない。ただそれでも、一度は向き合ってみようという気持ちには、なれたのだった。


「それにしても、スウちゃんって案外大きい声がでるんだね。さっきびっくりしちゃった」

 私が香坂くんに怒鳴りつけたのを、どうやらばっちり聞かれてしまっていたらしい。何を騒いでいるの、と言っていたのだから確かだろう。

「よっぽど腹に据えかねちゃったんだねえ」

 新淵さんの言う通り、あの時は本当に頭に血が上ってしまった。

「香坂くん、私がお店にいくことを保健室通いみたいなもんだって。私、もうどこかに逃げてるつもりなんて、ないのに」

 銀の月眼鏡店と、新淵さんに勇気をもらって、ちゃんと歩けるようになった。

 それなのに、私は馬鹿にされた。 

「トウくんは結構考え方がシビアだからなあ。それに僕のほうからスウちゃんに、お茶でもしにおいでよって誘ってるのに」

 それに喜んで、会いに来ているのは私の意思だ。それをとやかく言われる筋合いなんてない。

「だからいつでも、遊びに来て良いんだよ」

 こんなにも優しい、私の大切なものまで、馬鹿にされた。

 甘い甘いお菓子と、温かい飲み物をくれる。素敵なものを見せてくれる。

 心をほどいてくれる。


「……新淵さんやお店のことまで信用できないって、香坂くん、言うんです」

 ああ、言ってしまう。

 一人で抱え込んでいることができない。言わなくて良い、そう思うのに、結局。

「そっか。まあ実際いうさんくさいからなあ、僕は」

 新淵さんに、自分で自分のことをうさんくさいだなんて言わせてしまった。香坂くんの暴言を、私が一人で飲み込んでさえいればよかったのに。

「そんなこと、ないです。私はずっとずっと、新淵さんに救われてます」

 自分への批判を聞いてしまってなお、新淵さんは穏やかに笑う。きっと気を遣わせてしまっている。

 そうやって救われているのは、いつだって私だ。

 保健室を卒業したなら、前に進み始めたなら。

 今度は私が、やれることだってあるはずだ。

 具合の悪い人がいるなら、手を貸して。

 寂しい人がいるなら、寄り添って。

 誰かのために。


「僕のために怒ってくれて、ありがとう」

 思わず首を降った。

「違う、違うんです」

 ありがとうなんて違う。

 私は自分の居場所を、否定されたくなかっただけだ。

 それで本当に、新淵さんのためだったって、言えるんだろうか。ひとりで怒りも悔しさも、悲しさも、飲み込んでおくことができなかったくせに。

 こんな散らかった想いを口にしたって、新淵さんを困らせるだけだろう。それにこんなに混乱してたら、うまく話せる気なんてしないのに。

 だったらせめて、心配かけないように、顔を上げて。


「うん。ちょっと色々、考えすぎちゃったんだね」

 大きな手が、優しく頭を撫でる。今度は眼鏡じゃなくて、直接。

 それなのに、心臓が爆発しそうな高揚はなかった。もっと穏やかな温もりが、身体中を巡る。

「そりゃあね、訳がわからなくもなると思うよ」

 鼻の奥と、喉が痛い。目頭が熱くなる。

 確かに、もう、わけがわからない。

「こう、さかくん。めちゃくちゃ怒鳴ったんですよ」

 誰かとあんなに、言い争いになったことなんてなかった。ましてや男子、男の人、相手なんて。

「怖かっ、たああああ」

 新淵さんの手が優しくて、ただもう、泣いてしまった。

 家族の前でしか、こんな泣き方したこと、なかったのに。

「うんうん、頑張った頑張った」

 ぽんぽんと、頭の上で軽く弾む手のひら。

 あんまり泣いたら、涙を拭うのに眼鏡をはずさなくてはならない。

 そうしたらきっと、魔法は解けてしまう。

 それなのに安堵に緩んだ涙腺は、涙をなかなか止めてくれそうにない。

 涙に滲む、淡い黄色の色彩。

 一面のコスモスの花が、慰めのように揺れていた。

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